第2話( 一 )

「今日は何か騒がしいね」


 里見清史郎が言うので、公園の池の方を見ると、何やら人だかりが出来て居た。ボート置き場の所には青いビニルシートを張っている警官の姿があった。近くに警察車両が止まっている。救急車も見えた。


「池に人が落ちたのかも知れませんね。5月だから水も冷たくもないし、今なら落ちても大丈夫じゃないですか」


 私は大学の先輩である里見清史郎のマンションに寄宿していて、朝食に近くの公園のカフェに降りて来ていた。マンションは東京の北西部にあるK公園の南斜面に立つ高級マンションだった。

 公園へ続く斜面を降りて行くと、カフェレストラン『フォレ・デ・ラ・フォレ』(森の妖精の意)があった。私はいつもそこで朝食を摂っていた。私はフリーの編集者兼ライターで、ここのオープンテラスが私の仕事場所でもあった。

 里見清史郎は祖父から莫大な財産を相続しており、現代の高等遊民と言った生活を送っていた。職業は何かと人に聞かれると、彼は冒険家だと答えた。確かに大学の研究スタッフに混じって南米の遺跡発掘プロジェクトに参加しており、自分自身がそのプロジェクトのスポンサーの一人でもあった。

 今回は母方の姪の結婚式に出るために、一時帰国しているのだった。

 マンションは、普段私が管理を任されて住んでおり、そうでなければ、こんなロケーションの高級マンションに私が住めるはずはなかった。私は北陸地方出身の田舎者なのだから。


「何かあったのかい」


 私はちょうど皿を片付けに来たバイトの修くんに聞いた。


「それが大変なんですよ。源さんが池に落ちたみたいなんです」

「えっ、源さんは大丈夫だったのかい」


 私は思わず声を返した。


「それが、ダメだったみたいなんです。今、マスターが身元確認に行ってます。源さんはこの辺りでは有名でしたから。そう言えば確か、哉太かなたさんも二人で話をしたと言ってましたよね」

「ああ、やっぱり仕事柄かな、つい色々聞いちゃうんだよね」


 源さんと言うのは、この辺りでは『陽気な源さん』で通っている浮浪者だった。公園周りの住人に会うと、いつも明るく挨拶をして来る。池のボート小屋を寝ぐらにしていた。夕方にはボートはフェンスの内に仕舞われて、人が入れなくしてあるのだが、どこをどうやって入り込むのか、物置やボートに段ボールを敷いて眠っているらしかった。


「それでこの間、つい身の上話を聞いたんですよ」


 私は横で黙って聞いていた里見清史郎に説明をした。


「僕はショックですよ。昨日もここに来て話したばかりなんですから」


 修くんは真剣な表情で言った。


「どんな様子だったの?」

「いつもと同じですよ。客の飲み残しの酒をさっと飲んで、笑って出て行きましたから」

「客の飲み残しの酒なんか渡しているのかい?」


 里見清史郎が気になったのか聞いて来た。


「うーん、もう習慣みたいかな。お客様がいなくなった頃を見計らって来るので、オーナーも目くじらを立てて怒らないから。閉店間際の恒例行事みたいな感じですね。昨日はまた、その様子を見ていたお客さんの一人が、更に一杯奢ったので上機嫌で帰って行きました。やっぱり、あの酒が悪かったのかな。ちょっと責任感じますよね」

「酒が入ったからと言って簡単に落ちて死なないよ。いつもと同じだったのなら、昨日は運が無かったんじゃないかな」


 修くんが不安そうに言うので私は少し慰めた。

 しばらくすると、現場検証も終わったのか警官も見えなくなって、集まっていた人たちもすっかり居なくなった。

 カフェレストランのオーナーである青山二郎がこちらへ戻って来るのが見えた。

 池の周りは遊歩道になっているが、大きく広場になったところには、大道芸人のイベントスペースがあった。それに隣接するように並んで、アクセサリーや小物雑貨、似顔絵や絵葉書などを売る露店があった。敷物を広げて細々とした商品を所狭しと並べて売っていた。フリーマーケットのような雰囲気があって人気があり、休日には結構な人出になる。今日はまだ早いので疎らだが、午後になれば気持ち良い陽光に誘われて、もっと人が出てくるだろう。

