第10話 アベル


 唸りを上げて猛進するテーブルは由加里の横をかすめ、さきほど虫が穿った壁の穴に直撃した。


 ただでさえ脆くなっていた壁に開いた穴は頑張れば子供が通れそうな大きさだったが、今の一撃で大人でも軽々と通れるほどにまで拡大されてしまう。


 隣の部屋を隠していた埃が晴れると、穴からは丸太のように太い腕が這い出し、男の野太い声が響く。


「ほう、我が気配に気付くとはやりおる、貴様もなかなかの武人と見たぞ」


 浅黒い腕の本体が姿を現すと、そこには二メートルを超えた巨躯を誇る、短髪のいかつい男が立っていた。肌のハリを見れば二〇代なのだろうがパッと見、三〇歳と言っても信じてもらえるだろう。


 左手には、何に繋がっているのはわからないが、今、男が出てきた部屋から伸びているワイヤーロープが硬く握られている。


 下は特大のジーンズ、上半身はボディビルダーのような筋肉の上に直接皮製のベストを羽織った豪快な男は龍斗を足元から頭のてっぺんまで、ためつすがめつ眺めて鼻を鳴らす。


「ふん、弱ったところを二人まとめて逮捕する予定だったが、まさか一撃のもとに殺してしまうとは、さきほどの功夫(クンフー)もさることながらその体付き、そそられるぞ」


 体付き、と言われても由加里の目に龍斗は中肉中背の男子にしか見えない、おそらく、戦いの中で磨かれた洞察力を持つ者にしかわからない、微妙な違いがあるのだろう。


「我が名は大竹(おおたけ)力也(りきや)、カインになってからは珍妙な能力者ばかり相手でな、そろそろ肉弾戦が恋しくなってきた頃だが、残念ながら我は合理的な逮捕がポリシーゆえ……こっちへ来い」


 そう言って左手に握っているワイヤーロープを引くと隣の部屋から一人の少女が力也と同じ穴を通って入ってくる。


 彼女の腕には猛獣でも千切れそうにないほどゴツい金属制の拘束具が取り付けられ、ワイヤーロープはそれと繋がっていた。


 伏いたまま龍斗を見ようとはしない少女の姿に龍斗の目付きが変わる。


「この娘は既に我らの手中にある、これでわかったであろう、貴様もおとなしく捕まるがいい」

「人質か、国の役人が……たいした正義感だな」


 皮肉をたっぷりと込めた言葉を気にせず、力也は胸を張って笑った。


「ははははは、人殺しのカインがよく言う、いいか、我々アベル隊はこの日本国より殺人衝動を持ったカインの捕獲を命じられている、正義ある我らがどのような手を使おうと、その先に悪を摘み取る結果が待っているならそれは正義なのだ」


「俺はカインだが殺人衝動は無いぞ」


「だが、貴様がこの娘を保護しているのは調査済みだ、殺人衝動のあるカインを匿(かくま)うのも同罪だ、もしも貴様がおとなしく捕まるというなら、せめてこの娘の隣の独房に入れてもらえるよう嘆願書を書いてやるぐらいの情けはかけてやるぞ?」


 だが龍斗はその申し出を斬り捨て鋭い眼光を飛ばす。


「その必要はない、俺より遥かに弱い奴の脅しなんて恐れる理由が無い、それに……」


 一呼吸置いて、龍斗から発せられる覇気に鋭さが増す。


「紗月の殺人衝動を抑える方法を見つけるまでは捕まれない!」

「ほお……」


 言われて力也の視線も鋭くなったところで由加里が小さく手を上げた。


「……あのう、にらみ合ってるところ悪いんだけど、もしかしてあの子がクロちゃんの探していた家族?」


「そうだ、彼女が俺に残された最後の家族、倉島(くらしま)紗月(さつき)だ」


 悲しみに暮れる紗月の髪は灰色ではあるが絹のように美しく、割れた窓ガラスから漏れる空気の流れで柔らかく揺れる、今にも泣き出しそうな黄色い双眸に雪のように白く一点の汚れも無い肌、あまりに自然な灰色と黄色はカラーコンタクトや染髪料で出せる色ではない、顔立ちも日本人とは僅かに異なる気がした。


 龍斗とは対照的に、触れただけで崩れそうな容姿は捕らわれの姫君を想像してしまう。


 目を合わせようとしない紗月に、龍斗は今までの彼からは想像もできないほど温かみのある表情と眼差しを向けて語り掛ける。


「紗月……」


 彼女の肩がピクッと反応する。


「安心しろ、すぐ終わる」


 少女の目から一滴の涙が流れ落ちたのはまさにその時だった。


 視線が力也に戻った時の龍斗は、娘や妹を慈しむ父兄ではなく、悪鬼を屠り、万の軍勢すらもろともしない一騎当千の猛将であった。


 有り余るほどに充溢する闘志に由加里の体が本能的な危機を感知する。


「ふん、我を倒しその手に愛する者を掴むか、その心意気やよし、だが悲しいかな、我と貴様の体格差は見ての通り、冷静に考えてみれば我が遊ばぬかぎり、数撃のうちに勝負は決するだろう、それでも我に挑むか?」


 あくまで自信に満ちた声に、今度は龍斗が返す番だった。


「構わないさ、元々ここにはお前から紗月を取り返すために来たんだ、江口はまあ、ついでだな」

「我の行動を読んでいたと?」

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