女数人集まれば即ち

第5話『いいか? これは裏取引になる』(連続33話)



 ***



「無理」


 頭から湯気が立ち上るのが見えてきそうな程だった。勢花がお決まりのポーズで机に突っ伏すのは、今日がもう何日目であろうか。


「ほんとうに何もしていなかったのね」


 呆れ気味な月旦がこう返すのも、ここ数日繰り返されてきたものだった。

 週末である金曜、組まれていた期末テストの科目が終わったあとである。


「でも、要点はみっちり教えてるから赤点はないでしょう。わたしがこれだけ教えているのだから、しっかりと考え方の変化を見せて頂かないと困ります」

「え~」


 死んだ瞳で魂が抜けかけている勢花がウニウニと蠢いているのを尻目に、月旦は週明けのテスト教科のみならず、勢花が特に苦手な主要教科の参考書をも鞄へと入れる。


「さ、行きましょう。勢花さん、今日の課題は分かりやすいと思いますよ」

「う、やっぱり行かなきゃ駄目?」

「これはもう、取引ですから」

「んぁ~、マジか~」

「マジよ。さ、行きましょう」

「……あ~い。って、鞄チェックしないでも教科書入れてあるよぅ」

「信用と信頼は別物であって、管理を任されたからには進捗などの確認はわたしの仕事。勢花さん? 『ちゃんとやるから』という言葉の都度確認は、その言葉を信じる者の努めです」

「だ、だよにゃ~」

「……今日やった科目のノートがないわね」

「え、だって今日終わったし」

「予習復習、正しい反復こそ身になるのよ」

「あっ! あっ! そんな押し込まなくても! あぅ!」

「ん、では行きましょう」

「あぃ~」


 ここ数日の日課、図書室での勉強である。

 彼女たちの教室のある2棟の最上階が、図書室である。

 他にも下校時刻が来るまで静かな空間を利用する生徒もいるが、なぜ彼女たちがふたりでそうするようになったのかには、純然たる理由があった。


「おぅ? お前ら、今日も勉強会か」


 教室から出たとき、1棟から職員室へと戻る途中の柳と鉢合わせる。解答用紙の入ったオレンジ色の封筒を抱え、おかしな物を見るようにふたりを下から上へと見る。


「今日もしっかり、週明けの予習をするつもりです、先生」

「ん、辻が言うなら、まあ間違いはないだろう」

「うぇ~」

「とにもかくにも、辻、お前が戸田の成績の底上げをしないことには、留年もやむなしとのことだ」

「分かっております」


 月旦の瞳が昏く燃える。


「勢花さんの英語の成績は、わたしが必ず合格ラインまで引き上げます」

「危ない教科が英語といった覚えはないがな。……とにかく、赤点が多ければ、もう一度お前は一年生をやる可能性が高い」

「ひぃ!」

「大丈夫よ勢花さん。わたしがそんなことにはさせないから」

「ひぃ!」

「ははは、前門の虎、後門の狼だな」


 この遣り取りに至るまでに、色々とあった。

 あの公園での一件の翌日、柳から呼び出された月旦に言い渡された案件とは、勢花の成績に関する事柄であった。


「実はな、辻。戸田勢花の成績のことなのだが」

「勢――戸田さんの?」


 職員室の前で話す柳は、声のトーンをひとつ落とし辺りを見回す。


「実はな、戸田の成績がヤバい。このままでは留年も充分にありうるとの噂だ」

「なんですって!?」

「声を抑えろッ。……どの教科とは言えないが、職員室で松下先生が頭を抱えて愚痴っていたんだ。首の皮一枚で繋がってはいるが、補習で補えない失点が来そうで、戦々恐々らしいぞ。担任のクラスから留年者――しかも学業の成績による留年者を出すのは、担任としてどのように周囲から見られるか。それ以上に、あの繊細な松下先生が自責の念で血を吐く寸前まで追い詰められる姿は容易に想像がつく」

「――確かに」


 なぜ自分に勢花の成績の相談が、柳の元から持たされるのか、月旦はまだ不審と思っていない。


「補習にしても、長引くようならもちろん……。まあ、『部活動』はお預けになるだろうな」

「!?」


 明らかにスイッチが切り替わった月旦の眼差しに、柳はひとつ頷く。


「例の書類の判子なんだが、この問題をなんとかしたら松下先生が文字通り太鼓判を押してくれるそうだ。そこで、クラス委員長でもあり成績優秀な辻に、戸田の勉強を見て欲しい……と、まあそういうことだ」

