第12話 君のために何ができるか考えるよ

 エルドは寝室からクッションを持ってきてくれた。麻のカバーがかかった、一辺がネヴィレッタの腕よりわずかに短い程度の、柔らかいクッションだった。赤い花の刺繍が施されたカバーは肌触りがよく、ジャケットと同じ香りがした。乾いた土、乾いた草、太陽の香りだ。これがエルドの香りなのだ。


 椅子に座り、膝の上にクッションを乗せ、クッションに片頬を寄せる。


 クッションを抱き締めていると気持ちが落ち着いてくる。エルドはどうしてこうすると落ち着くということを知っているのだろう。エルドも悲しい時にはこうしてクッションを抱き締めて時を過ごすのだろうか。


 ハーブティーも淹れてくれた。こちらも草花のいい香りがした。最初は少し熱かったが、涙が引く頃にはちょうどいい温度になり、ごくごくと飲んでしまった。体から水分が減っていたのかもしれない。屋敷で出されるようなガラスのティーカップではなく明るい灰色の武骨なマグカップだったが、ネヴィレッタの心はすっかりほぐれた。


 ネヴィレッタは昨日の夕飯前後の両親とヴィオレッタのことをエルドに話した。自分が魔法使いではないことを明かした時にある程度状況を説明してあったので、無理をして順を追って詳細に話さなくても理解してもらえた。


「頭がおかしい」


 エルドはネヴィレッタの向かいの椅子に座って黙ってハーブティーを飲んでいたが、ネヴィレッタがある程度話し終えると、きっぱりとそう言った。


「わたしの頭が?」

「ネヴィレッタの家族の頭が」


 はっきりものをいう人だ。オレーク侯爵に対してずいぶんな言葉である。しかしネヴィレッタはかなり気持ちが良かった。


「いや、そんなの家族なんて呼ばなくていいね。虫唾が走る。何て言えばいいんだろう、親族? 血縁者? まあそもそも家族なんてものがそんないいものでもないか。僕も自分の家族だった人たちが嫌いだよ」

「僕も、って。わたしが家族のことを嫌いなのが前提みたい」

「好きなの? そんな扱いを受けておいて?」


 ちょっと考えてしまった。他の家庭がどんなものなのか知らないので、どんな扱いが不当なのかいまいちぴんとこなかった。

 兄や妹と比較してみる。ヴィオレッタはネヴィレッタよりもっとのびのび自由に生活しているから、ああいうのが正しい家族の扱いなのかもしれない。マルスは嫡男で大事にされるのも当然なのでうまく比較できない。


「一緒に暮らしているだけだよ、と言いたいけど、家という本来は安心できるはずの場所がそういうところだと神経が磨り減るよね。休める場所がない」


 そう言われて、ネヴィレッタは頷いた。


「休める、とは少し違うけれど、わたしにとっては魔法騎士団の幹部の皆さんと一緒にいるのがすごく安心できる時間なのよ」

「言ってたね。そこにヴィオレッタが入ってきたらいよいよ逃げ場がなくなる」


 もう一度頷く。


「でもなあ、魔法貴族って極端な血統主義だからなあ。オレーク侯爵家の娘で団長マルスの妹であるヴィオレッタが魔法騎士団に加入すること自体はみんなもろ手を挙げて歓迎しちゃうと思うんだよね。ヴィオレッタ、話を聞いている感じだと外面は良さそうだし」


 そのとおりだ。親の前でも姉を見下しているところを出さない。それどころか時々庇うようなそぶりを見せることもある。その巧妙さはネヴィレッタも勘違いしてしまうくらいだ。


「わたし、どうしたらいいかしら。このまま両親やヴィオレッタと暮らしていく自信がない」


 エルドはさらりと言った。


「家出しちゃえば?」


 考えてもみなかったことだった。自分にそんな手段があるとは思えなかった。確かに物語の中には継母に虐げられて城を飛び出すお姫様もいるが、自分にも同じ芸当ができると思えない。あれはあくまで物語の中の話で、現実にできることではない。


「簡単に言うわね」

「僕も魔法騎士団から脱走した人間だからね。団長の――当時は今のオレーク侯爵、つまり君たち親子の父親だったんだけど、執務室の机の上に退職届の手紙だけ置いて、寮の部屋にあったほんのわずかな荷物だけまとめてとんずらしてしまった」

