第二夜 1

次の日。銀次は学校を休んだ。代わりに、下校中のゆきに一人の男が声をかけてきた。

 大学生風のその男は、ポケットに手を入れ、目を閉じ、ヘッドホンで何かを聴いていた。足でリズムを刻み、ガードレールに腰掛けるように立っている。ゆきが近づくとスン、と鼻を鳴らし、ヘッドホンを外す。上から人を見下すような、嫌みな笑みを浮かべ近づいてきた。


真名井まないゆき、やね?」


 薄気味悪いの次は嫌みか。かばんをギュッと握りしめ、気づかなかったふりをして、ゆきが通り過ぎようとすると、男はまた声をかけてきた。


「銀次は今、休ませてる。昨日は寝ずの番しとったからなぁ」


 男の口から銀次の名前が出て、ゆきは足を止めた。


「知らんかったか? 昨日の晩、アイツ、ずっとお前さんのアパートの屋根の上におったんやで」


 この男は何者だ。振り向くゆきの目が、そう問いかけた。


「昨日会うたやん。お前さんくわえて走った、腹の白い猫や」


 ゆきは目を丸くした。


「アナタも猫に……」

「当然やん。自分、ホンマに何も知らんねんな」

 

 男は苦々しそうにつぶやいた。


「立ち話もなんや、今から銀次ンとこ行こか」


 そう言うと男はきびすを返す。とまどい、なかなか一歩を踏み出さないゆきをちらりと振り返ると、男は首をしゃくり、ついてこいと促した。


 男の後をついて歩くと、自分のアパートに向かう道に出た。その道に沿って公園がある。周囲をぐるりとカシの木に囲まれた、近所では一番大きい公園である。右半分は遊具があり、まだよちよち歩きの赤ん坊や、気の早いショートパンツ姿の男の子達が泥だらけになっている。左半分は何もなく、中学生くらいだろうか、制服を着た男子生徒達がキャッチボールに興じていた。

 両親と暮らしていたマンションもここからそう遠くはない。だから、ゆきも遊び慣れた公園ではある。だが、いつもほんのわずか、ここに違和感を感じていた。こんな、ところどころに木が植わった場所ではなく、もっとうっそうとしたものに囲まれていたような……。ときどき、夢ともうつつともしれないそんな風景が、ひょいと脳裏に浮かび上がるのである。

 

 公園を通り過ぎ、左へ曲がる。ゆきのアパートからそう遠くないところに、銀次のアパートがあった。


「銀次ぃ、起きてるかぁ?」


 ドアを叩きながら男が呼ぶ。中から「今開けるワ」と言う寝ぼけた声が近づいてきた。


「連れてきたん!?」


 おう、と言いながら、男は遠慮なく入っていく。銀次はくたっとしたTシャツとジャージ姿で、寝癖の髪もそのままに、呆然ぼうぜんと突っ立っていた。


「お……お邪魔します」

「ど……どうぞ」


 お互い、目が合わせられなかった。


 狭い部屋の中にあるのは、小さな卓袱台と、今しがたまで寝ていたと思われる布団。随分と殺風景な場所にどうしていいか分からず、部屋の隅に立っていると、まぁ座り、とクッションを差し出しながら男が招いてくれた。


「銀次、お前何してるねん。何も話してないんか?」


 自分もクッションを当てながら、男が銀次にたたみかける。


「そやかて、先に変化へんげをコントロールさせんとアカンやろ」

「ワケを話しとかんと、それが何で重要なんかわからんやろ」


 目の前でポンポン飛び交う会話。それに合わせて動く首。自分が話題の中心らしいが、出てくる言葉に心当たりが全くない。首を左右に振り疲れたとき、たまらなくなってゆきは口を開いた。


「あ……あの……何の話を……」


 それを聞いて、やっと二人が思い出したように振り向いた。


「まず、自己紹介するわ。オレは黒谷くろたにまこと。コイツの兄貴分や」


 ニッと笑いながら銀次の鼻をつまむ。よく見ると、鼻筋の通った、人なつこい顔をしていた。


「んで、お前さんと同じ、猫になれる人間や」


 ゆきがゴクリと喉を鳴らした。


「オレら、ある里から来てん。お前さんが猫になれそうなん、察してな」


 猫になれる人間。里。聞き慣れない言葉が波紋のように広がり、心がざわつく。


「お前さんも含めて、オレらは遠い親戚みたいなもんやねん。猫になれる一族や」


 ゆきは小さなときから猫になることができなかった。里の長老達は人間として暮らした方がいいだろうと考え、ゆきは両親と共にこの地に移り住んだ。しかし、ゆきに覚醒の兆候が現れたため、二人が里から派遣されたのだという。


「じゃあ、私の両親は……」

「どっちも猫になれた」

「じゃ、お父さんとお母さんがどこにいったか知ってるの!?」


 真を揺さぶるゆきの手を、すぐに銀次がほどく。


「それは、……ボクらも知らん」


 二人はゆきからすっと目をそらした。

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