第13話 このような午後を永遠にすることができたら

 昼食はエルドが作ってくれたパスタを食べた。小麦はこの近辺の豊かな土壌で育ったものだ。夏の終わりと秋の初めが交ざり合う野菜の数々はエルドが丹精込めて育てたものだ。注いでもらった水は近所の清らかな泉から汲んできたものらしい。どこをとっても文句のつけようがない。


「貴族のご令嬢の口に合うかな」

「とってもおいしいわ! こんなにおいしい食事なんてどれくらいぶりかしら」


 お世辞ではなかった。屋敷ではもっと豪勢な料理が出ているはずだが、ネヴィレッタはこのパスタよりおいしいものを食べたことがない。たっぷりの野菜、もちもちの麺、何よりエルドとの他愛のないおしゃべりが心と体に染み渡る。


 エルドとのおしゃべりは他愛のないものだった。それが本当に嬉しかった。何にも考えなくていい。思いついたことを思いついた順に口から出していい。相手の顔色を窺って言葉選びをしなくていい。何を言っても怒られなくて済む。

 時々支離滅裂なことを言っていないか心配にはなった。言葉が途切れてしまったこともある。だがエルドは急かしたりなじったりしなかった。


 エルドは本来はそんなに口数の多い青年ではないようだ。初対面では厳しいことを言われたし、ネヴィレッタの家族のことも平気で罵るので口が回るタイプなのかと思っていたが、口から先に生まれてきたようなレナート王子やカイとは違った。彼も彼なりに自分の心を守るために言葉で武装していたのだろう。食事中のエルドはずっとネヴィレッタのおしゃべりに相槌を打っていた。けれど嫌そうな顔をするわけでもない。時々「それで?」「それから?」と優しく続きを促してくれた。


 食事の後は森の中を散策した。

 水を汲んだという泉に案内してもらった。こんこんと湧き出る透明な池は美しく、どんな宝石でもこの青い色は出せないだろうと思った。

 泉のそば、大きな木の根元に転がって木漏れ日を浴びる。二人で何の会話をするわけでもなく、木の葉越しに見える太陽を見上げる。気温はまだまだ高いが、太陽が傾くのは早い。目には見えない秋が確実に近づいてきている。


 もうすぐ夕暮れだろう、という時になってから、エルドは起き上がり、家の中に戻った。そして清潔なシャツとズボンに着替えた。前開きのシャツはきちんとした襟付きで、火熨斗ひのしを当ててあったらしくぱりぱりとしている。軽くタイを締め、革靴を履くと、そこはかとなく品が出た。


「じゃ、行こっか」

「うん」


 口では素直に振る舞いながらも、ネヴィレッタは足がすくんでしまって動けなかった。家の軒先に突っ立ってしばらく硬直していた。


 屋敷に帰りたくない。永遠にエルドと二人でこのまま過ごしたい。


 そんなネヴィレッタの手を、エルドがつかんで、引いた。


「すぐ終わるよ」


 エルドに手を引かれて森を出る。村の前に行く。

 馬車は姿を消していた。もともと御者がネヴィレッタに貴金属を握らされてしぶしぶ出てきた人間で、ネヴィレッタの帰りには付き合わないと言われていたので仕方がない。


「村で辻馬車に乗れないかしら?」

「そんな上等なものこの田舎にはないね」


 辻馬車が上等と言われる世界があるとは思わなかった。


「馬を借りよう。村長のじいさまが大事に育ててる乗馬用の馬がいるよ」

「わたし、一人で馬に乗れないわ」

「僕が乗れるよ、魔法騎士は魔法使いであると同時に騎士でもあるからね」


 村長に事情を話すと快諾してくれた。張り切った様子で、「がんばれ」と言ってエルドの肩を叩いた。エルドが必死に「送るだけだから」と言っているが何のことやらだ。


 出てきた馬はネヴィレッタが想像していたよりひと回り小さかったが、優しい目をした穏やかな気性の牝馬だった。普段は村長一家が町の市場に野菜を卸しに行く時に荷車を引いているそうで、荷物がなくなったら村長が乗って帰ってくることもあるらしい。


