第2章
第7話 頭を冷やしなさい
誰かにエルドの話を聞いてほしかった。彼に受け入れてもらえたことが嬉しくてたまらなくて誰かに自慢したくなったのだ。
こんな感情を抱くのは生まれて初めてのことだった。誰かと二人きりになることをこんなにも幸福に思える日が来るとは思ってもみなかった。
家の中には喜びを分かち合える人間はいない。強いて言えばマルスか、と思ったが彼にはエルドに関わらないほうがいいと言われたばかりだから気が引けた。
ちょっと考えた結果、ネヴィレッタは魔法騎士団の集会所に行くことにした。セリケとカイならエルドとも知り合いだし自分のことも可愛がってくれている。あの二人なら真剣に自分の話を聞いてくれるのではないかと考えたのだ。
魔法騎士団の集会所は王城の中、城の内側の門を入ってすぐのところにある。王族が使う礼拝堂と同じくらいの広さの会堂があり、会堂の周りに団長の部屋、有事には指令室となる会議室、そしていくつかの控え室が設けられていた。
あまり頻繁に出入りできるわけではない。両親がいい顔をしないからだ。そもそも外出すること自体がおもしろくないというのに、武官集団であり貴族も多い魔法騎士団に接触して社交界に魔法使いではないことを知られてしまったらと思うと不安になるらしい。
しかし現在の団長は兄のマルスである。兄が許可すると言えば許可されるのである。
兄はひきこもりがちなネヴィレッタを心配しており、少しでも外出する機会を持つよう促している。その行き先のひとつとして自分の勤め先である魔法騎士団の集会所を選んでくれるのは嬉しいと言ってくれている。現役の魔法騎士たちも兄を慕うネヴィレッタを微笑ましく思っているとのことで、ネヴィレッタの訪問に目をつぶってくれていた。
ネヴィレッタが会堂に向かうと、ちょうどセリケとカイが会堂から廊下に出てきたところだった。ネヴィレッタはいつになく大きな声で「セリケ、カイ!」と二人の名を呼んだ。二人が顔を上げ、こちらを向く。
「やっほーネヴィレッタ、お久しぶり!」
そう言って明るく笑ったのはカイだ。マルスより二つ年下の二十三歳で、風属性の部隊の隊長である。良く言えば陽気で朗らかな青年だ。うなじにかかるほどと少し長めの銀髪を上半分だけひとつにまとめている。明るい青色の瞳は空の色に似ていた。一見すると細身だがどうやら着やせするほうらしい。
カイは跳ねるような足取りでネヴィレッタに近づいてくると、「今日も可愛いねえ」と言いながらネヴィレッタの頭を撫でた。いつまでも子供扱いされているようであまり気分のいいことではないが、カイには悪気はない。ちょっと馴れ馴れしいことに目をつぶればいい人だ。
「おやめなさい、カイ。あなたのように軽薄な男がネヴィレッタに雑な手つきで触れるのを見ているのは不愉快です」
落ち着いた声で言ったのはセリケだ。彼女はマルスより二つ年上の二十七歳で水属性の部隊の隊長である。めったに変わらない表情、はっきりとした物言い、いついかなる時も冷静沈着であることから彼女を冷たい人間だと思う人間も多いらしいが、ネヴィレッタは彼女が本当は温かい人間であることを知っている。青みがかった薄い色の髪、深く青い瞳は透き通る湖の色だ。
「厳しいねえセリケ姉さんは」
「離れなさい。ネヴィレッタも抵抗するのですよ」
「だいじょうぶよセリケ、わたしいやじゃないわ」
溜息をつきながら「今日は何の用事ですか」と問うてきた。言葉尻は冷たいようにも感じるが、彼女の場合深い意味はない。
「セリケとカイに話を聞いてほしくて」
「何のです?」
「エルドのこと」
二人とも黙った。ネヴィレッタは少し緊張した。この二人がこういう反応を見せるのは珍しい。ネヴィレッタが何を言っても通常どおりのセリケとカイだ。しかも二人は戦場を駆けて死線を潜り抜けておりちっとやそっとのことでは動じない。
「こちらに来なさい」
セリケが踵を返した。会堂の中に戻る。そして向かって右のほうに歩いていき、小さな控え室に入っていく。
「その名は軽々しく口にしていいものではありません」
ネヴィレッタはますます体を硬くした。マルスが歩く国家機密と言っていたのを思い出したからだ。しかしネヴィレッタの中ではあの穏やかで優しい青年が国家の存亡と結びつかない。何かの間違いではないのか。それも今日二人に確認したいところだった。
「ささ、こっちおいで。じっくり話をしよう」
カイにも促されて、ネヴィレッタはこわごわ控え室の中に入っていった。
控え室の中には小さなテーブルと華奢な丸椅子が二脚、そして薄緑のカバーをかけた二人掛けのソファが置いてあるだけだった。窓もない。殺風景で、なんとなく不安を掻き立てられる部屋だった。
ネヴィレッタはソファに座るよう言われた。カイは丸椅子に座る。セリケはソファに向き合って立ったままだ。
「どこでその名を聞きましたか」
