第15話 ユイの回想1


 その女の子には、ものごころついた時から親がいなかった。


 生まれたばかりの緑子の時に孤児院の前に捨てられたその子には、親の記憶が無い。


 名前の書いた紙はおろか、体を包む布一枚無く、裸のまま置き去りにされたその子は、夏でなければ確実に凍死していただろう。


 孤児院で親が引き取りに来てくれた子や、幼稚園の行事で自分を見に来てくれる親がいる子を見るたびに思った。


 どうして自分には親がいないのかと。


 孤児院の先生達は自分を育ててくれたけれど、先生は親ではない。


 先生は先生で、お母さんではない。


 そして子供故の残酷性か、幼稚園の同級生はこぞってユイをいじめた。


 親無しと、捨て子と、いつもそう罵られた。


 成長しても感情が芽生える事は無く、他の子のように笑いながら遊べないその子供は誰とも遊ばず、一日の多くを野良猫と過ごしていた。


 彼女が誰もいないところで座っていると、自然と猫達が寄ってくるし、素通りする猫を追いかけると猫は彼女が追いかけられる程度の速さで歩き、猫の集会所へ招いてくれた。


 猫達とお昼寝をするのが一番好きな時間だった。


 猫と一緒にいる時は、親がいない事を忘れられた。


 だが、涙を流すことすら忘れてしまったその少女が小学校へ入学する前のある日、風向きが変わった。


 それは彼女が木の上で眠っていた昼下がり、普段は決して有り得ない事なのだが、珍しく少女は寝返りをうち、木の上から猫と一緒に落ちてしまった。


 孤児院の敷地から外へ大きく突き出した太い枝の下は硬いアスファルト、打ちどころか悪ければ死ぬことも有りうる。


 なのに、本物の猫と違い受け身の取れないユイの体はふわりと着地した。


 強く閉じた目を恐る恐る開くと、アスファルトはまだ下にある。


 体が宙に浮いている、はずはない、何かに支えられているのだ。


 何に?


