第11話 時間がかかってもいいから

 翌朝、ネヴィレッタは大急ぎで出掛けた。侍女の目を盗んで、いつもの御者にネヴィレッタが自由にできる数少ない宝飾品の耳飾りを握らせて、家族の誰にも何にも告げずに屋敷を抜け出した。

 向かう先は当然エルドの小さな家だ。あの、白い壁に赤い屋根の、おしゃれで可愛い家だ。

 一刻も早くあの家に逃げ込みたい。


 村の外れに御者を待機させ、全速力で森を行く。ドレスの裾をたくし上げ、靴が傷むのも構わずに、一心不乱に駆けていく。


 家の前に辿り着くと、ためらうことなくドアノッカーをつかんだ。焦りのあまり乱暴に、ごんごんごん、と扉を叩いた。


 早く会いたい。


 祈りは届いた。そんなに待たされることなく返事が返ってきた。


「はい」


 聞き心地のいい、若い男性の声がした。

 エルドだ。

 それだけで安心して泣きそうになる。


「わたし。ネヴィレッタ」

「ああ。今開ける」


 開けてもらえる。


 中から鍵をはずす金属音がした。そしてほどなく扉が内から開けられた。

 エルドが顔を出した。一本に束ねられて尾のように揺れる金茶の髪、すっきりとした目元と鼻、美しい青年だ。以前はこんなところでくすぶっているのなどもったいないと思っていたが、今はここから出ないでほしい。


「……何かあった?」


 彼が表情を険しくした。その顔が少し怖かった。自分は何をしても相手の機嫌を損ねる人間だ。その単純な問いかけさえ責められているように感じる。


「怒っている?」

「いや、何に? まだ何にも話してないのに怒るも何も」

「わたしがバカな女だから」

「何があったの?」


 その強張った頬は何を意味しているのだろう。汲み取れないのは自分が馬鹿だからか。何もわからない。

 そんなネヴィレッタに、エルドはこんなことを言った。


「顔色が真っ青だよ。それにがちがちに緊張してる。何かすごく酷い目に遭ってきたように見えるんだけど、僕には説明できないかな?」

「説明……」

「話したくなければ話さなくてもいいけど。吐き出したいことがあったら吐き出してほしい程度のことだから、筋道を立てて説明するのは難しいっていうんなら気持ちが整理できるまで黙っていていいよ」


 上がっていた肩が下がっていくのを感じた。やっと呼吸ができたような気がする。


 こんなことを言ってくれる人はいまだかつてネヴィレッタの周りにはいなかった。両親はすぐ沈黙してしまうネヴィレッタをうすのろと罵ったし、マルスでさえ説明力のないネヴィレッタに手を焼いているそぶりを見せることがあった。ここぞという時にまともに喋ることができないネヴィレッタは愚鈍な女で誰からも嫌われるのだ。


 でも、エルドの前では、黙っていてもいい。無理して話さなくてもいい。


 かえって話したい気持ちがあふれ返ってくる。しかしそれすらうまく表現できなくてネヴィレッタはただ涙をこらえた。泣いたらさすがのエルドもいよいよ面倒臭いと感じるだろう。


「とりあえず、入りなよ」


 エルドが扉をさらに大きく開けてくれた。


「今朝村の人からもらったさくらんぼがあるから食べなよ」


 そして、踵を返して居間のほうを向いた。

 その背中がたくましく頼もしく見えた。正面から向き合っている時は細身であるように感じていたが、こうして見ているとエルドもあくまで男性で、背中が広くてしっかりしている。木綿の薄いシャツしか着ていないこともあり、肩の筋肉が見えてきそうだった。

 男の人なのだ。


 ネヴィレッタは後ろ手に扉を閉めた。


 呆然と、エルドの背中を眺める。


 昨日のヴィオレッタの言葉を思い出した。


 男の人は、みんな胸の大きな女が好きというのは、本当なのだろうか。触らせてやればエルドも喜んでくれるのだろうか。


 どんな形でもいいから、愛されたい。


「エルド」

「なに?」


 彼が振り向いた。

 体の前半分がこちらを向いた瞬間に、ネヴィレッタは真正面から彼に抱きついた。


「えっ」


 ドレスの下の乳房を押し付けるようにしてしがみつく。

 バランスを崩したエルドはそのまま後ろに倒れた。床の上にあおむけになり、崩れてきたネヴィレッタの体を胸で受け止めた。うまく受け身を取れたようで、口では「いたた」とは言うものの怪我はないし平気そうな顔をしている。


