第8話 叙爵叙爵~!!
いろんなことが頭の中を駆け巡る。
恋か。
自分には一生無縁なものだと思い込んでいた。
何の魅力もない無能なネヴィレッタだ、人に愛されることなどないと思っていた。そうと強く意識したことがあるわけでもないのだが、うっすらそういうものであるような気がしていた。
まして自分は一応貴族の娘だ。政治的戦略のために親に決められた相手と結婚しなければならないのではないか。今まで一度も話題に出たことはないが、万が一そういうことになったら自分で好きな相手を選ぶということはないはずだ。
恋とは物語の中で起こる出来事であり、自分はそれを追体験するだけで実体験することはない――ずっとそう思っていた。
エルドが好きなのだろうか。
頬が熱い。
城の回廊をうつむき加減でとぼとぼ歩く。
ここは王族でも官吏でもない自分が長居していい場所ではない。しかも城門近辺で付き人たちを待たせている。早く出ていかなければ怪しまれる、またのろまな娘だと罵られてしまう――頭ではわかっているのだが、急ぐ気になれない。
エルドにはまた会いに行くと言ってしまった。けれどどんな顔をして行けばいいのだろう。
途端に、二人きりになる、という状況の重みを知る。なんとはしたない女か。
顔をしかめ、大きな溜息をついた、その時だった。
「おや、ネヴィレッタではないか」
若い青年の声で名前を呼ばれた。ネヴィレッタははっと我に返って顔を上げた。
「ごきげんよう、ネヴィレッタ」
そこに立っていたのは美しい男性だった。高い鼻筋、甘い目元の青年だ。この季節では少し暑そうな生地のコート、絹のブラウスにクラバットを締めている。緩く波打つ長い金の髪をひとつにまとめ、ベルベットの赤いリボンを結んでいた。何より翡翠のような瞳は輝いていて彼をはつらつとして見せた。健康そのもの、元気そのものみたいな、この国の太陽だ。
「会えて嬉しい」
彼は大仰な礼をしてネヴィレッタの手を取り、その甲に軽く口づけるふりをした。ネヴィレッタは真っ赤になった。小さな声で「わたしはそのようなことをお受けする身分ではありません」と抗議したが、彼はまったく動じず「女性に礼を尽くすのは身分など関係なく男のなすべきマナーだ」と言って片目を閉じてみせる。
「そろそろ会えないかと思っていたところだ。呼び出す前に君のほうから来てくれるとはありがたい。それも一人で、なんてね。君を呼び出そうとするとマルスが激怒するのでいろいろ面倒なのだよ」
「まあ、失礼な家臣ですこと。殿下のお呼び出しに応じないだなんて、そんなガラム王国臣民がいてはなりません」
「そう言ってくれるとは嬉しい。私もまだ捨てたものではないと思える」
そして、輝かんばかりの、魔法騎士団の面々に言わせれば胡散臭い笑顔で言った。
「さあ、話を聞かせてくれたまえ。私が君に依頼したことの顛末について、仔細に語ってくれたまえ」
ネヴィレッタは大きく頷いた。
彼の――ガラム王国唯一の王子であるレナート王太子に背いて許される人間など、ガラム王国どころか、きっとこの世にはただ一人として存在しないのだ。
ネヴィレッタは城の庭にある園亭に招かれた。
繊細な彫刻の施された柱、緻密な紋様の描かれたタイルで覆われている園亭は美しく、内部にあるソファも凝った刺繍の美しいクッションが敷き詰められている。レナートからしたら最大限居心地のいい空間を用意してくれているつもりなのだろうが、ネヴィレッタはあまりの豪華さにくらくらしてしまいちょっと怖くなる。
レナートは侍従官に紅茶と焼き菓子を持ってくるように言った。これではちょっとしたお茶会だ。王太子と二人きりでこんなことをするなど不敬も甚だしい。
「楽にしたまえ」
そう言いつつ、長い脚を組み、ティーカップに唇を寄せる。ネヴィレッタは緊張でがちがちで、手が震えてしまいそうでティーカップを持てなかった。
「殿下、あの、お忙しいのではないですか? このようなこと、あの、
「気にしなくていい。君には国家の存亡をかけた重大な使命を与えている。今や君は国の行く末を左右する超重要人物なのだ。そんな君のために国を代表する人間である私が礼を尽くさずしてなんとする。私はそのように器の小さい次期国王ではない」
そう言いつつも顔はにやにや笑っている。どこまで本気かわからない。魔法騎士団の面々が本気で相手にするなと言っていたが、さて、どうしたものか。王子をないがしろにするわけにはいかないし、彼の言葉を信じないでガラム王国臣民を名乗ってはいけない気もするし、何より自分は不器用で人を疑いながらもうまく付き合うということができない。
「さて、首尾を話したまえ」
「えっと、どこからお話ししたらいいでしょうか」
「結論から言うといいよ。単刀直入に。エルドは出てきてくれそうかい?」
ネヴィレッタはうつむいて「ごめんなさい」と呟いた。エルドを連れ出すどころか自分がエルドに家にひきこもろうとしているなど、恥さらしにもほどがある。
「君の美貌と個性をもってしても籠絡できる相手ではないということか。贅沢な男だ」
「ろ、籠絡?」
