第4章

第22話 ネヴィレッタの戦い

 開戦から四日が経過した。


 ネヴィレッタがフナル山に到着した時、交戦地点は山の西側から東側へ移っていた。


 連なる尾根のこちら側は火の魔法によって文字どおり焼け野原になっている。木々は焼け爛れ、下生えは一掃されていた。


 それでもメダード王国軍の抵抗は激しかったらしい。


 魔法使いの脅威に囲まれても、彼らは諦めなかった。フナル連峰の東側にある平原に改めて陣を築き、ガラム王国軍に山を下りさせないよう気を張っている。


 一方優位に立っているはずのガラム王国軍のほうが自壊し始めた。


 魔法使いたちが力尽き始めたのだ。


 一度に複数人を攻撃するための大掛かりな魔法を連発している上、敵の突発的な襲来に備えて昼夜分かたず活動している。一応交代制で任務に当たっているという建前だが、戦場にあってそれが厳密に守られるはずがなく、食事や睡眠もままならない。


 ネヴィレッタは魔力が有限であることをまざまざ突きつけられた。知識としては知っていたが、自分が魔法を使えないのでぴんと来ていなかった。テントで作られた即席の野戦病院で転がって呻いている魔法騎士たちを見てから初めて真に迫って理解した。


 野戦病院といっても、ほとんどは魔法の使い過ぎによる過労で倒れた魔法使いだ。顔色が悪く呼吸もおかしい人ばかりだが、生々しい傷は目の当たりにせずに済んだ。隙を突かれて敵兵に銃で撃たれた人は別の場所に移動したらしい。


 従軍看護師のある人が言った。


「ご令嬢に血を見せるわけにはまいりませんので」


 その冷たい態度を見て、ネヴィレッタは自分が歓迎されていないことを知った。きっと自分を受け入れるために病院のあり方のほうを変えたのだ。


 こんなにも苦しんでいる人がいるのに――もっと直接的に傷ついている人もいるのに、自分だけはのうのうと過ごしている。


 ここでも何もできないのか。


 ネヴィレッタは自分を奮い立たせた。


 強くなるのだ。エルドを心配させないよう、エルドの隣にいても違和感のないよう、何かをするのだ。

 できるかできないかではない。するかしないかだ。

 せっかく来たのだから、何かはするのだ。


 看護師たちに頭を下げた。


「何でもします。指示をください」


 看護師たちが「そうはいってもねえ」と冷笑する。

 怖気づいてしまいそうになった。ネヴィレッタは歓迎されていないという状況に弱い。迷惑がられていることを敏感に察してしまう。

 気づかなかったふりをするのだ。何でもするということは、きっと、何も気にしないということなのだろう。


「洗い物もします。食事の支度もします。わたし、ほんとうに、何でもします」

「そんな簡単な仕事じゃありませんよ」

「ではせめて声掛けをするだけでも」


 本当は、自分から誰かに話しかけることも恐ろしいのだけれど、


「オレーク侯爵家の娘が気にかけているということを、伝えるだけでも」


 どんなに小さなことでもいいから、役に立ちそうなものはすべて使う。数少ない持ち物を、今、すべて開放する。


 やり取りを聞いていたらしい、少し離れたところにいた恰幅のいい年配の女性がこちらに歩み寄ってきた。その険しい表情にネヴィレッタは身構えたが、彼女はネヴィレッタの近くまで来るとこんなことを言った。


「そんな恰好じゃ何もできませんよ」


 ネヴィレッタはドレス姿だった。普段着ているものと比べれば簡素でコルセットもしていないが、それでも上質な生地で足首まで覆う服装なのには違いない。

 しかしネヴィレッタはそう言われることを想定していた。以前エルドに二人で森に入るのに動きやすい恰好をと言われて困った経験が役に立った。世の中には動きやすい恰好というものがある。


「今すぐ着替えます、汚れても大丈夫なものに」


 はっきりと言ったネヴィレッタに、彼女は目を細めた。


「誰もお着替えを手伝える人間はおりません」

「一人で着替えられます」


 少し強い語調で言った。胸を張り、腹から声を出した。

 看護師の女性が、頷いた。


「わかりました。支度をなさってください」

「それから」


 勇気を、振り絞る。

 自分は今から、働くのだ。


「丁寧な言葉を使うのもやめてください。わたしを看護師の新米だと思って年下の娘に話しかけるように接してください」

「そうかい」


 彼女は口調を改めた。


「じゃあびしばしやるよ。覚悟しな」

「はい!」

「早く着替えなさい」

「はい、着替えてきます!」


 最初の関門は乗り越えられた気がする。

 だがここからが本番だ。

 ネヴィレッタは急いで看護師たちの控えのテントに移動し、ドレスを脱ぎ、木綿のズボンとワンピースに着替えた。




 抵抗がなかったわけではない。病人の看病も老人の介護もしたことがなかったネヴィレッタが倒れた魔法騎士の青年の食事の介助をするのは覚悟の要ることだった。他人の食べ物に触れる、口元が汚れたら拭く、しかも知らない男性の、と思うと震えてしまいそうになる。けれどまだまだ序の口だ。


 細かく砕いてとろみをつけた食事をスプーンで運びつつ、ネヴィレッタはがんばって微笑んでみせた。すると介助された相手はスプーンに口を寄せてくれた。


「どうぞ」


 咀嚼さえままならないのがもどかしい。人間として生きることとはどういうことなのか考えさせられる。ここまで消耗させられたことのない自分は幸福ではないかと思えてくる。


 彼の口からこんな言葉が出た。


「ありがとうございます」


 小さなしわがれた声だった。けれど彼は確かにネヴィレッタに向かって礼を言った。それがとてつもなく嬉しかった。もっとがんばろうと思えた。ひょっとして、これが、やりがい、というものだろうか。