「ネヴィレッタ?」


 エルドの腹の上に馬乗りになった。

 何をしたらいいのかの知識はない。エルドにはきっとあるだろう、大人の男性なのだから、準備をしてやればあとは何をしたらいいのか彼は知っているはずだ。

 ドレスの胸元に手をかけた。


「ネヴィレッタ!?」


 むりやり前に引っ張る。襟元を胸の谷間まで下ろす。けれどコルセットが硬く胸の下半分を覆っているためそれ以上はさがらない。

 前からからだをさらけ出すのは諦めて、ドレス本体を脱ごうとした。背中に手を回した。うなじの下にあるドレスのホックをはずす。だがホックはひとつふたつではなく腰まで並んでいる。自分ではふたつめまでしかはずせなかった。こんなことでは紐できつく縛られているコルセットをはずすことなどもっと困難だろう。


 手を下ろして、脱力した。


「わたし、服も一人じゃ脱げないの?」


 本当に何もできない、無力で、愚鈍で、役に立たない、馬鹿な女なのだ。


「わたしは何ならできるのよぉ……」


 そう呟いた瞬間、どっと涙があふれた。せきを切ったように流れ出て止まらなかった。


 エルドがネヴィレッタの下で溜息をついた。


「とりあえず、どいて。ちゃんと二人別々に椅子に座って話をしよう」


 それでも対話をしようとしてくれているのがありがたくて、ネヴィレッタは嗚咽を漏らした。


「これはさすがにどうしてこうなったのかちゃんと説明してほしいな。いきなり押し倒されて嬉しい人間なんていないんだからさ」

「嫌な思いをさせたのね。ごめんなさい」

「でも君にこういう極端な行動を取らせるような何かがあったんでしょう? 時間がかかってもいいから、説明して。怒らないから、ゆっくりでいいから、説明して」

「聞いてくれるの?」

「もちろん」

「わたしなんかの相手をさせられて疲れない?」

「泣いている人間を放り出しても平気でいられるほど冷たい奴じゃないよ」


 ネヴィレッタは腰を浮かせた。両足をエルドの腹の左側で揃えて、ぺたりと床に座り込んだ。エルドが「冷たいでしょ、風邪ひくよ」と言いながら立ち上がった。


 彼はネヴィレッタをそのままにして寝室に入っていった。置いていかれると思って不安になったが、彼はすぐ帰ってきた。手には上着を持っている。無地のジャケットで高価そうではなかった。きっと普段は野良着の上に羽織っているのだろう。

 ジャケットを肩にかけられた。

 温かくて、柔らかくて、土のにおいがした。


「お茶を淹れるよ。心が落ち着くハーブティーにしよう」


 ネヴィレッタはエルドの服の袖をつかんだ。エルドが苦笑して「どうした?」と尋ねてきた。


「ぎゅっとして」


 そうでないと自分のすべてが崩れ落ちて床にばらばらに散らばりそうだった。


「ぎゅ、って。抱き締めてほしいの」


 涙が止まらない。


「他に何にもいらないわ。ただ、ちょっとだけ、ぎゅ、としてくれれば、わたし、満足なの」


 エルドは少しの間無言でネヴィレッタを眺めた。その間が怖くて、ネヴィレッタはまた少しずつ不安がせり上がっていくのを感じて、「やっぱりいい」と言ってしまった。


「ごめんなさい。またバカなことを言ってしまった」

「いや」


 次の時、彼は腕を伸ばした。

 優しく、ふわり、と包み込むようにネヴィレッタの肩をつかみ、胸のほうへ抱き寄せてくれる。

 ジャケットからするのと同じ、土のにおいがする。太陽の光をいっぱいに浴びた、乾いた土のにおいだ。

 温かい。

 安心した。


 ネヴィレッタは声を上げて泣いた。

 エルドはしばらく号泣するネヴィレッタを抱き締めて無言のまま過ごした。




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