 そう思って見上げれば、そこには眼鏡をかけた、白髪頭でしわくちゃの顔があった。


「これはまた、随分と可愛い猫ちゃんが降ってきたものだね」


 見た事も無いほど優しい目で柔和な笑みを作るその老人はそう呟いて、少女を抱きかかえたまま尋ねる。


「猫ちゃん、君の名前は?」


「……ユイ……ユイです…………」

「そうか、ユイちゃんか、可愛らしい名前だね」


 その落ち着いた声に、ユイは今までに感じた事の無い安らぎを覚え、ずっとこの暖かい腕の中にいたいと思った。


「それでユイちゃん、お母さんはどこかな? おうちは?」


 その問いに、ユイの表情が冷える。


 せっかくのほわほわとした気分が消えてしまい、


「親はいないの、おうちはここ」


 と、孤児院の塀を指差した。

 するとその老人は、一度塀を見上げる。


「ふむ」


 数秒間、孤児院の塀とにらめっこをしてから、腕の中の寂しそうな女の子を見下ろして、老人は赤子をあやすように、上手にユイを揺らしながら孤児院の入り口まで歩いて行く。


 孤児院の門からは、校庭で遊ぶ多くの子供達が見える。


 楽しそうに、明るい子供達の声に満ちた希望の世界を前に、老人はまた尋ねる。


「お友達の名前を教えてくれるかな?」


 しかしユイはまた答える。


「友達も……いないの…………」


 その返事に、老人の眉が僅かに、それこそ指摘されなければ分からないほど僅かに下がり、眼鏡のレンズ越しに贈られる眼差しにかすかな寂しさが込められる。


「そうかい…………」


 ゆっくりと空に向けられた視線は、もう戻れない遠い日を見るように細められて、それからようやく老人はユイを下ろしてくれた。


「それじゃあユイちゃん、またね」

「……うん」


 それだけ、たったそれだけの繋がりだったけれど、ユイはその老人の事が忘れられなかった。


 それほどに、その人の手と、目と、声は優しく、暖かかった。



「すみません、ここの院長さんにお話しがあるのですが」



 一週間後、ユイはその老人の元へと引き取られた。


 一二〇歳という、長寿世界記録を持ちながら、医者が太鼓判を押すほど健康体のその老人に引き取られたユイは、三波ユイとなった。


 以前、孤児院にあてがわれた名字は覚えていない。


 たしかどこにでもある、そう珍しく無い名字だった気がする。


 だがそんな事はどうでもいい、ユイにとっては、その三波という名字がかけがえの無い宝物だった。


 老人の家には見た事も無いほど古いオモチャや漫画がふんだんにあって、一〇〇年以上前のテレビゲーム機が未だ現役で動いていたのには驚いた。


 同じくらい古い、完全に変色した紙媒体で色のついていない、白黒アナログコミックは思いのほか面白かった。


 それはただ漫画の内容がおもしろかったわけではない、その老人が自分を膝の上にのせてくれたり、同じ布団の中で迫真の演技でセリフや効果音を声に出して読んでくれたからだ。


「『くらえ! これが俺の新技だ!!』ズドドドーン!『ぎ、ぎゃああああ、まさかこの俺様がぁあああああ!!』」


 そしてコミックスや昔の少年漫画雑誌に掲載される物語を一つ読み終えるたびに当時の読者の反応を教えてくれるのが、ユイにはとても豪華に思えた。


「それでこの話が雑誌に載った時は2chでご都合主義スレッドが立ってたくさん批判の書き込みがあったけど、この来週号で実写映画化発表の巻頭カラーで盛り上がってね、友達の家で読ませてもらったけど当時は驚いたね、お爺ちゃん達みんなが好きな作品だったから、その後みんなで映画に行く約束もしたよ」


 語るその人があまりに嬉しそうで、ユイも思わず嬉しくなってしまう。


 テレビゲームも二人で一緒に対戦したり、二人強力プレイをして、ゲームで勝つとご褒美にアメ玉をくれた。


 毎日が楽しかった。

 世界が輝いていた。

 笑わない日は一度も無かった。

 けれど、一番うれしかったのは、やはり行事の時だ。


 小学校の入学式の日、式が始まる三時間も前に場所を取って、保護者席の一番いい席からビデオカメラを回して手を振ってくれる人がいる事が嬉しくて、嬉し過ぎて、胸を張って「あたしのおじいちゃん♪」とみんなに言った。


 それでも、一部の生徒は『親無し』と言ってくるが、そんな事は気にならなかった。

 そう言われる度に「うちはおじいちゃんがお父さんでお母さんなの♪」と言い返した。


 おじいちゃんに朝、優しく起こされるのが好きだった。

 おじいちゃんの作ったご飯を食べるのが好きだった。

 おじいちゃんに学校まで送ってもらうのが好きだった。

 おじいちゃんが学校に迎えに来てくれるのが好きだった。

 おじいちゃんと食べる夕食が好きだった。

 おじいちゃんと一緒に入るお風呂が好きだった。

 おじいちゃんと一緒にゲームをして、おじいちゃんが漫画を読んでくれて、おじいちゃんと公園で遊んで、一二〇代とは思えない機敏な動きや的確過ぎる頭脳プレイに驚かされたりする全てが好きだった。


 ある時から、そんなおじいちゃんが自分以外の人と話しているところを一度も見た事が無い事に気づいたり、昔の知り合いや親戚がすでに全員死んでしまっている事を知って、少し悲しい気持ちになったりもしたが、おじいちゃんと一緒に遊んでいるとそんな感情はすぐに無くなった。


 自分がおじいちゃんの家族なんだ。

 自分がおじいちゃんとずっと一緒にいてあげるんだ。

 そう思って、幸せな日々を送り続けた。


 今までの悲しい人生を取り戻すように、おじいちゃんの愛に育まれてユイは育った。


 しかしそんな人生の風向きがまた変わった。


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