「なるほど」

「担任が他教科の情報を鵜呑みにして、お前に直接頼むのもはばかりがある。ということで、わたしがこうしてお節介をしてるわけなのだが」

「承知いたしました」


 ひとつ頷く月旦。

 正直なところ、軽くつついてあれからふたりがどうなったのかを知りたかっただけな柳だが、思った以上に上手く行っているようで口元がほころぶ。


「いいか? これは裏取引になる。先生方には内緒だぞ?」

「わかりました。必ず戸田さんの成績を上げてみせます」

「ふふふ、頼むぞ。首の皮一枚。なんとか繋ぎきって欲しい」


 その日、さっそく月旦は勢花の首根っこを引っ掴み、図書室で翌日の予習地獄へと誘ったのだ。

 それからの流れである。


「ということで、おまかせ下さい」

「ん、まかせた」


 去る柳の背中に、もう一度月旦は誓った。


「さ、行きましょう、勢花さん」

「あれ? 図書室は上だよ? そっちは……」

「今日は図書室に行かないわ」

「え?」

「今日は、わたしのウチでお勉強します」






 神社の階段を上りながら、勢花は前を往く月旦の背中を見つめる。


「月旦ちゃんて姿勢良いよね。下着も可愛いし」

「ちょ、どこ見てるんですか!」


 スカートを抑えながら振り向くと、下から露骨に見上げてくる勢花の頭に手刀を叩き込む。


「薄い青ってのがまたイメージどおりで月旦ちゃんらしい」

「……もっと強く叩いておくべきだったかしら」

「ノーノー、ギブギブ」


 避けるように並び二人して階段を上るのだが、月旦はスカートの裾を気にしたままだ。


「そんなに短いかしら」

「なにが?」

「な、なんでもないわ」

「大丈夫よ、露骨に覗き込まなきゃパンツ見えないから」

「分かってるじゃないの!」


 静謐な空気を湛えた鳥居の内に、やや騒がしいふたりが入ってくると、境内を掃き掃除していた月旦の父が顔を向ける。


「おや?」

「ただいま、お父さん」


 月旦がオホンと咳払いひとつ切り替えると、神職姿の父に帰宅の挨拶。


「え!?」


 しかし父の予想外の驚愕の眼差しに、月旦はびくりと身構える。


「こんにちは、その……戸田です……って、おじさん?」

「えええ!? と、トモダチ!?」


 父の驚愕の度合いたるや、その箒がミシリと軋むほどに握りしめられている拳に見て取れるが、ふたりは完全に置いてけぼり状態である。


「月旦がお友達を連れて来たァ!? と、友達いたのか……」

「失礼な親ねッ!」


 勢花は苦笑混じりに一歩引くが、彼が驚くほど月旦には友達がいなかったのか、はたまた彼のノリがひょうきん染みていただけなのであろうか。


「幼稚園のときに一回あるじゃない」


 前者か――と勢花は頬を掻く。


「ともあれ目出度めでたい。えーと、君は……」

「戸田です。クラスメイトの」

「戸田さんか、えーと……」

「わたしの部屋で勉強するわ。ええと……お母さんは?」

「ああ、母さんなら家に。今日は金曜日だから、仕事は明日だ」


 シフト制で働く月旦の母は在宅らしい。勢花が一歩引いたところで情報を整理しようとしたのだが、どうやらお父さんは神主、お母さんは仕事をしてる、いわゆる共働きの家庭らしい。お爺さんは話によればもう亡くなっていて、実家の道場はこの裏手にあるそうだ。

