第16話 レナートではなく私についてくれないか

「エルド」


 前を行く背中に言い知れぬ不安をおぼえて、ネヴィレッタは手を伸ばそうとした。だが先ほどヴィオレッタに距離を詰めてくる人間が嫌いだと言うのを聞いたばかりだ。エルドとそれなりに親しくなれたような気はしているが、それでもべたべた触ったら機嫌を損ねるのではないか。


 エルドが振り返った。

 その表情はそれほど恐ろしくはなかった。だがやはり少々強張っているように見える。威圧感があるというほどでもないけれど、ネヴィレッタはさらに緊張してしまった。


 王城には中庭がいくつかある。その中でも一番大きな第一の中庭には噴水が五つ設置されている。中心の背の高い噴水の前後左右に小さな噴水がしつらえられていて、絶えず水音が流れていた。

 その中庭を囲む回廊、南北の建物をつなぐ通路にて、エルドとネヴィレッタは二人立ち止まって向き合った。


 目が合うと、エルドは緩く微笑んだ。きっと安心させようとしてくれているのだとネヴィレッタは悟った。自分は今不安げな顔をしているに違いない。

 大人になりたい。エルドにそんな顔をさせないように、しっかりとした、自立した人間になりたい。

 強くなりたい。


「戻らなくていいわ」


 勇気を振り絞って声を張った。


「魔法騎士団に戻らなくていいからね。わたしなんかのためにつらい思いしてほしくない。嫌な思い出ばかりなんでしょう?」


 エルドが表情を消してゆっくり首を横に振る。


「わたしなんか、なんて言わないでほしい。僕は君のためなら人生を賭けてもいいと思えるようになってきた。その君が君をないがしろにするようなことはもう言わないでほしいよ」


 この上なく嬉しい。けれど手放しに喜んでいい言葉ではない。


「エルドには自由でいてほしいわ。家の裏の畑で好きな野菜を育てる生活をしてほしいわ」

「僕もそういう生活をしていたいよ。でも同時に君にも自由になってほしいよ。自由になって好きなことをして暮らしてほしい」

「好きなことなんて思い浮かばない。エルドを犠牲にしてまでしたいことなんてないと思う」

「自由になってみないことにはわからないよ。人間は自由でないと自分が何を好きかわからなくなるものだよ」

「でも……」


 ネヴィレッタはうつむいた。


「戦争になんてもう二度と行ってほしくない……」


 人間を殺してほしくない。自分の罪と見つめ合ってほしくない。思い悩んで傷ついてほしくない。


「わたし、がんばる。自分で自分のことをどうにかできるようにする。だからエルドは魔法騎士団に戻らないで。レナート殿下にきっぱり嫌ですと言って」


 不意にエルドの目線がネヴィレッタの後ろを見た。何かが視界に入ってきたのだろうか。何が起こったのだろう。ネヴィレッタもエルドの目線の先をたぐって後ろを向いた。

 ぎょっとした。

 建物の中から数名の人間が出てきたところだった。いずれも筋骨隆々とした男性だ。


 ネヴィレッタは肩を怒らせて歩く中央の男を知っていた。

 黒い髪に黒い瞳、きちんと整えられた口ひげの壮年の男性は、見間違えようもない、このガラム王国の王バジムである。


 慌ててひざまずき、バジム王に対して首を垂れた。エルドは不遜にも数歩下がって道を開けただけだった。


 王が立ち止まった。

 そして、自信に満ち溢れた、勇ましいながらも親しみの持てる笑顔を浮かべた。


「ごきげんよう、ネヴィレッタ嬢」

「お久しぶりにお目にかかります。お声をかけていただいて恐縮でございます」


 ネヴィレッタはかしこまった挨拶をした。この国の頂点、この世で神の次に高位のお方だ。おいそれと会話していい相手ではない。

 しかしネヴィレッタは王のことをそれほど恐ろしい相手だとも思っていなかった。確かに、失礼があってはいけないし、自分のような人間が自分から話しかけていい人物ではない。けれど王は豪放磊落な性格でそんなに偉ぶるタイプではなかった。家臣に親しく声をかけ、心安く接する王だ。