「そんなことしたの?」


 エルドが思い出し笑いをしながら「退職届といっても、辞めさせていただきます、探さないでくださいの二行と自分の名前しか書いてなかったけど」と言う。大胆な人だ。


「レナート王子が把握してるんだし、いいんじゃん?」

「そんなものかしら。まあ、でも、レナート殿下がご存知なら――いや、そんなものなのかしら……」

「誘拐とかを疑われると厄介なことになるからさ、自主的に出ていったことを知らせるために手紙は書いたほうがいいよ。それと根回しするならレナート王子一択だ、彼は巨悪だけど八方丸く収まるすべを知っていてうまくやる」

「巨悪って……」

「レナート王子がカラスは白いと言えばマルスもカラスは白いと言うよ」


 彼の言うとおりだ。マルスは口ではああでもないこうでもないと言うが、レナート王子の腰巾着なのだ。


「簡単に言わないでよ」


 誰かに反論するということが慣れなくて、ぼそぼそと小声になってしまう。


「エルドは男の人だからいいかもしれないけれど、世間知らずのお嬢様であるわたしが一人で行けるところなんてないわ。本当に、何にもできないんだもの。強いて言えば刺繍くらいだけど作業が遅くて、それだけで生計を立てられる気はしない」

「まあ、そうだろうね」


 あっさり肯定されてしまった。もう少し勇気づけてくれるかと思ったががっかりだ。

 そう思ったのだが、彼は見捨てもしなかった。


「ここに引っ越してくれば?」


 心臓が跳ね上がった。

 レナート王子の、結婚、という言葉が頭の中に転がり出てきた。せっかく意識の外に追いやることに成功したのに、エルド本人によってほじくり返されてしまった。

 顔を真っ赤にしたネヴィレッタを見て、エルドが「あっ」と声を上げる。


「いや、この家に住めっていうわけじゃなくて。フラック村の人たちなら僕みたいな脱走魔法騎士に慣れてるし、王太子直轄領だし。みんないい人だからさ、手作業や農作業を習えば? ついでに僕もまめに様子を見れて安心だよ。っていうだけだよ! この家に住めなんて一言も言ってないからね」


 その言葉にまたがっかりしてしまった。この家に住めと言ってもらったほうが嬉しかった。

 しかし村に住めばエルドとまめに会えるわけだ。それならもう少し距離を詰める機会を得られるかもしれない。そう思うと前向きな気持ちになれる。

 マグカップの縁をなぞりながら、「それはいいかもしれないわ」と呟いた。


「でも……、わたし、その……、ここに住んでみたいかもしれないわ」

「えっ? この家に? 僕しかいないよ?」


 ふたたび顔が真っ赤になる。うつむく。彼の顔が見られない。


「何を言って……、だめだよ! 年頃のお嬢さんが結婚もしてないのに若い男と二人で暮らすなんて不健全だよ。それでまた変な噂を立てられたらどうするの?」

「そうね……、そう。わたし、ちょっとおかしいわね。エルドは変な人じゃないもの。ただ、この家はすごく居心地がいいの。本当に……、すごく居心地がいいのよ」

「そりゃ、どうも。五年かけて作り上げてきたこの家が褒められるのは嬉しいよ」


 それを最後に、二人揃って沈黙してしまった。


 窓の桟でスズメが鳴いている。ちゅん、ちゅんちゅん、という声が可愛らしい。平和でのどかな、村の一幕だった。


「――とにかく」


 だいぶ経ってから、エルドが口を開いた。


「一回マルスに会おうかな」

「お兄様に?」


 顔を上げる。エルドは落ち着いた、真剣な顔でネヴィレッタを見ている。


「貴様がしっかりしてないからこういうことになるんだろ、って言って一発殴って、それから、ネヴィレッタをオレーク家から連れ出すから後はよきにはからってくれ、って言う」


 ネヴィレッタは目を真ん丸にしてしまった。


「エルドが言ってくれるの?」

「言い出しっぺは僕だし、僕だっていろいろ思うところがある」

「でも、迷惑をかけてしまわない?」

「迷惑だったらもっと早くネヴィレッタをここから追い出してるよ」


 驚きの次に、喜びが湧いてくる。


「僕も不器用だけど、僕なりに、君のために何ができるか考えるよ」


 その言葉がとても誠実で、こんなに大事にされたことなどないという嬉しさと悲しさが同時に押し寄せてくる。

 そして、やはり、彼とこの家で暮らしたいという気持ちが強まってくる。彼と二人きりの暮らしはきっと多少の困難があっても愛しく慈しめると思うのだ。

 近所で暮らして、生活力を磨き、毎日のように顔を合わせれば、彼の気持ちはこちらを向くだろうか。


「そうと決まったら善は急げ。いずれにせよ今日はこの後屋敷に帰ったほうがいい。ついていくよ」

「ありがとう……!」



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