 エルドはまずネヴィレッタを抱え上げて馬の背に横乗りにさせた。ネヴィレッタを馬上に移動させてから、ひらりと身を翻してその後ろに座った。エルドの胸に肩が密着する。温かい。顔が真っ赤になった。


「落ちないようにね」

「はい」


 ネヴィレッタはうつむいて何も言えなかった。景色を楽しむどころではなかった。緊張で心臓が破裂しそうだ。こんなに鼓動がうるさいのにエルドは気づいていないのだろうか。自分だけがこんなに舞い上がっているのだろうか。恥ずかしい女、と思って少しだけ落ち込む。エルドにがっかりされたくない。こんなに甘えて、これ以上迷惑をかけたくなかった。ぽく、ぽく、と村長の馬が歩みを進めるたび、ネヴィレッタは、自立した大人の女にならなければ、と思うのだった。




 日が暮れる前に屋敷についた。


 屋敷の周辺は物々しい空気だった。武装したオレーク家の私兵たちがうろうろしていて、門の周辺にも使用人たちが詰めている。何かあったのだろうか。

 馬で近づいていくと、彼らの視線が一斉にこちらを向いた。駆け寄ってくる。


「貴様、何奴」


 エルドが馬から下りる。そして、私兵たちと向き合う。


「ネヴィレッタ嬢を送りに来ました」


 私兵たちが剣を抜いてエルドに向ける。エルドは平然としていたが、ネヴィレッタは動揺して「きゃっ」と叫んでしまった。


「貴様がかどわかしたのか。お嬢様がご自分で屋敷からお出になるわけがない」

「ちょっと待ってちょうだい」


 慌てふためくネヴィレッタにエルドが手を差し出す。支えられて震えながら馬からおりる。


「わたし、自分で出掛けていったの。エルドが連れ去ったわけじゃないわ」

「ですが――」

「エルドは怪しい人じゃない。しまって。やめてちょうだい」


 さらに剣を突き出しながら「貴様ネヴィレッタ様に何をした」と問い詰める。エルドが「あなたたちが妄想しているようなことは何も」と答える。


「マルスいる? マルスを呼んでほしい。知り合いだから」


 ある兵は「貴様のようなやつにお会いになる方ではない」と言ったが、またある兵は「お呼びしろ、マルス様が一番ネヴィレッタ様の御身を案じている」と言った。押し問答になる。

 途中でエルドが口を挟んだ。


「僕はエルドと言います。ってマルスに伝えたらわかってもらえると思うんですけど」


 空気がざわついた。


「エルド……!? あの最強の魔法使いの……!?」

「本物か? 最強の名を騙っているわけではあるまいな」

「これはこれは失礼を――」

「待て、偽物かもしれん。まずはマルス様をお呼びしてから」


 エルドが溜息をついた。彼はきっと今まで幾度となくこういう扱いを受けてきたのだ。


 やがて屋敷の中からマルスが出てきた。魔法騎士の制服を着たままだった。走ってきたのか荒い息をしている。日暮れの中なのでわかりにくいが、顔色もあまり良くないような気がする。


「ネヴィレッタ!」


 彼はまずネヴィレッタを強く抱き締めた。ネヴィレッタは驚いた。腕の力があまりにも強くて、潰れてしまうかと思った。


「お兄様、どうしたの? どうかしたの? そんなに慌てて」

「いきなり消えるな! どれだけ心配したと思っている!?」


 いつになく大きな声で言われて、ネヴィレッタの心がずきりと痛む。本当は兄も自分が屋敷の外に出るのが嫌だったのか。


「ごめんなさい……わたし、身の程をわきまえないで、こんな……やっぱりわたしが人に会ったら恥ずかしいわよね……?」

「そうじゃない」


 兄の腕がわずかに震えているように感じた。


「そうじゃないんだネヴィレッタ……」


 兄はしばらく黙っていた。ネヴィレッタの後頭部を大きな手で撫でる。その手が優しく慈しむようで、ネヴィレッタには何も言えなくなる。兄は何を心配しているのだろう。ネヴィレッタにはわからなかった。