 軽食やかき氷を売る売店は向こう岸側の広場にあった。東西に長い池には何本かの交差した橋が渡されていて、向こう岸と行き来ができるようになっている。私がいるカフェは南斜面の少し高いところにあるので、池とそれを取り巻く広場が広く見渡せるのだった。


「久しぶりに帰ってくると、やっぱり気持ち良いな、ここは」


 里見清史郎が食後の珈琲を飲みながら言った。

 木々の新緑も鮮やかで、涼やかな風も少し吹いていた。


「夕日を見ながらここで酒を飲むのも良いですよね。桜のシーズンは花見客で煩いけど、これから初夏にかけては本当にいいですよ」


 私もくつろいで答えた。

 このカフェでは夕方からはアルコールも出す。洋酒のミニボトルを色々種類を豊富に揃えていて、水割りやハイボールにして飲むのが人気だった。ここのお客は大半がアベックや観光客で、腰を落ち着けて飲むと言うより、手軽に色々楽しめるのが人気なのだった。

 オーナーの青山二郎が上って来て、私たちに声をかけて来た。


「里見君、お久しぶり。今回は何日ぐらい日本にいるの」

「一週間くらいですかね。またすぐに南米へ戻りますから」

「先輩は良いなぁ、自由で。僕もあくせく働かなくても良かったらなぁ」

「この間の短編は雑誌を取り寄せて読んだよ。僕が言った話を上手く書いていたじゃないか」


里見清史郎が笑った。


「はは、分かりました? 先輩から聞いた話をトリック仕立てにして書いたんですよ。まだ他に、何か面白い話がありませんか?」

「あの話は里見さんが元だったのか。哉太くんは、あんな良いマンションだけじゃなくて、小説の種まで借りてるのかい」


青山二郎が突っ込む。


「青山さん、やめて下さいよ。ちょっと話の種をもらっただけですよ」


 私は頭をかいた。里見清史郎の周りにはなぜか面白い話が落ちているのだ。


「それより、源さんのことなんですけど、どうなったのですか」


 テラスには常連の客が、私以外にも数人居たので、みんな興味津々と顔を向けて来た。常連客ではない若い男の客も一人居たが、話を少し聞いていたのだろう、やはりこちらの方へ聞き耳を立てている。手に似顔絵を持っていたので、広場で描いてもらったのだろう。


「昨日の夜中にボートから池に落ちたみたいなんだ。水音を聞いた人がいて、警察に連絡して騒ぎになった。直ぐに呼ばれて来た公園の管理者が、ボートを出して池を探したら、漂流していたボートの側に浮かんでいたらしい。救急車を呼んだ時にはもう亡くなっていた。水死は明らかなんだけど、この陽気だからね、慌てないで立てば足だってつくし、酔っていたのかなって話だった。後から一応話を聞きに警官が来るらしいよ」

「青山さんはその人と親しかったの」


 里見清史郎が聞いた。


「ああ、この辺りで陽気な源さんを知らない人はいないよ。うちは飲食店なんで、たまに残り物を分けたりしてたからね。それに私物も少し預かっているんだ」

「それは何なの」


 死んだ浮浪者の私物と聞いて興味が湧いた。


「僕も詳しくは聞いていないが、定期的にご家族とはやり取りがあったんだと思う。きっと手紙とか写真とかだと思うけど、小さな袋に入れてあるのを預かってるよ。警察に話したら、後で見に来るという話だ」

「袋の中味は見てないの?」

「いいや、後から警官が来たら一緒に開けて見るつもりだよ。そう言えば、哉太くんも源さんから何か話を聞いたらしいね、修が話してたけど」

「ええ、2週間くらい前かな、少し身の上話を聞きました」


私はその時のことを、みんなに話して聞かせた。

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