おそるおそる「レナート殿下」と答えた。カイが「おう」と言いながら自分の額を押さえた。
「レナート殿下に、エルドに会いに行って、中央に連れ出してほしいと頼まれたんだけど……」
「断りなさい」
セリケは一刀両断にしようとした。けれどもう遅いのだ。
「もう会いに行った後よ……」
カイが明るい声で「案外行動力があるね」と褒めてくれた。あまり嬉しくなかった。
「エルドの家に行ったのですか」
「ええ、あの、フラック村の近くの」
「なぜ私たちに相談しなかったのですか」
相手はセリケなのに詰問されているように感じて怖くなってネヴィレッタは肩をすくめた。
「ごめんなさい。レナート殿下に頼みごとをされるだなんてと思ったら、興奮してしまって」
カイが笑う。
「レナート殿下のことだから、ネヴィレッタが誰にも相談できないことを見越して利用したのかもね」
「ありえます。最低のクソ野郎です」
上品なセリケから汚い言葉が出てきてびっくりした。レナート王子の評判が悪すぎる。
「わたし……、余計なことをしてしまったかしら……」
心が急速にしぼんでしまった。二人に話さなければよかった、とも思ってしまった。この二人に隠し事をしてもいいことなどないのだが、黙って過ごしていればよかったのかもしれない。
「エルドは何か言っていましたか」
「中央には帰りたくないと……レナート殿下なんて嫌いと」
「そうでしょうね。それであなたも追い返されたでしょう」
「いえ……」
セリケが少し眉を動かした。カイが口を尖らせる。
「また何かあったら来てもいいと言ってくれたの……。それで、わたし、嬉しくなっちゃって……」
「えーっ、あのエルドが!? 別人じゃない!?」
「別人かもしれないわ。わたし、あの人が最強で最凶だなんて思えない。あの人が人殺しをするなんて想像もできない」
「おっと、そいつはいけないぜネヴィレッタちゃん。あいつが人殺しなら俺たちも人殺しだ」
はっとしてうつむき、「ごめんなさい」と言った。エルド、マルス、セリケ、カイは戦友なのだ。
「まあ数で言えばエルドが一番殺してるけどね。俺たちとは桁が違う」
ショックだった。
「そういうことですよ、ネヴィレッタ。だからもうお忘れなさい」
セリケにそう言われた。しかしそういうこととはどういうことだろう。鈍くて頭の回転が遅い自分が情けない。
「えっと、それは……、エルドがたくさん殺した人だから、危ないということ?」
「いいえ。彼がこれ以上傷つくのを防止するためです」
やはり、セリケも根が優しい。
「彼は優しい子です。過去にも人殺しと呼ばれてたくさん傷ついてきました。彼の心を守るためにはもう我々魔法騎士団関係者が接触すべきではありません。一人で静かに暮らしたいと言うのならば私がそれを肯定します。連れ戻そうとするなど言語道断、レナート殿下は何回も、マルスやカイも何回か会いに行ったそうですが、私は反対です」
カイが「おいおい、さりげなく俺も否定するのかよ」とすっとんきょうな声を出す。
「エルドが優しいのはわかるわ。わたしにも親切だったわ。こんな無能のわたしなんかに」
涙が込み上げてきて声が震える。
「だからわたし、舞い上がってしまって。エルドと一緒にいるのが幸せだと感じてしまった。こんなの初めて」
するとカイがこんなことを言った。
「なんとまあ、罪な奴。あいつもこんな可愛くて純真無垢な女の子の初恋をかっさらうような男になったのかね」
ネヴィレッタは衝撃を受けた。涙が引っ込んでしまった。
「はつこいですって」
頬が熱くなる。
「そんなつもりじゃないの! わたし、エルドのことは好きだけど、そういう意味じゃない」
カイがにやにやと笑う。
「でも一緒にいて幸せでこんなの初めてなんでしょ?」
恥ずかしくなって両手で自分の顔を覆った。軽々しくだいすきなどと言ってしまった。あの時エルドが困った様子だったのはそういう意味だと解釈されたせいかもしれない。
しかし、ちょっと考える。
初恋か。
カイの言うとおりだ。ネヴィレッタは恋を知らない。今エルドを想うこの感情の名前をネヴィレッタは知らなかった。これが恋なのだろうか。
セリケが咳払いをした。
「それならばなおのこと会わずにいるべきですね。頭を冷やしなさい」
「はい……」
「えーっ、おもしろくないなぁ。いいじゃん応援しようよ、エルドも前向きになるかもしれないよぉ?」
「お黙りなさい。それがどれだけ双方の負担になることか、軽薄なあなたにはわからないのです」
説教をするセリケと冗談を飛ばすカイの喧嘩もどきが始まってしまった。こうなると長い。ネヴィレッタは溜息をついて聞き流すことにした。
恋。
そう意識してしまうと、確かに、もう平気な顔でエルドの家に行けない気がしてきてしまった。いったいどうしたらいいのだろう。
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