「残念だったね」


 何歩か後ろでエルドが言った。


「空回ってるよ。本当に大事ならもっとやりようがあるんじゃないの」

「大事……? わたしが……?」


 腕の力を抜きつつ、マルスが答えた。


「久しぶりだなエルド。お前がネヴィレッタの世話をしてくれていたのか」

「うん。ちょっと自宅に避難させてご飯を食べさせただけだけど」

「世話になった。この礼はきちんとする」

「いいよ別に」


 ネヴィレッタの腰を抱いたまま、マルスは一歩、二歩とエルドに近づいた。エルドとマルスが正面から向き合う。

 使用人の一人がマルスに近づいてきた。小声で「本物の、あの、エルド様でしょうか」と尋ねてくる。マルスが「ああ」と答える。


「これは失礼致しました……! すぐに歓迎のお支度をします」


 エルドが溜息をつく。


「やめて。すぐ帰る、帰らせて」

「そう言うな、うちに泊まっていけ。積もる話がある」

「僕はない。――と言いたいところだけど」


 彼はおもしろくなさそうな顔をした。


「妹のこと、ずいぶん可愛がってるみたいじゃない?」


 マルスも顔をしかめた。


「聞いたよ、いろいろと。ご両親、かなり気を揉んでいるみたいだね」

「ネヴィレッタがお前に話したのか」

「そうだよ」


 そして視線を下に落とす。


「泣いてた」


 ネヴィレッタはつい「ごめんなさい」と言ってしまった。泣いたことで不愉快な思いをさせたのではないかと心配したのだ。しかしエルドはほんのり笑って「ううん、ありがとう」と言った。


「信頼してもらえて嬉しい」


 信頼――そんな言葉は初めて聞いた。


「エルド、お前――」

「変な妄想しなきゃいけなくなるくらいだったらこんな無謀なことさせなくても済むよう丁寧に扱うべきなんじゃないの」

「返す言葉もない。申し訳ない」


 マルスがうなだれる。


「近々レナート王子にお会いしようかと思うよ。気は進まないけど、はぐれ者同士ネヴィレッタに共感することがあってね、必要なら家出の手引きをしようかと思って」

「兄に対して堂々と言うな」

「いまさら保護者ヅラすんなよ。決めるのは彼女だ」

「まだ十七歳だ」

「僕が最後に戦場に立ったのは十六歳の時だった」


 言葉を失い自分の口元に手をやるマルスに、エルドが「ごめん、言い過ぎた」と苦笑する。


「レナート王子に後見してもらおう。王子の庇護下ならマルスは安心でしょ」

「まあ……、そうだな……」

「あと、二十歳くらいになるまでは僕が責任をもって面倒を見るよ。僕なんかが信用できればの話ですけど」


 そう聞くと、ネヴィレッタは場違いにも喜んでしまった。あと三年はエルドと一緒にいられるらしい。二十歳と言わず一生でも、と思うが、それはおいおい話を詰めていけばいいだろう。何せあのレナート王子が後見してくれるのである、彼はきっと応援してくれるに違いない。


「で、相談なんだけど」

「なんだ?」

「服貸してくれない? 騎士団にいた時着てた服、背が伸びてみんな入らなくなっちゃったんだよね。村の人に縫ってもらったこの普段着で王城に入れるほど図太くないので」

「わかった、お前のためにそれなりの服を大急ぎで一着仕立てさせる。今日採寸してから帰れ」

「やったー」



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