第29話 母親として①

 鼻からスッと息を吸い込むと、冷たい空気が腹にたまる。それを、口を大きくしてゆっくり吐き出すと、白い水蒸気として視認できる。一二月に入り、いよいよ朝が辛くなってきた。


 いつも通りの道筋で学校へ向かう。すると、見慣れた後ろ姿を見つけた。

 俺は電柱の陰に身を潜める。八神に俺の家の場所がバレると面倒なのだ。


 通学中に八神を見かけたのは初めてだ。あいつはいつも、早い時間に登校している。きっと、こずえに合わせていたのだろう。こずえと仲良くなる前から、八神はずっとこずえを追いかけていたのだ。


 しかし、今日は俺と同じ時間に登校している。

 多分、今日もこずえが学校に来ていないと察したのだろう。八神の後ろ姿は、ひどく寂しい感じがした。


 実際、教室にこずえの姿はなかった。

 こずえは、突然帰ってしまったあの日から、一度も学校に来ていない。


 放課後になると、俺は写真部に顔を出すか迷っていた。こずえがいないのなら、行っても仕方がなかった。


「あたしらは一応顔を出すつもりだけど」

「そうか。じゃあ、八神によろしく言っておいてくれ」


 優と勇美が行くならいいだろう。それなら、八神も気が紛れるだろうし、俺がいないほうが気持ちも楽なはずだ。

 俺は、優たちと一緒に教室を出た。すると、そこに八神がいた。


「虎太くん。ちょっといい?」


 デジャヴだ。ただ、あの頃とは関係が違っていた。

 思い詰めた表情。彼女はずっと悩んでいたのだ。


「平気平気。こいつ、帰るだけだからさ」

「じゃあ、今日は部活はなしだね。僕らは先に帰るよ」


 俺が返事をする間もなく、話がまとまる。俺の逃げ道をなくそうとしているのだろう。

 まったく、俺に逃げるつもりなんてないというのに。俺なりに考えていたし、必要なら応えようと思っていた。


「うん。ごめんね」

「いいよいいよ。後はごゆっくりー」


 二人が去っていく。俺は何も言わぬまま、以前と同じ方向へと歩みを進めた。


 ひと気がなくなった廊下の隅に着くと、八神は要件を話し始めた。


「虎太くん……私、こずえちゃんに謝りたくて……。でも、私から連絡しても返事が来ないの……」


 八神は、いつもの爽やかさもなければ、変人感もなかった。臆病で弱々しい、ただのか弱い女子高生だ。

 八神のこんな姿を見ることになるとは思わなかった。こいつは、こずえに嫌われることに、これほどまで怯えていたのである。


「お前らしくないな」


 こずえが急に帰宅した日から、一週間が経った。月曜日から、こずえはずっと風邪で休み続けている。


 あの日、突然帰った理由もわからないし、来ない理由もわからない。本当にあの日は急用を思い出し、今は寝込んでいるのかもしれない。


 しかし、八神は自分のせいだと思い、落ち込んでいた。八神は、俺との接触により、こずえが怒ったと思っているのだ。


「俺は、こずえが来ないことをお前のせいだなんて思っていない」

「絶対私のせいだよ。こずえちゃんの気持ちを知ってて、虎太くんとベタベタして。やめとけって言われてたのに。それに、私欲のためだし……」


 その辺りは、真面目に反省してもらいたい部分だ。しかし、今追及する気はしなかった。


 こずえが何事もなかったかのように復帰してくることを願いながらも、ここ数日間、俺なりにこの前のことを考えていた。


 タイミングを考えると、八神の言うとおり、八神の行動に怒ったという説もあり得なくはない。でも、俺にはそうだとは思えなかった。


「……お前もまだまだだな」

「え?」

「こずえのことを何もわかっていない」


 俺は挑発的に切り出した。


「こずえは怒ったわけではない。それは間違いないんだ」

「どうしてそう言い切れるの?」


 八神がべそをかきながら訊く。


「こずえはそんなことで怒る子じゃない」

「でも、溜まりに溜まってって、ありそうじゃない? こずえちゃん、我慢する子だと思うし」


 こずえは我慢をする子。その見解については、俺も八神と一致している。


「こずえは、別に俺だけを見ていたわけじゃない。お前たちにも嫌われたくないと思っていた。仮に、嫌だったとしても何も言わないし、怒ることもないだろう」


 もっとも、嫌だったわけでもないと思っている。あれはあれで、こずえも楽しんでいたのではないだろうか。


「それに、改めて考えると、あの日のこずえはちょっとおかしかった」

「おかしかった?」

「ああ。あいつは、恋愛ではわかりやすいが、それ以外の場面では大人で、負の感情を隠すのが上手いからな。だから、あの時は気づかなかった。

 うぬぼれだが、あいつが俺の顔を見ずにあいさつするなんておかしいんだ。あんなに楽しそうにしてた部活で、ろくに話を聞いていなかったこともな。あの日、こずえは朝から悩んでいたんじゃないか?」


 八神は俺と軽く目を合わせてから、視線を落とした。


「……虎太くんが言うなら、そうなのかもしれないけど」

「まあ、どうであれ、こずえに訊くしかない。お前も行くぞ」

「……え? 行くって――」

「風邪ならお見舞いなんだろう? まず、担任にこずえ家の部屋番号を訊きに行くぞ」

「う、うん」


 俺たちは来た道を戻っていく。少しだけだが、八神の足どりが軽くなったように見えた。

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