僕は新宿が好きだ。理由は一つ、互いへの関心がないから。


 高校生の頃。靖国通りを歩いていると、ホームレスが汚れたビニール傘で、前を歩く女の子の腕を殴った。

 そのジジイはなぜか僕には殴りかからず、通り過ぎる女性にだけ殴りつけているようだった。

 今思えば一一〇番通報したってよかった。僕自身が、やめろよって注意したってよかったんだ。けれど通行人は誰一人、被害にあった女性たちを心配する素振りすらしなかった。


 地元で同じことが起きたなら、間違いなくホームレスを呼び止めて通報しただろう。でも僕はしなかったし、できなかった。

 なんて冷たい街なんだろう、そんなことを当時は思った気がする。

 でもそれは冷たいってことではないと、今では思う。


 ここにいる人たちは、他人と関わりたくないんだろう。特に厄介ごとには巻き込まれたくない。何かあっても、自分ではない誰かが、なんとかしてくれる。そう思わせてしまう力が、この街にはあるんじゃないかと思っている。

 極論、僕が今「助けてください!」と大声で叫んだところで、誰も助けたり心配する素振りすらしないだろう。ただの変人か、薬物をキメこんだヤバい奴認定をされるだけだ。

 そんな街でも、今の僕には酷く居心地がいい。


 ……兎にも角にも僕は新宿が好きだ。「東京は冷たい街だ」なんてよく聞く言葉も僕は大歓迎だ。冷たい街上等、無関心万歳。

 むしろ個人情報筒抜けの閉鎖的な田舎町なんて糞食らえ。他に無関心で人の心に土足で立ち入らない、立ち入らせない方が好都合だ。

 こんな僕のことを無関心でいてくれるこの街が大好きだ。



 今日、この初出勤に向けて、悩みに悩んだこのスーツは自分では結構気に入っている。


 深い紺色のスーツに、総柄で淡く控えめな千鳥格子のボタンダウンのワイシャツ、丈が気持ち短めでダブル仕様になったスラックスの裾からは、深緑のソックスがちらりと覗く。

 身のこなしだけで言えば、垢抜けたサラリーマンのように見えるだろうか。

 まさか今日が社会人一日目の新卒、社会人になりたての人間には見えないだろう。

 ……新人にしては生意気な装いすぎる。もちろん、自覚もしている。


 けれど楓さんの隣で、自信を持って肩を並べられるかっこいい男、を何度も想像した。

 記憶の中の楓さんはグレーの千鳥格子のスーツがよく似合っていた。同じ千鳥格子のスーツを着たい衝動と葛藤しつつも「揃いの衣装を着た夫婦漫才師」に見えることを懸念して、ワイシャツのみにした。

 仮に夫婦漫才師の衣装のようになったとしても、昔の楓さんだったら、きっと笑ってくれただろう。

 昔の楓さんにはもう戻れないことを、僕が一番目の当たりにしたはずで、頭では判っているはずなのに。心は理解はできていないのだと自嘲して、改札でICカードをタッチした。



 新宿駅の西口改札を出て人波に逆らわずにエスカレーターを登り、小田急百貨店を背に地上へ出る。東口の若者で溢れる活気のある街とは対照的で、殺風景なビル群が広がっている。鬱蒼と生い茂るコンクリートジャングルに放り出された。

 行き交う波からは中高年の哀愁が漂い、黄色い加齢臭すらうっすら色付いているように見えてしまう。


 小瀧橋通りを大ガード方向へ進み、交差点を渡る。朝からキラキラと華やかパチンコ店の裏を、少し歩いたところにある七階建ての雑居ビル。

 数多ある新宿のビル群の中でこれと言った特徴のない一棟の建物は特別高いわけでも、低いわけでもない。

 一階は常にシャッターが下されていて、何年経っても借り手は見つからないらしい。テナント募集の赤い貼り紙が貼り付けてあるものの、連絡先は一切書かれていないのだから本当に募集する気があるとは到底思えなかった。

 事務所はこのビルの五階にあるが、一階から四階までは使われていない。それならば一階に拠点を構えればいいのでは? と以前、所長に尋ねたところ「特に意味はない」とのことだった。

 ……ほんと、テキトーな人なんだよなあ。


 一々動作の遅いエレベーターに乗り、パチンと頬を勢いよく叩く。


 心をすり減らして命を救う、今よりもっと辛い日々が待ち受けているかもしれない。それでも僕は、好きな人の隣で笑っていられる世界を作るために、この仕事を選んだ。

 後悔は、ない。

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