第四章

第36話 宝島①

 休日、しかも明日は休みだ。土曜日は一週間の中で最善かつ最上、最も幸福な一日である。全土曜日を大安にでもすればいいのにと思う。


 しかし、そんな土曜日の午前中でも、俺は浮かれ気分にはなれなかった。頭の中がぐるぐる回っている。昨日とはまた別のモヤモヤとしたものが、心の中で燻っている。その煙を外に出す術はなく、落ち着かなかった。


 八神にまた連絡すると言っておきながら、それもまだしていなかった。昨日、こずえと話したものの、こずえの意思確認ができただけで、何も変わらなかったからだ。


 俺は部屋で寝転びながら、無駄な時間を過ごしていた。無気力で無感動。青春を謳歌しているようなやつには、こんな空白は存在しないものなのだろうか。


「兄ちゃーん」


 かわいい妹が部屋に入ってきた。音子は一直線に俺の腹の上に座る。俺は腹筋に力を入れ、それを耐えた。


「いっ! ……まったく、音子は本当に俺が大好きだな。そんなに俺と一緒にいたいのか」

「え? きもっ!! 別に好きじゃないよー。ねこは兄ちゃんの部屋が好きなだけだよー。ゲームも本もあるから」


 音子は、俺の上で揺れながら言う。こんなに密着しといて、好きじゃないなんてあんまりだ。


「俺のことを好きって言わないなら、何も貸してあげません」

「兄ちゃんきもっ! きもい!」

「そのキモい一つ一つに、兄ちゃん結構傷ついてるからな。それを忘れるな」


 言われ慣れてはきたが、わりと痛い。そろそろ教育しといたほうが俺のためにも良さそうである。


「兄ちゃん、きょうはくして好きって言わせようとしてはずかしくないの? そんなんで言われてうれしい?」

「やめろ。急にキレキレの豪速球を投げるな。いつも通りのふんわりボールで来い」


 一〇歳のくせにロジハラをする音子。まったく、末恐ろしい限りである。


「なにも投げてないもん」

「兄を好きじゃない妹なんて、必殺技を持たないヒーローみたいなもんだ。ただちに改めなさい」

「いみわかんなーい」


 音子はまた体を揺さぶる。いい加減キツくなってきたので、俺は起き上がり、音子を膝に乗せかえる。


「ひざにのってほしいの?」

「膝なら構わない、が正しい。でも、乗られたいか乗られたくないかで言うと、乗られるほうが気分は良いかもしれない。そう考えると、乗ってほしいと言えなくもないかもな」

「よくわかんないけど、きもちわるいからおりる」

「そうか……」


 今のは、本気の「きもちわるい」である。さすがにガチで嫌われたら生きていけないので、もう余計なことは言わないようにする。音子は膝からベッドへぴょいっと下りた。


「よし。じゃあ、久しぶりに一緒にゲームでもするか!」

「いい。エフエフすすめたい」

「そうか……」


 音子は、古いゲームソフトを始めた。今も続く長寿シリーズの六作目である。俺の気晴らしに付き合ってくれる気はないようだ。


 俺は再び寝転がり、黙ってゲーム画面を眺める。音子は、子どもらしい、ごり押しの戦いぶりで、ゲームを進めていく。


 音子がこずえと同い年なのが、今もなお不思議だった。音子も、同年代の子の中ではそこまで子どもっぽくはない。少なくとも、普通の一〇歳である。


 こずえが普通ではない。それは本人も言っていたし、紛れもない事実だ。でも、大人から見るとただの子どもであり、知能以外は普通の女の子でもある。


「音子よ」

「なにー?」

「お前くらいの子から見ると、年上の男が格好よく見えたりするのか?」


 俺はほとんど無意識にそんな質問をした。


「兄ちゃんはないよ。変だし」


 しかし、音子は俺の質問に、勝手な解釈を加えて返答する。こいつ、妙な賢さがあるな。


「音子よ。前も言ったが、俺は極限までに普通を極めている男だ。変人とは真逆の存在なんだ」

「兄ちゃんって、なに考えてるのかわかんないもん。お母さんもお父さんも言ってたよ。あの子はよくわからんって」


 おい、親。なんてこと言うんだ。親の言うことか。