 王とレナート王子は似ていると思う。絶世の美女とうたわれた母親似の金髪碧眼のレナート王子と軍人王らしい勇ましさにみなぎった黒髪黒目の王は外見こそ正反対だが、二人とも快活で明るくちょっと声が大きい。堂々とした態度を見ているとやはり親子だと思うことが多い。


 バジム王はネヴィレッタに「おもてを上げて楽にするように」と言ってくれた。ネヴィレッタは上半身を起こした。

 顔を上げると、王はネヴィレッタを見てはいなかった。彼はまっすぐエルドだけを見つめていた。

 エルドはひるまなかった。ぶすっとした顔で王をにらむように見つめていた。ネヴィレッタは動揺してしまった。ネヴィレッタがもう少し強気な性格だったらエルドの頭をつかんで頭を下げなさいと言っていたところだ。


「久しいな、エルドよ」


 王が朗らかな笑みを浮かべて両腕を伸ばした。左手でエルドの肩を叩き、右手でエルドの手を握ろうとする。レナート王子同様距離が近い。父親譲りなのだ。

 エルドは嫌がって手を握らなかった。けれど王は気にしていない様子だ。笑みを絶やさない。


「元気そうで何よりだ。背が伸びたな」


 今度こそエルドは「はい、二十一になったんで」と言って否定しなかった。王とは魔法騎士団を出て以来会っていなかったらしい。


「城に帰ってきてくれたのか。嬉しいぞ。お前のために部屋を開けよう」

「結構です。僕にはもう自分の家があるんで。すぐに帰ります」

「つれないことを言うな。今夜は泊まっていくがいい。晩餐会を開いてやる、いいワインもある」

「いいですってば」


 王はそれ以上しつこくしなかった。話題を切り替え、手を離した。


「レナートには顔を見せて私には顔を見せないとは寂しいものだ、妬けるぞ。私もこの五年ずっとお前に会いたかった」

「僕は会いたくなかったです」

「で、レナートとはどんな話をしたのだ」


 王の夜のように黒い瞳がエルドのオリーブ色の瞳を覗き込む。


「魔法騎士団の次の任務について聞いたかね」


 エルドが顔をしかめた。


「出撃するんですか?」


 意地の悪いことに、王は「お前が部外者なら機密を漏らすわけにはいかんな」と言った。エルドはさらに眉間のしわを深くした。

 だが、王は駆け引き上手だ。


「だからこれは独り言なのだが」


 エルドがぴくりと頬の肉を動かした。


「メダード王国との国境地点にあるフナル山がきなくさいようだ。フナル山に住むガラムの鉱夫とメダードの鉱夫が揉め事を起こしているようだぞ。ガラム王としては治安出動をせねばならぬ予感がしているが、はたして?」


 王はにんまりと笑った。


「メダード王国といえばいろいろあったな。いつぞやのお前は頼もしかった。国の英雄、救世主だ」


 エルドはにこりともしなかった。


「さて、あまり長く引き留めても可哀想だ。荷物をまとめる時間が必要だろう。それからネヴィレッタ嬢との別れを惜しむの時間も」

「陛下までそういうことを言うんですか?」

「繰り返すぞ。帰ってきてくれないか。歓迎する。五年間の音信不通は帳消しにする」


 ネヴィレッタは王を怖いと思った。いつも姿を目にするたびに感じていた畏怖ではない。何か得体の知れないものに出会った時の気味の悪さだ。


「レナートではなく私についてくれないか。望むものは何でも与えるぞ。金も、権力も。欲しいと思うものすべてをお前に授けよう」


 エルドは即座に「結構です」と言ったが、ややして、わずかに口に隙間を作った。


「いや……、本当に何でも?」


 逆に王が驚いた顔をして「もちろん」と言う。


「じゃ、考えておきます」


 そう言うと、エルドは踵を返した。そして、ネヴィレッタに向かって「もう行くよ」と言った。


「どこへ?」

「マルスに会いに団長の執務室へ」


 王が「ありがたい」と明るい声を上げた。

 エルドが振り返らずに先へと進んでいこうとする。エルドと王の間で突っ立っていたネヴィレッタは慌てて王に「失礼致します」と挨拶してからエルドの後を追いかけた。


「何でも。何でもだ」


 王の粘っこい言葉が耳に残った。



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