 この言葉を貰うためなら、服が汚れても、手が汚れても、構わない。


「姫」


 後ろからそう呼ばれた。

 ここに来てからまだ半日も経っていないというのに、ネヴィレッタはいつのまにかこんな愛称で呼ばれるようになっていた。王女ではないので正確に言えば姫君とは違うのだが、ガラム王国の王家の子供は男性のレナート王子しかいないし、貴族の令嬢なので大雑把なくくりで言えば姫かもしれない。最初は恥ずかしかったものの、ネヴィレッタはいつしか受け入れていた。


 彼ら彼女らはネヴィレッタの名前を知らない。その事実がオレーク侯爵家の十七年間を端的に表していた。ただ、夕焼け色の髪に朝焼け色の瞳だから、オレーク侯爵家の姫君だということはわかる。それ以上でもそれ以下でもない、個性のない姫という呼称だった。


 ネヴィレッタは振り返った。

 自分を呼んだ青年の顔を見て目を見開いた。唇の端から血を垂らしながらぜえぜえと危うい呼吸をしている。彼の状態が危ないことなど素人のネヴィレッタでも一目瞭然だ。


「水……」


 食事をしていた青年に「ごめんなさいね」と断ってから、食器を置き、こちらの青年のほうを向いた。そして、頭の近くにある木製のコップを手に取った。


 彼も含めて、みんな、枕さえないところで雑魚寝をしている。こんな状態では良くなるものも良くならないのではないか。


 否、今はそれを気にしている場合ではない。ネヴィレッタはぎこちない笑みを浮かべて、「少しだけ待っていてくださいね」と言って膝立ちになった。近くに置きっぱなしだった食事の配膳用のカートから水差しを取る。コップに水を注ぐ。


 彼の上半身を抱え起こした。大人の男性の体は重い。だが負けじと体勢を整えさせてから、コップを握らせた。

 彼の手が震えている。こぼしてしまうかもしれない。

 ネヴィレッタがタオルを手に取ったのとほぼ同時に、彼の服の胸に水がこぼれた。


「だいじょうぶですよ」


 顎や首を拭う。


「だいじょうぶですからね」


 泣きそうだ。


 空になったコップが地面に落ちた。握っていることも困難になったらしい。ネヴィレッタの息が止まってしまいそうになる。


「わたしが拾うわ。気にしないで」


 なんとかコップ以外に飲ませる方法はないかと思案しながらも、もう一杯分注いだ。そして、彼に持たせようとした。

 ところが、彼は今度、コップをつかもうとしなかった。


「もういいんです」


 目尻に涙が滲んでいる。


「せめて最後に、手を握ってくださいませんか」


 求められるがまま、深く考えずに「わかったわ」と答えた。

 地面にコップを置き、彼の手をつかんだ。

 彼が弱々しい力で軽く握り返した。


「おかあさん……」


 ゆっくり、体を後ろに倒す。あおむけに転がる。


 彼が、目を閉じた。


「あたたかい。なんだか楽になってきた」


 ネヴィレッタは泣き叫びそうになったが、落ち着いて、彼の胸の上に手を置いた。


 彼が完全に静かになった。


 ネヴィレッタは彼の手首をつかんだ。脈の取り方を師長に教わっていた。それがひとつの目安になるのだと、無情で残酷なことを教え込まれた。


 けれど――彼の手首に指を置いて、「あら」と睫毛をしばたたかせる。思っていたよりしっかり拍動している。これなら不安はないような気がする。素人判断は危険だとわかってはいるが、そこまで慌てるほどのことでもなさそうだ。


「姫」


 一人が終わったと思ったからか、あちこちから次々と声をかけられる。


「姫」

「姫、どうか私も」

「どうか俺の手も」

「どうか……」

「ちょっと待ってくださいね」


 こんなに求められることはそうそうない。嬉しいやら困るやら、複雑な心境だ。


 とにかく、一回片づけたほうがいい。ネヴィレッタは配膳のトレイをカートに片付けようとした。


 その瞬間、ぐらり、と頭が揺れた。


 最初、目眩かと思った。自分がおかしいのではないかと、働き過ぎで疲れているのかと思った。


 直後だ。


 地面が、縦に動いた。


 周囲からどよめきが聞こえてきた。どうやらこれを感じているのはネヴィレッタだけではないようだ。


「地震だ」


 誰かがそう言った。


 世界が揺れ始めた。


 カートが横転する。銀の食器がぶつかり合い音を立てる。簡易式の棚が倒れ、中に置かれていたものが下にぶちまけられる。


 立っていられない。


 ネヴィレッタはその場に座り込んだ。ややしてさらなる安定を求めて四つん這いになった。


 テントの支柱が折れた。布が垂れ、病院が倒壊しようとした。


「危ない!」


 風属性の魔法使いが力を振り絞って折れた支柱を吹き飛ばしてくれた。おかげで患者やネヴィレッタの上に直接鉄の棒が落ちてくることはなかった。しかし結局テントは崩れ、潰れた。


 ようやく地震が収まった。


 ネヴィレッタは落ちてきた布の下からなんとか這い出た。外の空気に触れる。空は青く晴れ渡っていて何事もなかったかのようだ。

 遠くから控えの魔法騎士たちが駆けてくる。どこからともなく継ぎ足し用の棒を持ってきて、テントを直そうと試みる。


「なんだったのかしら、今の」


 呆然としたまま立ち上がった。


 フナル山が視界に入ってきた。


 信じられないものを見た。


 山が、二つに割れていた。




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