第4話 死体発見
由加里は一瞬踏みとどまって、呼吸を整え闇の中に踏み込んだ。
入ってすぐにそこが廃ビルだと分かった。
目が慣れたのか、窓から入る月明かりだけでもさっき以上に周りが見える。
どうやら一階は駐車場になっているようだが車は一台もなく、埃っぽい空気がろくに手入れをされていないことを物語っている。
赤い道の終着点にゆっくりと視線が向いた。
窓の近く、薄暗い空間でも比較的明るい位置だけに、瞳孔が開いた視覚は血の主をはっきりと由加里に示した。
窓際にいたのは二人、一人は床に倒れ、服装から若者と思われる。顔は恐怖と痛みに歪んだまま固まり、あらぬ方向に曲がった左腕の先に下半身が転がっている。
もう一人は死んでいない、それどころか二本の足で立ち、男の死体を見下ろしている。
黒い青年だった。靴やズボン、服は墨に浸したような完璧な黒、おまけに冬でもないのに黒手袋までしているありさまだ。
整いすぎている美しい顔立ちはクラスの男子では敵う余地も無いだろう。年は一六、七といったところだろうか、日本人でも珍しいほど濃い黒髪に鋭い漆黒の瞳は殺人鬼というよりも、死体の検分をする刑事や探偵に近い目つきをしていた。
どこまでも静謐(せいひつ)な雰囲気を漂わせる彼のおかげで、無音の空間に磨きが掛かる。
由加里はどうしていいかわからず、一歩下がろうと重心をずらした刹那、青年が消えた。
否、青年は死体を眺める姿勢のまま、由加里の視界の外へと一瞬で移動してのけた。
いったいどうやって?
考えるより先に死の感触が首筋に触れた。
声が出ない、気配でわかる、あの青年が自分の背後に回り込み、指先を当てている。
それでも由加里の精神はすこぶる冷静だった。
こんな状況、漫画や映画で死ぬほど見ている、ここで変に暴れたら真っ先に死ぬと感じた彼女はあくまで冷静に、そして落ち着いて対処すると小学生の頃から決めている。
「……あれやったの、あんた?」
怯えた様子は見せずに言うことができた。
「違う、俺もさっき来て、あの死体を見つけたが……お前はカインじゃないのか?」
青年の口から出た《カイン》という名詞にやや黙って問う。
「カインて何のこと? ボクはただの善良な市民だよ」
「カインじゃない……?」
動じず、自分はお前と対等だと言わんばかりに余裕の色を持った言葉に対し、さきほどまでは感情の込もっていなかった冷たい声に僅かな感情を感じる。
青年は腑に落ちない様子でしばらく考えてから手を退いた。
「なら早く帰るんだ。ここであったことは全部忘れろ」
青年が犯人ではなく、むしろ犯人を探している気がした、ということは……
立ち去ろうとする青年を思わず呼び止める。
「ちょっと待って、キミもしかして正義の味方?」
静止して、やや天井に視線を向けてから彼は振り返った。
「見方によっては正義だが、見方によっては悪人の部類に入るな」
「どゆこと?」
「解釈の問題だ。そもそも正義の定義づけなんて誰にもできないからな、自分は正義だと言い切れる奴なんていやしない」
誰かに対する皮肉でも言うような青年の口調には、ごく少量だが毒があった。
殺人犯ではない、殺人犯を追っている、希薄ではあるが、ある程度の感情を持ち合わせている。由加里の目から見た青年の分析は以上だ。
などとやっている間に、青年はスタスタとビルの奥に進んでいる、しかし、天宮由加里という少女はどこまで常識はずれの感覚を持っているのか、青年の後をカルガモのようについていきながら問い続ける。
「じゃあキミ何者? 警察の人じゃないよね? まさか正義の組織の構成員?」
もう彼女の行動は好奇心などでは説明がつかない。
この状況下において青年についていくなど、脅迫されても断わるのがまともな人間の心理だろう。
「ついてくるな」
「いいから質問」
「……警察じゃないし、どこの組織にも所属していない」と面倒臭そうに答える。
「いつもこんなことしてんの?」
「いつもじゃない、今夜はただの人探しだ」
「って、犯人と知り合い?」
「違う、それに勘違いをしているようだが俺は殺人犯を探しているわけじゃない」
「にゃ、そなの?」
自己分析の一つが外れたことに驚きつつ由加里は青年の一歩先に進むと顔を覗き込む。
「おや、近くで見るとわりと美形、もしかして探しているのって彼女とか?」
悪戯っぽく笑う由加里の笑顔に嘆息を漏らして、漆黒の青年は右手を額に当てる。
「彼女か……お前までそんなことを言うんだな」
《お前まで》という単語から彼には仲間がいるようだと由加里は推測する。
「彼女とか、恋人とか、そういうのとは違うな、あいつは俺の家族だ。同い年だから立場的には双子の妹感覚だな」
《家族》《同い年》二つの単語に由加里の感情が激しく揺さぶられた。
「って、同い年の女の子と暮らすなんて同棲じゃないのっ!? クールな顔してやりますねえ……そんで、どうしてその子は家出しちゃったの? ケンカ?」
「ケンカではないが、まあなんと言うか、そいつは病気で、俺はその治療法を探しているんだ、でもあいつは俺に負担をかけたくないと言って、時々出て行ってしまうんだ」
「へえ、大変だねえ、それよりぃ、妹感覚と言っときながら案外ヤルことだけは済ませちゃってたりして」
両手で青年を指してからかうように笑ってからマズイと感じた。
いくらなんでもこれは調子に乗りすぎだ。相手は殺人犯ではないとはいえ、怪しさは今まであった人達の中でもトップレベル、彼の機嫌を損ねるような真似は避けるべきだ。
「……」
しかし青年は何も言わず、急に立ち止まると喉の奥で何か呟いてその場から姿を消した。
当然、正確には先ほど同様、彼女の死角へと逃げただけだったが、今度は気配ごと消えている、背後には誰もいない、完全な逃亡だった。
ぽかんと開いたまま締まらない口を衝(つ)いて出たのは一言。
「あっ、名前聞くの忘れた」
表通りの喧騒から遮断されたこの空間の静寂が破られることはそれ以来なかった。
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