第32話 母親として④
「私は、星名
言われて気づく。俺たちも自己紹介をしていなかったのだ。
「……沢渡虎太です」
「八神愛守です。こずえちゃんとは同じ学年なんです」
ぶっきらぼうな俺とは違い、八神は明るく話す。この場だと、こいつがいることは心強かった。
「娘と仲良くしていただき、ありがとうございます」
こずえ母から改めて礼を言われる。なんとなく、これは建前のものではなく、本気で言っているような気がした。
「いえ、こちらこそ。こずえちゃんといられて、本当に楽しいです。写真部に入ってくれてからは、放課後はずっと一緒でした」
「写真部……ですか?」
こずえ母は意外そうな顔をする。
「はい。こちらの沢渡くんと一緒に入部してくれました。彼はこずえちゃんと同じクラスで、私よりも以前からこずえちゃんと仲が良いんです」
八神がいらんことを付け加える。くそ、案の定、こずえ母が目を丸くしているではないか。
「……そうですか。この前も一緒に帰っていて驚いたのですが……てっきり、たまたま同じ道だったから付き添っていただいていたのだとばかり……」
「えっと、席が近かった時に、話すことがあったので……」
どう考えても、俺とこずえが仲良しというのは不自然だし、不審だ。
変な誤解をされるわけにはいかないが、コクられたことなど、経緯を言えるはずもない。まったく、いちいち言わなくてもよかったことなのに。
しかし、こずえ母は俺の言い訳のような問答を聞いていないのか、視線をバルコニーのほうへと向けていた。
「……私は、こずえが同級生の方たちとうまくいっていないのだと思っていました」
それは間違っていなかった。ただ、過去の話である。
「だから、アメリカ行きも喜んでくれると思っていました。父親と一緒に暮らせることが、最もあの子を安心させるだろう、と。
それなのに、こずえが嫌がったため、私は驚いてしまいました。きっと、あなた達とお別れするのが辛かったんですね。……悪いことをしました」
やはり、こずえはアメリカ行きを嫌がったらしい。こずえ母は静かに語る。それは懺悔だった。
「そもそも、日本でこずえを育てようとしたのは、私のわがままでした。私の仕事もありましたし、向こうでの生活にも不安を感じていたんです。
また、飛び級も決めていたので、日本の高校のほうがこずえの負担も小さいと思い、日本に留まりました」
「飛び級を決めたのはどうしてなんですか?」
俺は、うっかりいつもの調子で質問してしまう。それでも、こずえ母は表情一つ変えずに答えてくれる。
「あの子は、父親の研究室に入り浸るのが日常でした。その中で、学習能力の高さがわかったことが、一つ目の理由です。
もう一つは、そこで大人と一緒にいたことが原因なのか、同い年の子となじんでいなかったことでした。もっと年上の人と一緒のほうが、あの子ものびのびとできると思い、飛び級させることに決めました」
なるほど、こずえの知識や見識は、大人と会話することで育まれたものだったのか。海外で働く父親は、想像どおり研究者らしい。
こずえ母の決断は、納得のいくものだった。
こずえが俺の妹と同じ空間にいる様子を想像してみればわかる。話がかみ合わず、こずえに負担がかかるだろう。こずえ母は、こずえのことをしっかり考えて、飛び級を決断したのだ。
「しかし、実際に飛び級してみれば、高校でも適応は難しいようでした。身体能力など、実年齢が影響しそうだったため、イベントへの参加もやめさせたのですが、かえってこずえを悩ませてしまったようです。それを見て、私は自分のわがままでこずえに辛い思いをさせたことを知りました」
こずえが文化祭や体育祭に参加しなかったのは、そういう理由だったのか。
他にも、こずえ母の認識は、こずえが写真部に入る前で止まっていた。すでにその問題は解決しているはずなのだ。
「でも、今はもう大丈夫だと思います」
「……そのようですね。あなた達とは、うまくやっていたのでしょう。感謝しています。
ただ、私は実感したんです。一人で子育てをすることの限界を。私の力不足を」
こずえは自分を貶すように言う。俺は思わず固まってしまった。
「こずえちゃんはすごく良い子ですし、私には、おば……朱美さんが立派に子育てしていたとしか思えません」
