第18話 君の未来のために僕は国という国を滅ぼす
森に本格的な秋が来た。
木の葉が先端から赤く染まっていく。鳥になって上空から見ることができたら世界はきっと今まだら模様になっていることだろう。
鳥といえば、温暖なガラム王国には越冬のために寒冷なメダード王国から飛来してくるものがある。
湖の岸辺で遊んでいる水鳥を見て、エルドが「秋だな」と呟いた。それまでネヴィレッタは秋になると渡り鳥が来ることを知らなかった。エルドは自然とともに生きている。それを感じたネヴィレッタは、自分たちが生きているこの大地の大いなる力を思う。そういう生き方をしてみたい。外の空気をたくさん吸って、季節の移り変わりにこの身をゆだねたい。ヒトの生き物としてのあるべき姿のように思えた。
今日、ネヴィレッタとエルドはきのこ狩りに出た。
エルドの家よりさらに森の奥へ進むと、小さな川が流れている。飲み水を産出する泉から大型の水鳥が飛来する大きな湖に注ぐ川だ。その川べりでは朽ちた倒木や苔むした土が地面を覆っていて、無数のきのこが顔を出していた。
今日のネヴィレッタは、湿った土の上を歩ける木靴、膝丈の動きやすいワンピースの下に裾を絞ったズボンを身に着けていた。長時間動き回ることを想定していないドレスでは野を歩き土に触れるエルドについていけない。家の人間には当然嫌な顔をされたが、この服なら一人で着脱できる。汚れたらいつでも気兼ねなく着替えられるというのはいい。髪もひとつに束ねた。妙にすっきりした気分だった。
エルドも農作業で着ている木綿の服の上にジャケットを羽織っている。首には手拭を巻いている。こうしていると、地域で一番の美青年、くらいの雰囲気で、とても王と王子が奪い合う強力な魔法使いには見えない。素朴で静かな日常生活を送る、どこにでもいる青年の姿だった。
ネヴィレッタが赤いきのこに手を伸ばすと、エルドが「それはだめ」と止めた。
「その赤いのは毒きのこだから触ったらだめだ。手がかぶれるよ」
「えっ。おぼえておくわ」
それにしてもきのこというものは無限に種類があるように思われる。去年兄とオレーク家の領地の森できのこ狩りをした時には見たことのないきのこが生えている。兄はなんでもかんでもとにかく摘んでかごに放り込んでいたが、エルドはきのこの種類をひとつひとつおぼえているのだろうか。
「ほら、ネヴィレッタ」
エルドが自分の足元のきのこを摘んだ。そしてネヴィレッタに見せた。ネヴィレッタはちょっとたじろいだ。ぼこぼこした奇怪な形状のかさだ。
「すごい形ね」
「煮るとおいしいんだよ」
「食べられるの?」
「うん」
彼は嬉しそうな顔をしている。
「これは高級食材なんだよ。高値で売れるんだって。貴族の家に卸すこともあるらしい」
「それじゃわたしも食べたことがあるのかも?」
「きっとね」
優しい手つきで籠に入れる。
「なんだかすごい幸運に出会った気分。いいことがありそう」
きのこひとつでそんなに幸せそうなことを言うエルドを見ていると、胸の奥がきゅんと鳴る。
「それから、ほら」
倒木に生えていた幅の広いきのこを剥く。
「これは細かく裂いて漬物にするとおいしい。パンに塗ってもよし、パスタに和えてもよし、焼き魚に添えてもよし」
想像するだけでよだれが出てくる。
エルドととる食事はいつもとてもおいしい。食材が新鮮なのも、エルドの腕がいいのもあるだろうが、ネヴィレッタは、食事とは親しい人間と楽しくとるとおいしくなるものなのだ、ということを知った。どんな高級食材を使っていても、家族に気をつかい、家族の目を気にしながら食べる料理は味がしないものだ。
「それからこっちの大きなものは半分に切って網で焼く」
「網で焼くの?」
「家の前で火を焚いて鉄製の目の粗い網を乗せてその上で炙るんだ。そしてとろけたバターをかける。もう、最高だよ」
「素敵ね! いつやる?」
「今日これからやってもいいね」
彼が微笑む。
「今日でも、明日でも、明後日でも。こうして暮らせたらいいね」
ネヴィレッタは泣きそうになった。
