第16話 ユイの回想2

 しかしそんな人生の風向きがまた変わった。


 ユイの一一才の誕生日を迎えた日から、徐々におじいちゃんの睡眠時間が多くなっている事に気付いた。


 年を感じさせない機敏な動きをあまりしなくなって、テレビゲームでも簡単に負けるようになっていった。


 そして、五年間の間に、何度か訪ねてきた国のナントカという機関から派遣された人がまた三波家に来た。


 また今までのように難しい話をしたり、生活習慣の話をするのかとユイは思っていた。


 それはいつも機械的で、ユイは嫌いだった。


 それはお喋りでは無い、雑談では無い、お店のレジ係と話すのと同じだ、幼いながらユイは、その人がおじちゃんの友達では無い事を昔から見抜いていた。


 おじいちゃんの仲良しはやはり自分だけなのだといつも再認識して、けれどその日だけはいつもと違った。


 難しい単語は出ず、生活習慣に関する質問も無く、ただ。


「先生、私はいつまで生きられる?」

「非常に申し上げにくいのですが、おそらく今月中には」

「そうですか、私はてっきり一四〇ぐらいまで生きてユイの花嫁姿を見られると思っていたんですけどねぇ」


「それは無理です。もともと人間という生物の体の構造上、どう生きても一二〇年しか生きられないように設計されている。

 この法則を破ったのは人類史上二人だけ、江戸時代最後の人間、泉重千代(ちよ)が一二〇年と半年、人類史上もっとも生きたフランスのジャンヌ・カルマンの一二二年と五カ月半だけでこれらも医学的に考えれば有り得ない事例です。

 一二五を迎えまだ生きている事実、重く受け止めていただきたい、今こうして話している一秒一秒が奇跡、神様が毎秒常に奇跡が起こし続けていると思ってください」


「神様? 違うよ、奇跡はね、ユイが起こしてるんだ」

「ユイちゃんが?」


「ああ、あの子を引き取ったあの年、私は一二〇歳だった。

 今と同じ症状が出て、自分はもう死ぬのかと思ったけどね、もう死ぬ身なのに、むしょうにあの子を引き取りたくなったんだ。

 あの小さくて可愛くて、だけどとっても寂しそうな子猫ちゃんをね、そうしたら奇跡が起こった。

 あの子を引き取ると決めた途端体がみるみる動くようになって、あの子と一緒に暮らすうちに私の体は青春時代の頃に帰ったように元気になった。

 だからこれはユイが起こしてくれた、ユイからのプレゼントなんだよ」


「ですがあなたはもう」

「ああ、うん、そうだね……ほんとうに、この世に神様がいるならあと一〇年、せめて九年、あの子が成人式を迎えるまで奇跡を起こしてくれないもんかねー」


 ドア越しの会話を聞いて、ユイは奈落の底に落ちるような絶望感に襲われて何も見えなくなった。


 ユイは頭の良い子だった。


 小学生ながらに、二人の会話の全てを正しく理解し、愛しい人の未来を予期してしまった。


「……何か望みはありますか?」

「望み?」


「ええ、私はあくまで研究者で貴方は被験者だ、貴方のプライベートに立ちいるつもりはありませんが、人類史上もっとも生きた人間として何か」

「……いえ、あるとすればもっと生きたかった、かな、この望み叶えてくれますか?」


「それは……」

「無理でしょうな、それならば……私が死んだあと、ユイの事を頼みます」


「ユイちゃんを?」

「はい、あの子はようやく笑えるようになったのです、だから私が死んだあとも、笑顔の絶えない家庭で育ててあげたい」


 ユイの頬を涙が伝う。


 何も言わず、足音を立てないようにユイはその場を離れ、しばらくすると国の人は帰ったようだった。


「わかりました。それが貴方の望みなのですね……三波皆人(・・・・)さん」


 その日から、皆人の体調は悪化し、ユイとゲームができなくなり、漫画も読んであげられなくなった。


 逆にユイが皆人の好きな漫画を持ってきて読んで聞かせた、今まで皆人がそうしてくれたように。


 それでも皆人の体調が良くなることは無く、ある朝、ついに皆人は布団から起き上がらなかった。


「ごめんなユイ、もう、おじいちゃんお迎えが来ちゃったみたいだ」

「いやだ!」


 ユイは泣き叫ぶ。


 クラスの子よりも大人びて、けれどよく笑うユイは涙で顔をぐしゃぐしゃにして、力の限り叫んだ。


「おじいちゃん死んじゃやだ!! ずっとずっと一緒じゃなきゃやだ!!」


 神様まで届けと言わんばかりに声を張り上げても、皆人の反応は薄く、子供の目にも生気が抜けて行くのが分かる。


「おじいちゃん、何かあたしにできる事ないの! 何かしてほしい事ない!?」

「じゃあ、おじいちゃんが死んでも、悲しまず幸せに」

「そうじゃなくて! おじいちゃん自身の事で! あたしじゃなくておじいちゃん自身が幸せになれる事!! やり残した事とかないの!!?」

「やり残した事ねぇ、はは」


 薄く苦笑して、皆人は息を吐き出した。


「前にも一度言ったけど、おじいちゃんも男だからねー、死ぬ前にセックスしたかったかな、童貞のまま死ぬのはちょっとね」

「セックス?」

「そうだね、好きな人と付き合って、結婚して、セックスして、愛し合って、子供ができて、子供の成長を喜びながら家族と過ごして、そしたら孫ができて……それがおじちゃんの夢だった。でも実際には恋人もできなかった……けどもういいんだ」

