第21話 天使の写真③

 ほどなくして解散すると、俺は八神に家がばれないように、少し遠回りすることで、時間をかけて帰ることにした。


 公園の向こう側は、子どもの頃は妙に遠い場所に感じたものだった。なぜか、公園を国境のように思っていて、自分たちの世界は公園の中までで終わっていたのである。

 俺はめったに公園の南側へは行かなかった。それこそ、モクドナルドに来る時くらいだった。


 そんな未知だった世界を今歩いているが、そこはただの住宅街でしかなく、家、マンション、団地が立ち並んでいる。こちら側のほうが公共の集合住宅が少し多いことくらいしか、北側との違いは見受けられない。


 フラフラと歩いていると、いつの間にか、こずえのマンションの辺りまで引き返していた。こずえを見送るときとは反対側にマンションが見え、道の先に長居公園がある。


 そろそろいいかと思い、俺はそのまままっすぐ進み、公園を横断しようと思った。そうして歩いていくと、見知った顔が見えたので、思わず身を潜める。そこにいたのは、こずえの母だった。


 この前と違い、まだ明るい時間だけに、顔も服装もはっきり見える。改めて見ても、所帯を持っているようには見えない。ファッションの雰囲気からも、少し控えめな大学生くらいが妥当に見えた。


 彼女は無表情ながら忙しそうにマンションへと入っていく。俺はそれを見届けてから、再び歩みを進める。

 やはり、この前の印象どおりのキレイな人だった。気を遣わずに正確に言うと、メチャクチャかわいい女性だった。なんであんな人が母親なんてやってるんだ。世の中おかしい。


 優のせいで変に意識してしまっているが、冷静に考えると、相手は同級生の母親なんだ。絶対に変な気持ちになることはあり得ない相手だろう。まったく、どうかしている。


 やっとのことで公園を越えると、ようやく家が見えてきた。

 今日は悪くない一日だった。面倒だとも思っていたが、終わってみると少し寂しくも感じる。こんな気持ちになったのは、あの写真のおかげかもしれない。


 そんなことを考えていた俺だったが、すぐに現実に引き戻されることになる。


「虎太くん?」


 聞き覚えのある声。というか、ついさっきまで聞いていた声。

 俺をこう呼ぶ人間は、世界に一人しかいない。わざわざ遠回りした意味はなんだったんだ。ちっ、面倒なことになった。


「まだ帰ってなかったのか?」

「まだ早いしね。虎太くんこそ、こんなところで何してるの?」


 当然の質問である。帰宅途中と言えないだけに、困ったものだった。


「……この辺りに親戚が住んでいてな。親に用事を頼まれた」

「へー」


 我ながら、とっさにしては気の利いた言い訳ができた。あとはさっさとこいつを撒けばいいだけだ。


 いや、待てよ。こいつと二人きりになる機会なんてそうそうない。今が、あの盗撮写真のことを問い詰める絶好のチャンスではないか。

 このことさえすっきりさせられれば、俺がこずえのことで気を張る必要もないのだ。


「――八神よ」

「どったの?」


 八神は少し上目遣いに表情を窺ってくる。こいつはこういう表情をさせると天下一品だ。いかにも美少女という印象を受ける。


「……今日、来るのがやたら早かったのは、私服のこずえ目当てか?」


 俺は単刀直入に訊けず、ここまで来たのと同じように、遠回りすることにした。


「そりゃ見たいでしょ。でも、さすがに家からじゃあんな早さでは行けないよ。ちょうど、外で写真を撮ってたんだよね」


 なるほど、それであの早さが実現できたのか。外出中なら、あとは移動するだけだし、自転車ならそうはかからなかったのも納得である。


「どんな写真を撮ってたんだ?」

「秋をテーマにした写真、みたいなコンクールがあって、何かいいネタないかなって」

「それじゃあ、結果的に邪魔してしまったか」

「ううん。良い写真が撮れたら送ってみようかなってくらいで、真面目に撮ってたわけじゃないの。

 私の場合、コンクールって撮る目的を無理やり作ってるだけだから、他に撮りたいものがあればそっちを優先するんだよ」


 八神はそれほど風景写真を好まない。コンクールの写真を撮るよりも、こずえを撮るほうが大事なようだ。


「今はコンクール用の撮影を再開したのか?」

「ううん。今日はもういいかな。凄く良い写真が撮れたからね」


 そう言って、嬉しそうに微笑む。それは心からの笑顔に見えた。


「こずえとコスモスの写真のことか?」

「うん。やっぱりこずえちゃんを撮ってるときが一番幸せだよ」


 言うなら今だろうか。簡単だ。「だからといって、更衣室でまで撮ることはないんじゃないか」と言えばいい。


「最近は、本当にいい笑顔になったよね」


 しかし、俺はまた言いそびれてしまった。自分のふがいなさに失望して視線を落としつつ、八神に返事をする。


「そうだな」

「虎太くんのおかげだよ。ありがとね」


 俺は思わず顔を上げた。


「……なぜ俺がお前に礼を言われるんだ?」

「だって、こずえちゃんを連れてきてくれたのは虎太くんだし、楽しそうなのも虎太くんと一緒にいるときだもん。虎太くんといるときのこずえちゃんは、自然な表情をするんだよね」


 八神の表情は柔らかかった。まるで人の親のようだ。


「同好会にいるときは、漏れなく楽しそうに見えるぞ」

「虎太くんがいるのといないのとでは違うよ。ずっとこずえちゃんを撮ってた私にはわかる」


 八神はそう言って後ろを向いた。なんとなく、表情を隠したように見えた。


「ファインダー越しに見るこずえちゃんは、いつも寂しそうに見えたんだ。前までは、ね。

 ひょっとしたらもう学校辞めちゃうんじゃないかなとか思ってたけど、私にはどうすることもできなかった。こずえちゃんが質問攻めされて困ってた姿を見てたから、私が行っても困らせるだけだと思って声もかけられなかった。

 だから、あの日の屋上での出来事は衝撃的だったなー。止まってた世界が動き出したみたいだった」


 八神なりに、当時のこずえを心配していた。あの稲妻は、八神にも衝撃を与えていたのか。


「それから虎太くんのことをずっと気にしてた。でも、優しい人で良かったよ。こずえちゃんは見る目があるね」

「……優しいという評価は、俺にふさわしくないと思うぞ」


 不意に褒められたため、俺はとっさにそう返した。実際、八神の言葉は俺を買い被っているように思った。


「だからね、やっぱり虎太くんにも同好会にいてほしいよ。もし私が嫌でも、こずえちゃんとは一緒にいてあげてほしい」


 俺は心臓を射ぬかれたような気分になった。その言葉は、俺の認識をすべて覆すほどの破壊力を持っていた。


「嫌だなんて思ってない」

「そう? ならいいんだけどさ。とにかく、虎太くんにはこずえちゃんといてあげてほしいんだ。それは絶対、お願いね」

「……それは、こずえ次第だ」


 八神は振り返り、さっきまでと同じような笑顔を見せた。


「それじゃあ、そろそろ帰るよ。虎太くんもおつかい気をつけてね」

「ああ。それじゃあ」


 軽く手をあげて、八神を見送った。

 俺は混乱していた。八神がどんな人間かわからない。もっとも、今までわかっていた気になっていただけなのだろうが、話せば話すほどにわからなくなっていく。


 盗撮写真のことなんてすっかり忘れていた。俺には、またしばらくの間、問い詰めることはできないようだった。

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