ネヴィレッタはぎょっとした。ヴィオレッタに比べて容姿に劣り、卑屈で弱虫な性格をしている自分だ、いったい何をどうしたら男性を籠絡できるというのか。
だが逆に、ふと、考える。
魔法も使えず、勉学もできず、社交界にも出ていけない自分の価値など、女であることくらいしかないのかもしれない。
頭を殴られたような衝撃だ。
とはいえ、そういう女はレナート王子の周りには他にいないだろう。セリケのような気高い魔法騎士団の女性がそういう務めに従事するわけがないし、令嬢たちは深窓で育てられ社交パーティくらいでしか男性と会話しないし、王子は一人っ子で姉妹どころか兄弟もいなかった。
もやもやする。指先と指先を突き合わせ、もごもごと訴える。
「エルドはそんな軽薄な男性ではありません……。わたしは……その……バカだしどんくさいし、そういうことでしかお役に立てないかもしれませんけど……エルドはそういう浅はかな人ではなないと思います……」
ネヴィレッタの小さな声を吹き飛ばすような声量で「おや、どういうことだい」と王子が問いかける。
「エルドを庇うようなことを言うね。エルドと多少会話ができたものと見える。最後に彼に会った時私はそれはそれは冷たい扱いを受けたのだが、君には親切だったのかね」
エルドが、レナート王子が大嫌い、と言っていたのを思い出した。相性が悪いらしい。魔法騎士団の面々もみんな口を揃えてこの王子に振り回されていると言う。確かに引っかかるところはあるものの、ネヴィレッタは彼をとても魅力的な王子だと思っているので、ちょっと違和感がある。
「はい、少しお話ができました。それに、またおうちを訪ねてもいいと言ってくださったので、今度はもう少し中央の事情を説明できるかな、とも思います。籠絡は無理だと思いますが……」
そこまで言ってから、ネヴィレッタはさっきまで頭を悩ませていた恋という言葉を思い出して顔を真っ赤にしてしまった。王子からしたら脈絡のない赤面ではないかと思うと恥ずかしい。
ところが、王子はなんらかの文脈を読み取ったようである。
「おやおや? 私の早合点かな?」
顔を上げ、王子の顔を見る。その翠の瞳がいたずらそうに笑っている。
「籠絡できそうなのだね。なんとめでたい。よきかなよきかな」
「そ、そういうわけではありません」
「だが彼はあの家に君を招き入れたのだろう? あの、
耳まで熱い。
「いや、すばらしい。私も引き合わせたかいがあったというもの。その調子で励んでくれたまえ」
「そんな言い方……あの、殿下ったら……」
「遠慮することはない。ただ、君を溺愛しているマルスには言わないほうがいいだろう。そう、私との内緒話だ。他言してはならない。いいね?」
「はい、もちろんです」
王子がまた紅茶に口をつける。
「いいことだ。私も癒される。最近いいことがないからね」
「そうなんですか?」
「君が案ずることではない、臣民を守るのは私の務めだ、私一人が苦労すればよろしい。ただ娯楽――間違えた、癒しは必要だ、心が慰められる」
「はあ。わたしとエルドの関係がそんなに癒しになるのでしたら、光栄なことでございますが」
喉が渇いた。ネヴィレッタはティーカップに口をつけようとした。
次の時、王子はこんなことを言い出した。
「その調子で進展してくれたら私も嬉しいよ。二人の結婚式は国を挙げての盛大なものにしよう」
口に物が入っていたら噴き出しているところだった。
「急に何をおっしゃって……!?」
「え、そういうことではないのかい?」
「そういうことでは……、そういう、そう……」
恋、の文字が頭を通りすぎていく。
「でも、わたしもこんなでも一応貴族の娘で……エルドは農民の子だったと……」
「彼は武功を立てた国の英雄だ。爵位を与えよう。叙爵叙爵ー!」
「国王陛下が何とおっしゃるか」
「父上とてエルドがこの国で一番の魔法騎士だったことをご存知なのだから異論はないだろう。エルドのおかげで拡大した領土はどれほどになることか」
そう言われると複雑な気分だ。エルドが魔法騎士として活動していたことはエルドにとって幸福なことではないのだが、そのおかげで結婚話がスムーズになると思うと――と思って慌てて「エルドの意向を無視しないでください」と主張する。レナートがしれっと「私が結婚しろと言ったら結婚するのだ」と言う。なんという暴君か。
「これほど楽しいことがあろうか。オレーク侯爵もお喜びになるだろう」
突然父が話題に出てぎょっとした。
「父がどうかしましたか?」
「いや、彼はご令嬢がたの将来のことで気を揉んでいたからね。これで二人とも進路が決まって安泰だ。マルスも団長としてよくやっているし、老後のことだけ考えればいい身の上になるのは気楽でいいね」
「ちょっと、待ってください」
結局ネヴィレッタは紅茶を一口も飲めなかった。
「わたしと、妹が、ですか? 進路、とは……妹も何か決まったのですか?」
「おや、聞いていないのかい?」
レナート王子は相変わらず能天気な顔をしている。
「君はお嫁に行く。ヴィオレッタは魔法騎士団の幹部になる。めでたしめでたしだ」
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