第5話 黒い少年のことが気になる


 金曜日の昼、五月の暖かな陽光を浴びながら、天宮由加里はノートパソコンを押しのけて机に突っ伏し、自らの現状に対する文句をぼやき続ける。


 理由は述べるまでもなく、頭がすっかり二連休気分になっていたというのに朝七時に母親に叩き起こされ今日は金曜日宣告をされたからである。


 限界ギリギリまで緩みきった頭で嫌いな数学の授業を受け、宿題を忘れたのを理由に先生に雷を落とされたのではやる気も失うだろう。


 彼女自身はあんなことがあった夜に宿題なんてやれるわけがないから、これは仕方ないのだと勝手に納得していたが、黒い青年に会わなければ彼女が宿題をやったかと言えばそんなはずもなく、これは完全な言い訳である。


 軽い音と衝撃が頭を襲う。


「ふにゃっ!」


 まぬけな声を出して頭を抑えながら見上げると悪鬼が睨んでいた。


「あ~ま~み~や~」


 訂正して数学女教師、小島の眼光に冷や汗を流しながら由加里の顔が引きつる。どうやら先生が辞書のケースで頭を叩いたようだ。


「こっ、小島先生、どうも……」

「宿題を忘れてきた分際で、せめて授業くらい、まともに聞かんかっ!」

「いやでもあれですよ先生、こんな五月病まっさかりのポカポカお天気の下で授業なんて野暮ですよ……」

「確か昨日、休み時間中に自分は五月病にかからないから全然遊べるとか言ってたな」


 小島教諭の切り札に由加里は動じず、思いつめたような表情で胸を抑える。


「いやあ、それがボクのバリヤーは授業時間中限定で作動不良に陥るのですよ」

「そりゃまた随分と都合のいい装置だな……」

「いやそれに宿題忘れたのだってちゃんと理由があって、実は昨日路地裏で死体二つも見つけちゃったんですよ、全身黒ずくめのちょいとカッコいい男子が近くにいて……」


 目の前の額に青筋が三本ほど浮かんだあたりで内心呟く。


(グッバイ現世……)


 辞書本体の角が思い切り頭に叩き込まれて、由加里は机に突っ伏し、小島教諭は現代では黒板に取って代わっている大型ディスプレイの元へと戻った。


 みんなの笑い声が非常に空しい、ため息をつき、ふと窓の外に目をやると。


「あ……」


 彼がいた。遠目からでも見間違えるはずがない漆黒の総身は昨日の青年に相違ない。


 今、自分のすぐ横に建っている高校に、昨日会った少女がいるとは露知らず、ゆっくりと通り過ぎていく青年のうしろ姿が見えなくなる直前、由加里は立ち上がる。


「ちょっと待っ……」


 小島教諭の投げた数学辞典が頭蓋に当たるまでの距離は一〇センチしかなかった。




 放課後、彼女には珍しく真っ直ぐ家に帰ると、自室で夕日に染まりながら数学の宿題とにらめっこを始める。プリント用紙時代なら無くしたとか、もらい忘れたで済むがメール送信の現代でそれは通じないのが悲しい。


 それと、昨日の事はニュースではただ男子高校生二人が腹部をナイフで刺され死亡と言われていたが、無論、そんなクリーンな殺し方でないことを由加里は知っている。


 高校生を対象にした殺人事件は以前からもあったが、そのどれもが、今回のように腹部をナイフで刺されているとか、或いは鈍器で頭部を殴打されてなどと聞いていたため、物騒な世の中だと思うだけで済んでいた。


 だが今ならわかる、あれも全て昨日のように残忍な殺され方で死に、市民の混乱を防ぐため、警察によって隠蔽されてきたのだ。


 偶然死体を見つけたような口ぶりだったが、由加里は確信にも似た結果に行き着く。


 あの青年は何かを知っている。


 携帯電話のコール音が鳴ったのはその時だった。


 こんな時に誰だろうかと、おもむろに出ると、相手はつい最近知り合ったばかりの大学生だった。


「どしたのカズちん?……えっ、それホント?」


 携帯電話を閉じ終えた時、由加里の顔からは数学の宿題へ対する倦怠感(けんたいかん)など消え去り、曇りのない笑顔に変わっていた。

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