この時間は永遠に続くものではないのか。いつか終わるのだろうか。こんなにも愛しく楽しくしあわせな時間が、失われる日が来るのだろうか。
こんなにも奪われたくないと思うものができる日が来るとは思わなかった。
ネヴィレッタは怖がりだが、どんなものでも失ったら失ったで嘆くだけで行動を取ろうとはしてこなかった。ヴィオレッタに奪われても、両親に取り上げられても、ネヴィレッタはひっそり泣くだけで何も言わなかったし何もしなかった。
けれどこの時間が失われそうになった時には自分は抵抗するだろう。奪われまいとするだろうし、奪われたら取り戻しに行こうとするだろう。
エルドと過ごす時間より大切なものなんてない。
「泣かないで」
首元の手拭いで手を拭いてから、エルドはネヴィレッタの頬に触れた。いつの間にか涙がこぼれていたらしい。
「僕が守るよ。ネヴィレッタがこうして静かな日々を送れるように」
ネヴィレッタは首をゆるゆると横に振った。
「あなたがいなければ何の意味もない」
涙がほろほろと流れ落ちる。
「行かないで」
エルドが悲しそうな目をする。
「戦争になんて行かないで」
抑えた声の、だが全力の、全身全霊をかけた言葉だった。
「魔法騎士団になんて戻らないで。ここでずっとわたしと暮らして」
エルドが籠を地面に置いた。一歩こちらのほうへ踏み込んできた。体と体の距離が縮まった。
彼が両腕を伸ばした。
抱き締められた。
最初は軽く優しく、それから徐々に腕の力を込めて。
「僕は行くよ」
ネヴィレッタの耳元でささやく。
「君の平和を守るために。僕は戦うよ」
「エルド」
「全部終わったらこの森で二人で暮らそう。バジム王の野望がどこで終わるかわからないけれど。世界中がガラム王国になるまで終わらないのかもしれないけれど。その時はその時で、世界中の国という国を滅ぼすまで僕は戦うよ。君との未来のために」
また首を横に振った。
「わたしはそんなこと望んでない」
エルドは無言でネヴィレッタを抱き締め続けた。
「怖いこと言わないで」
「僕が怖い? 人殺しだから」
「あなたが傷つくのが怖い。自分で自分を人殺しと罵って心をぼろぼろにしてしまうのが怖い」
「そう」
「春には花を咲かせましょう。夏には野菜を収穫しましょう。秋にはきのこを摘みましょう。冬にはお芋を掘りましょう。わたし、それが幸せなの」
声が震える。
エルドが軽く身を離した。それがほんの少しさみしかったが――次の時、彼の手がネヴィレッタの頬をつかんだ。
顔と顔とが近づいた。
彼の頭が日の光を遮る。
影と影とが重なる。
唇と唇とが触れ合う。
「結婚しよう」
初めての口づけは、甘く、切なかった。
「この森で。あの家で。二人で暮らそう」
今度はネヴィレッタのほうから彼に抱きついた。しがみつき、抱き締め、彼の胸に顔を埋めた。そして、大きく頷いた。
「だいすき」
風が吹いた。
朽ちた木を踏みしだく大きな音がした。
顔を上げ、彼から離れた。
「ごめんね、お取り込み中」
そこにカイが立っていた。風に乗って飛んできたのだ。風属性の魔法使いである彼にとっては空を飛ぶことぐらい何ということもない。
「まさかこんないちゃいちゃしてるとは思ってなかった。エルドも大人になったね」
「うっせえわ」
「残念だけど冷やかして冗談を飛ばしてられる状況じゃなくなった」
いつもへらへらとしているカイが今日は笑わず真剣な目をしていた。
「始まったよ」
エルドも引き締めた表情で「とうとうか」と言った。
「フナル山でガラム王国の鉱夫とメダード王国の鉱夫が喧嘩を始めた。その仲裁に入ったガラム王国の軍人が向こうの民間人を殺した。そこから事がだんだん大きくなっていって今朝軍事衝突に発展した。ガラム王国はメダード王国からの宣戦布告があったと主張することになったけど、全部現場を見ていないバジム王の一存だ」
「やってくれたな」
ネヴィレッタは下唇を噛んだ。
「どうするエルド」
カイのその問いかけに、エルドはためらいなく答えた。
「魔法騎士団に戻る」
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