 音子も親の影響を受けてそうである。まったく、納得できない。


「そりゃあ、色々と考えているさ。わかろうとする努力はしたか? 人の考えてることなんて、そう簡単にわかるもんじゃな――」

「…………」


 むう、全然聞いていないぞ。これはもう、めんどくさいモードに入っている。これ以上グダグダ言うと、本気で嫌われてしまう。

 俺は音子を詰めるのを諦め、また静かに寝転がった。すると、音子は俺にもたれ掛かってきた。単に背もたれにされただけかもしれないが、くっつかれるのは悪くない。かわいいものである。

 俺は再び、黙ってゲーム画面を眺めることにした。


 夢中にゲームを進める音子を見ていると、思い浮かべるのはこずえのことだ。すると、さっきまで消えていたモヤモヤが、また燻ってきた。


 俺は、こずえがいなくなることが寂しいのか。それなりには寂しいが、モヤモヤはそれではない。


 あるいは、明日日本を離れるこずえに、何もせずに行かせてしまうことが落ち着かないのか。いや、それは今度こずえが学校に来たときにでも何かしてやればいいだろう。


 俺が落ち着かないのは、もっと根本的な部分だ。それは、こずえがアメリカへ行く理由である。


 それは、親である朱美さんが決めたことだ。子どもにはそれを覆すことはできず、受け入れるしかない。ただ、こずえは賢い子だから、それをしっかり納得して受け入れた。


 そこに、俺が介入できることはない。でも、俺はそこにモヤモヤしているのだ。


「兄ちゃん?」


 ふいに、音子が話しかけてきた。俺は遅れ気味に返事をする。


「なんだ?」

「一緒にゲームする?」

「別にいいよ。それ進めたいんだろ?」

「うん。おこってないの?」


 思わぬ疑問である。どうやら、さっきのことで俺がふてくされてしまったと思ったらしい。いつの間にか、ゲームの音はさっきより小さくなっている。


「俺はそんなことじゃ怒らんぞ」

「さっきから兄ちゃん、ためいきばっかりだし、おこってるみたいだったよ」


 なるほど、ため息が出ていたのか。心の中の煙は、どうやら口から出ていたらしい。


「いや、別件だ」

「……兄ちゃんってほんとうになに考えてるのかわかんないし、なにしたいかもわかんないよね」


 音子は呆れたように言う。少し安心もしているようで、声の印象は柔らかかった。


 何をしたいのか、か。思えば、こずえを応援したいと思ったのは、彼女がそれを明確に示し、行動に移したからだった。そうして、こずえは一時的ではあったが、望む青春を見つけられたのだ。


 俺はというと、そんなこずえに同情し、俺を好きだと言ってくれたのに何もしてやれないことへの詫びとして、こずえの手助けをしただけだった。そこに、俺の意志なんて、協力したいという気持ち以外は含まれてはいない。


 今、俺はどうしたいのだろうか。漠然と普通の青春を望み、今までそのための行動を何一つとっていなかった俺に、何かできることはあるのだろうか。


 こずえが意志を示してくれたおかげで、あの日々があったのだ。俺にとっても、ようやく普通の青春の日々だったと思っていた。

 今度は、俺が意志を示すべきではないか。


 どんな形で示すか、しばらく考えていると、よほど俺らしくない答えが出た。それは、決して普通の青春で済むことではない。

 しかも、別の方法もありそうなものなのに、あえて責任が生じるものを選ぼうとしている。


 波風たたず、静かに過ごしたかったはずの俺が、どうしてこんなことをしようとするのか。一〇年先に振り返ると、まったく理解できないことだろう。でも、これがの答えなのだ。


 昼過ぎになると、俺は八神に電話をかけた。明日の予定を伝えると、八神はかなり乗り気だった。共犯者には持ってこいなやつだ。


 明日、することは決まった。こずえがそうしたように、俺も意志を示すのだ。

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