「え?」


 不思議そうにするユイの頭を、皆人は優しく撫でる。


「だって、もうこんなに可愛い孫娘がいるんだからね、ユイ」


 初めて会った時以上に眩しい笑顔で、皆人はユイと視線を交える。


「おじいちゃんの夢を……叶えてくれてありがとう」


 途端に、ユイの目から堰(せき)を切ったように涙があふれ出す。


 それが鼻水と混ざって、もうめちゃくちゃになってユイは泣いた。


 泣いて、走った。


「待ってておじいちゃん!」


 しばらくして、ウエディングドレスを着たユイが戻ってくる。


「ほら! あたしのお嫁さん姿観たかったって言ってたでしょ? だから内緒で作ったんだよ!」


 子供が作ったとは思えない程見事な仕上がりのウエディングドレスを着て、ユイは無理に笑う。


「ああ、綺麗だよユイ、本当に綺麗だ」

「うん、そうだおじいちゃん結婚しよう! あたしと結婚! それでね、おじいちゃんが旦那様であたしが奥さん、それでね、それでね」


 言いたいのに、涙声はかすれて、上手く喋れない。


「ユイ、私は今まで不幸だった」


 最後の力を振り絞り、皆人は告げる。



「幼い頃から私は何をしても人並み以下で、どれだけ努力をしても成果が出無かった、どうしようもなく、不出来な人間だったんだ。

 いくら努力しようとも成果が出無ければ人は評価してはくれない、私は人々からバカにされ、できないフリをして同情を買おうとしているとか、悲劇のヒーローを気取っているなどと非難された。

 かつての友人達も学校を卒業してしまえばそれっきり、一度疎遠になった関係は戻らず、気づけば友人のいない人生を何十年も歩んでいた。

 それでも、風の噂で私より先に死んだ事を知った時は胸が張り裂けそうだった。

 父さんや母さん、顔を知る親戚も皆死んで私だけが生き残り、何をしても報われず、ただ一人寂しく生きる人生を送り、気づけば何も持っていなかった。

 自分の人生は不幸に始まり不幸に終わる呪われた人生のはずだった、でもねユイ」



 一度目を閉じて、皆人は告白する。


「君がうちに来てくれてからはずっと幸せだった」


 その言葉でユイの顔がハッとする。


「君がうちに来てくれてからは毎日が楽しかった、世界が輝いていた、笑わない日は無かった」


 皆人に引き取られてから、自分が思い続けてきた事を、この人も思っていてくれたのだと知って、今までの思い出が洪水のように溢れだして、ユイの目から流れる涙によりいっそう熱がこもる。


「だからねユイ、あらためて言わせてくれ…………うちに来てくれてありがとう」

「おじいちゃん!!!!」


 帰ってくる言葉は無い。


 糸の切れた人形のように布団に横たわり、幸せそうな死に顔で三波皆人は静かに息を引き取った。


「おじいちゃん!! おじいちゃん!!」


 叫んだ。

 持てる感情を込めるだけ込めて。

 血を吐き出さんばかりに、内臓の全てをブチ撒けそうなほど。


「あたしまだ成人式してないよ!

 あたしまだ結婚してないよ!!

 あたしまだ子供産んでないよ!!

 おじいちゃんにひ孫の顔見せて無いよ!!!!

 おねがいだから死なないで!!!

 神様あたしからおじいちゃんを奪わないで!!!!

 あたしはどうなってもいいから!!!!

 何もいらないから!!!

 おじいちゃんさえいてくれれば後は何もいらないから!!!!!!」


 全身を震わせ、ユイは世界に懇願した。


 しかし奇跡は起きない。


 涙と鼻水で顔と布団を濡らし、嗚咽を漏らして理性が潰れてユイは喉が枯れ果てても涙を流し、涙腺が枯れても心の中で泣き叫び、ユイの全てが枯れて果てた時、ユイはこの世界の全てを呪った。


 自分の全てを奪ったこの世界を、神を、そして愛しい人を今まで理解せず、馬鹿にし、非難し、彼を不幸にしてきた人々を呪った。


 しかし、そこまで考えて、ユイは彼の気持ちを思い出す。


 自分がそんな事をしたところで彼は喜ばない、むしろ悲しむだろう。


 彼は自分に幸せになって欲しいと頼んだのだ。


 それでもやりきれない、納得できない思いで頭が割れそうになり、ユイは最近読んだ一つの記事を思い出して目を閉じる。


「…………よし」


 決意して開いた目には強い意志が宿り、ユイは皆人へ向き直り、一人で小さな結婚式を上げた。


「誓いのキスを」


 自分でそう言って、モノ言わぬヒトに熱いキスをする。

 自分はこれから彼を助ける。


 だが、それは彼であって彼では無い。


 自分と時間を共有してきた、自分が愛した目の前にいる彼は彼で救わなくてはならない。


 だから結婚なのだ。

 だから結婚するのだ。

 今死んだ彼と。

 自分が愛してきた彼と。

 この世にただ一人しかいない、正真正銘の三波皆人と。


「おじいちゃん……大好き」


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