八神は、おばさん、と言いかけてから、朱美さん、と呼んだ。本来、同級生の母親に使うはずの代名詞だが、それが彼女に似つかわしくないと思ったのだろう。その気持ちはよくわかった。
「あの子は、元々手のかからない子でした。私が何もしなくても、勉強に手を抜きませんし、道徳心も問題ありません。
だから私は、夫がいなくてもやっていけると思っていたんです」
教育ママだと聞いていたが、実際はそうじゃないのかもしれない。こずえ母は、あくまでも、こずえがしっかりしているだけで自分は何もしていないと言い張る。
「しかし、こずえは心の成長が早かった分、悩みも一〇歳のものとは違います。こずえも、私に解決できると思わないから、私に言わないのでしょう。
情けない話ですが、子の成長に親がついていけていないんです。だから私は仕事を諦めて、三人で暮らすべきだと考えました」
こずえの成長が、こずえ母を悩ませていた。そうして、こずえ母は家族三人で暮らす道を選んだのだった。
「私は、今日お二人とお会いできたことがとても嬉しいです。こずえは、初めて自分を友だちだと思ってくれるような方々に出会えていた。それが知れて、心が救われたような気持ちになりました。
だから、本当にありがとうございます。そして、ごめんなさい。私がしっかりしていれば、あの子ももっとあなた達といられたんです」
改めて、こずえ母が頭を下げた。これが言いたくて俺たちを家に上げたのだと、なんとなく思った。
「……いつ頃アメリカに?」
こずえ母の謝罪に気圧されながらも、八神が訊く。
「引っ越すのは来年になります。
ただ、実は明後日に一度サンフランシスコへ向かい、住居を探す予定になっています。そのままクリスマスと年越しを家族三人で過ごそうと考えているので、しばらくは学校に行けないんです」
明後日、だと。いくら何でも早すぎる。もう、こずえは俺たちと会わないつもりだったのか。
俺には、どうしても納得がいかないことがあった。悪いとは思いつつ、俺はその疑問をこずえ母にぶつけることにした。
「さっき、こずえ……さんがアメリカ行きを嫌がったと言ってましたが、結局、納得したんですか?」
こずえが納得したのなら仕方ない。でも、あいつが簡単に引き下がるとは思えない。
やっと目標に近づいていたんだ。こずえの望む青春に手が届きそうだったんだ。
俺たちになんの相談もせずに、アメリカ行きを受け入れるはずないのだ。
「はい。最初は嫌がっていましたが、その後すぐに納得してくれました。あの子は無口でおとなしいですが、意志は強い子なので大丈夫だと思います」
しかし、俺の推測は、あっさり否定されてしまった。
「そうですか……」
こずえ母が嘘を言っているようには思えない。たしかに、こずえは意志が強いから、本当に嫌なら拒否もできたはずだ。渋々だとしても、しっかり受け入れたのだろう。
気持ちが沈んでいく。積み上げたトランプが一気に崩れたような虚無感だった。
「来年になりますが、また学校のほうにもあいさつに伺います。その時にまた、あの子と話してあげてください」
「……はい」
そうして、話が終わった。俺たちは鞄を持って立ち上がり、玄関へと歩いていく。
当然、こずえ母も見送りに来てくれる。俺は、こずえのいない部屋を一瞥する。
こずえ母の小さな嘘を突っつく気にはならない。ただ、認識の違いについては、一言だけ言っておきたかった。
扉を開け、俺と八神は外に出る。俺は、振り返って改めてあいさつをするべきところで、それを言うことにした。
「……あの、朱美さん」
呼び名には悩んだが、俺も八神を見習うことにした。
「はい」
「こずえはよくしゃべりますよ」
「え?」
朱美さんは目を丸くする。内容ではなく、突然何を言い出すのか、というところだろう。
「無口じゃないんです。あいつは、訊けばめちゃくちゃ答えてくれるんです。本当はおしゃべりなんですよ。
それでは、失礼します」
「あ、し、失礼します」
俺が言い逃げしようとすると、八神も慌ててついてきた。こうして、俺とこずえ母、朱美さんのセカンドコンタクトは終了したのだった。
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