第26話 イントゥー・ジ・アビス

 場末の寂れた飲食店街、この事件の舞台でもあるルナティック・インの前に再び戻って来た二人は街路灯に薄ぼんやりと浮かび上がる木造三階建のシルエットを見上げていた。


「よし、行こう」

「ちょっと待つし」


 濡れた服を着替えるために店に入ろうとするミエルを晶子しょうこが止める。その声は風に吹かれてすっかり身体からだが冷えてしまったおかげで少しばかりかすれていた。


「こんなところに停めたらあたしたちがいるのがバレバレだし。だってあいつらあたしがこのチャリ使ったの知ってるんだから」

「てか、自分で言ったんじゃないか、チャリで来た、って」

「あ、あれはその場の勢いだったし。そんなことよりどっか置き場所を……」

「わかった、ボクに考えがある。晶子はここにいてくれ」

「ここにいてって……あんた、今の状況わかってる? 裸エプロンなんだよ。警察に見つかったらヤバいし、だからあたしもついてってあげるし」


 二人は店の前から数メートルほど行った先の路地を曲がる。そこは昭和の時代から残っているような万年塀が建つ裏路地だった。


「ここに停めておこう。放置自転車といっしょに回収されちゃうかも知れないけれど見つかるよりはマシだよね」


 二人は乗って来た自転車をそこに停めると、先を急ぐミエルの背後を晶子が隠すように張り付きながらその場を後にした。



 店の中に人の気配は感じられなかった。それでもミエルは用心しながら恐る恐る木製扉の取っ手を握ってみた。


「晶子、カギはかかってないよ。やっぱ誰かいるのかな?」

月夜野つきよの望月モチヅキも、それに眉月マユヅキだってさっきの倉庫で眠ってるし。待宵マツヨイとあいつにしたって車もないし……あっ、なるほど、そういうことか。あたしわかっちゃったし」

「何を勝手に自己完結してるんだよ」

「ふふ、チャリよ、チャリ。あれにもカギがかかってなかったっしょ。それで思い出したし。眉月マユヅキってカギをかけない癖があって、それでよく望月モチヅキに怒られてたし。美絵留みえるが運び出されたときも最後に店を出たのは眉月だったしね」


 確かに晶子は自分が運び出されるのを見ていたのだ、ならばそれが正解だ。ここは迂闊な眉月マユヅキに感謝しておこう。そう考えたミエルは思い切って扉を開けた。

 窓から射し込む街路灯の光だけを頼りに奥の様子を伺う。バックヤードもまた静まり返っていた。ミエルはこの建物に誰もいないことを確信すると二階への階段を上がった。

 二人はロッカールームの前に立つ。案の定、ここも施錠されていなかった。


「ほんとに不用心だよなぁ、おかげで助かってはいるけどさ」


 ミエルは自分のロッカーの前に立つと窓の外から届く街路灯の光だけを頼りにして収めておいた学校の制服に着替え始めた。湿ったエプロンを脱ぎ捨ててロッカーに放り込むとブラとショーツだけの姿になる。淡い光に照らされたその後ろ姿は晶子の目から見ても女性を感じさせるシルエットだった。


「でも、やっぱ男子なのよねぇ」


 晶子はミエルの白い背中を見つめたまま小さなため息をついた。


「ところで晶子は着替えないの? その服だって濡れてるだろ」

「着替えるって、メイド服しかないじゃない、ここには」

「でも、風邪をひくよりは……」

「イヤッ、絶対にイヤ! それにもうメイド服なんて着たくもないわ」

「わ、わかったよ。それならさっさとお迎えを呼ぼう」

「お迎え? それって何なの?」

「う――ん、ボクの社長と言うか、その、ママかな」

「ママ? あんたの周りって、ほんと、なんかよくわかんないし」


 そっぽを向いてうそぶく晶子を横目にミエルは制服のベルト、そのバックルの裏に仕込んだ発信機のスイッチを入れた。


「よし、これを受信してもらえればお迎えが来てくれる」

「ええ――っ、マジ? だって今って夜中の三時過ぎでしょ」

「きっと大丈夫だよ。晶子だって見てきただろ、歌舞伎町の賑やかさを」

「うん、だけど……」


 するとそのとき、ミエルは口に人差し指を立てて黙るように促した。


「誰か来たみたいだ」


 二人は息を潜めて耳を凝らす。窓の外では男女の話し声、続いて扉が開く音と二人の靴音が、どうやら階段を上がっているのだろう、壁の向こうで音が近づいて来るのがわかった。


「あの声は……待宵マツヨイとさっきの男だ、あの二人が戻ってきたんだ。晶子、これを返しておくよ」


 ミエルは受け取っていたスタンガンを手渡すとドアの脇に身を潜める。もし彼らがここに入ってきたならばすぐに応戦するためだ。それを察した晶子もミエルの背後に身を寄せた。

 しかし足音がこちらにやって来ることはなかった。彼らは三階へと続く階段を上がって行ったのだ。やがて足音が止むとドアが開く音、それからは断続的にガタゴトと物音が聞こえるばかりだった。


「あいつら月夜野つきよのの部屋で何か探してるみたいだね。よし、ボクたちは今のうちに移動だ」


 ミエルは晶子の手を引いて暗い廊下を忍び足で進む。上階では相変わらず家探しでもしているような物音が続いていた。

 二人は階段を挟んだ向こう側にあるもうひとつのドアの前に立つ。


「ここって確か倉庫でしょ?」

「うん。実はこの中に秘密の通路があるんだ」

「まったく何んなのよここって。ほんと、次から次から」

「床下から真下のルームに抜けられる縦穴があるんだ。きっとルームでの『おもてなし』の後片付けに利用してたのかも知れない」

「そっか、それがさっきイタダキしてきた出涸らしってことね」

「そういうこと……って、こんなところで長話ししてる場合じゃない、さあこっちこっち」


 ミエルは倉庫のドアノブを捻ってみる。やはりここもカギはかかっていなかった。


「ラッキー、またまた眉月マユヅキに感謝だね」

「フンッ、あんなヤツ、どうだっていいし。そんなことよりその通路、さっさと案内するし」


 薄明りだけを頼りに床の隙間に爪を入れて二人がかりで床下収納のフタを外す。続いて空っぽの収納スペースもいっしょに取り外すとそこに真っ暗な口を開けた竪穴が現れた。


「ボクが先に降りるから晶子はドアの内カギをかけてから降りてきてくれ。暗いから足元に気をつけて」


 晶子は言われるがままに倉庫のドアを施錠するとミエルのマッシュルームヘアが吸い込まれていく姿を見下ろしながら自らも穴の中に降りていくのだった。

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