第16話 炊事の香る朝
カーテン越しに、春の暖かな陽光に包まれながら水守(みなもり)龍斗(りゅうと)は深い眠りについていた。
とはいっても、敵が近づけば一瞬で頭は完全覚醒するよう出来ているし、瞬時に敵の動きを封じて何が目的かを吐かせる術(すべ)も熟知している。
部屋の戸がゆっくりと開いて少女が入ってきたのは、寝相の一端で横を向いていた顔が再び天井に向いた時だった。
「朝だよ、起きて龍斗君」
入室してきたのは日本国内では染髪料やカラーコンタクトでも使わないと見る事ができない灰色の髪に黄色の瞳を持ったなんとも可愛らしい少女、倉島(くらしま)紗月(さつき)だった。
無論、彼女の髪も瞳も人工のものではなく、生まれついてのものだ。
敵の来訪なら自室の前どころか、この二〇五号室の前に立っただけでも目を覚ますというのに、紗月の場合は声をかけられても起きる予兆すらない、このことからも水守龍斗という男が倉島紗月の気配や声に対していかに無防備で安心しきっているかが伺える。
「龍斗君……」
ベッドに近づき覗き込んだ寝顔はあまりに幼く、戦闘中の鋭さは微塵も感じられない。
もうしばらく待っていれば「ムニャ ムニャ もう食べられない」などと寝言を口走るのではないかと思うほどだ。
日頃のことを考えれば、今の龍斗はよほどのことをしないと起きないのは確かだった。
紗月の顔が紅潮する。
数百メートル先からの狙撃も感知するほど隙が無いのに、どうして自分の前ではこうも隙だらけで無防備の極地に身を置いてしまうのかと、心の内で文句を言いながら自分にだけ見せてくれる姿を嬉しくも思ってしまう気持ちがせめぎ合い、紗月の顔が龍斗の無垢な顔に近づく。
(龍斗君に……警戒心が無さ過ぎるから……こんな悪いこと考えちゃうんだよ)
と、自分の内につい芽生えてしまう気持ちを龍斗のせいにして、顔の距離を詰める。
その間に、紗月の中では龍斗と出会った頃の記憶が蘇る。
この世の全てから捨てられ、ただ絶望の海を漂うことしかできなかったあの孤児院の中で、唯一自分の側にいてくれた少年、龍斗は出会った時から他の子とは違くて、ただ自然と惹かれていった。
龍斗も孤児院では周りから嫌われていたため、嫌われている者同士で親近感が沸いただけなのかもしれない、それでも……
「……龍斗くん」呟きながら、紗月の額に汗がにじむ。
今、自分が秘め隠しているこの気持ちに偽りは無く、ソレは家族としてではなく、友達としてでもなく、一人の男の子に対する気持ちだと言い張れる。
そうだ、嘘をつけるはずもなく、してもらうばかりで龍斗には何も返してあげられない自分と一緒に孤児院を出てくれた笑顔の似合う少年に対するこの気持ちは、純粋な恋愛感情だと断言できる。
そして、日々その思いが強くなり続け、近頃は我慢が効かなくなってきているのも、事実である。
唇が近づくごとに顔の赤みは増していき、耳と首元まで染まって、互いの唇が触れ合うギリギリの距離まで近づいた。
「…………」
そこまでいって、紗月の唇が硬く閉じられ、緩んだ涙腺から涙が流れた。
「はは……龍斗君、駄目だね私……龍斗君はいつもあんなに頑張っているのに、私だけこんなズルして……」
龍斗から離された顔は悲しみでかすかに歪む。
自分は龍斗からたくさんの幸せをもらっているのに、まだ欲しいだなんて、まして龍斗自身をも欲っするなど自分のわがままでしかない、そう自省する紗月の涙が龍斗の頬に落ち、その頬を伝って龍斗の髪に染み込んだ。
どうして? と問いたくなるほど龍斗は紗月のために尽力してきた。
一緒にいれば複数の組織に狙われると知りながら、殺人衝動で紗月を人殺しにさせないために自分を殺させ、辛い思いをするということを知りながら、一緒に逃亡生活を続け、紗月を守るために地獄を体言したような戦闘訓練に耐え抜いて、守るだけに止まらず自ら黒門会の関連施設へ何度も乗り込んだ。
自分が龍斗と一緒にいても彼には迷惑しかかけないこと、そして龍斗の優しさに甘えて未だに今の生活を続けている悔しさからくる自責の念で紗月は押し潰されそうだった。
だから諦めていたはずだった。
いつか龍斗に相応しい女性が現れる日までこうやって側にいられればいいと、それで十分だと決めたのに、結局今もこのような愚行をしそうになった。
それに前回逃亡した時、龍斗の隣に天宮(あまみや)由加里(ゆかり)の姿を見た時に抱いた感情こそ、人間の持つ、醜い嫉妬心ではなかったか、あまりにも弱く、龍斗に頼ることしかできない自分に腹が立ってしょうがない。
紗月は涙に濡れた顔を拭いて、今の事を龍斗に悟られないよう必死に笑顔を作った。
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