 勢花としては実家の道場のほうに興味があるのだが、本日は残念ながらオベンキョウである。


「ん、まあゆっくりしていって下さい。……そうだ、お昼はどうした?」

「あ、そうだった」


 月旦が今さら気が付いたように手を叩く。


「思わず連れて来ちゃったけど、勢花さん、ご自宅でお昼が用意されてたんじゃない? ごめんなさい、わたし気が付かなくて」

「コンビニで買ってこうって思ってたから大丈夫。うちもお母さんパートしてるからお昼は買って帰るのよ」

「そ、そう、良かった。あの、もしよかったら、うちで一緒にお昼とかどうかしら」

「お昼?」

「ん、食べて行きなさい」


 と、引き受けたのは月旦の父である。


「ご飯も炊けてるし、おかずはほら、昨日のあれがあっただろう、あれ」

「ああ、あれね」


 あれが分からなかったが勢花はとりあえずくすぐったい気分になった。


「あの、そんな悪いですし。いっかい帰ってから来ても……」

「そうはさせないわ」

「ちょ、月旦ちゃん凄い力で手を……って、あの」

「遠慮しないでいいのよ」


 逃がさぬ気配である。


「遠慮? いやあ、そんな、わたし凄く食べるから恥ずかしくて」

「ああ、月旦も昼と夜は丼三杯くらいは食べるから気にしなくていいよ。うちの炊飯器は8合炊きなんだ」

「お父さん!」

「へ~……痛たたたた、月旦ちゃん痛い」

「あ、ごめんなさい」


 力は弱まったが離してはもらえなかった。

 月旦は「ともかく、お昼をご一緒しましょう。それに、一通り予習が終わったら……」といっかい父を伺ったあと、小声で「道場も見ていきましょう」と微笑む。

 遠慮や逃げたい気持ちの天秤が、前向きに傾き始めた。

「さあ、行きましょう勢花さん。――お父さん」最後に父に向き直り、「のぞきに来たら親子の縁を切ります」と静かに告げる。

 露骨に悲しそうになる月旦の父に、どこの親も一緒だなぁとすこし共感する勢花。勢花の父も休みの日に友達が来ると何かと顔を伺おうとするのを母に止められるタイプの親であった。


「さ、行きましょう」

「う、うん……? うん」

「月旦~ぁ」


 情けない声を背に受けながら、月旦と勢花は神社の奥手から石畳を経て、辻家の裏手へと出る。学校方面からだと神社の外から表に回るより境内を経たほうが早いらしい。


「勢花さん、ちょっと向こうから表に回って下さる?」


 勝手口に手を掛ける月旦がそう言うが、勢花も「そこから入ればいいんじゃないの?」と気にした様子はない。


「お客様を勝手口から入れたら失礼でしょう?」

「あ、そういうものなの?」

「そういうものなの」


 そそくさと月旦は勝手口から「ただいまー」と上がり、居間から出てくる母に「クラスメイトの戸田さんが来てるの。お昼と、期末の勉強をご一緒するから」と声を掛ける。


「あらあらあら、お友達? まあ、めずらしい」


 ここ数日の娘の動向を伺っていた母は、「めずらしい」と言いつつも、学校で何かがあったのだろうということは悟っていた。

 テスト期間中、いつもなら弁当で昼食を摂り、図書室で自習をして帰宅するのをモットーとしていた娘が、めずらしく弁当に手を付けずに帰宅した日があった。風呂場の脱衣場にある洗濯機に制服を放り込み、食卓で弁当を食べながらどことなく恥ずかしそうに思い出し赤面をする娘の姿が印象に残っている。

 人付き合いが苦手ではないが、苦手ではないゆえに独りでいることに長けていた娘に、やはり何かがあったのではと察したのは、さすがは母である。


「お昼はわたしが作るから」

「はい。……じゃあわたしは飲み物でも買ってきましょうか」


 そこで月旦は自分の家には麦茶しかないことに気が付いた。慣れた仲であれば途中のコンビニで買い出ししてから集まったりするのだろうと気が回り、しまったと眉をしかめる。


「お願い」

「はい。……戸田さんだったっけ? 早くお迎えしないと」

「あ、そうだった――」


 玄関に早歩き、サンダルを履いてドアを開ける。


「お待たせ…………あら?」


 勢花はいなかった。

 そんなに遅くなったわけでも、早いわけでも、ましてや裏手から迷う距離でもなかった。

 サンダル履きで、先ほど月旦が促した方から裏手勝手口へと回り込む。


「勢花さん?」

「あ、ごめん、ちょっとこれを見てた」


 勢花の姿はすぐに見つかった。神社を経由せずに、母の実家――道場へと繋がる小道。やや鬱蒼とした竹林に刻まれた道が、手入れされた石畳と低い柵で囲まれ、やや下りながら伸びている。

 勢花が見ていた「これ」というのは、この道のことではない。そのやや外れた場所にある、周囲から見えにくいところへと入れる、更なる小道だ。そこは、彼女の立っている場所からでしか伺えない。

 その先には、三畳間ほどの空間。長い年月を掛けて踏み固められた土。その中央には、一本の太い竹が生えている。


「なんかこれ、不思議で」

「……これを見てたのね」


 月旦は得心した。


「月旦ちゃん、これ、横が凄い削れてるの」

 勢花が見ていた一本の竹。

 その側面は、頭の高さのあたりから腰の高さのあたりまで、左右とも削れ、白っぽい肌を見せていた。


「これなんだけど」

「あとで。……そう、あとでちゃんと教えて上げる」


 ということは、彼女の目指すものの流れにある何かなのだろう。

 その遠いものを見るような眼差しに、勢花も何かを感じるものがあり、「うん」と頷き押し黙る。


「さ、こっち。母を紹介するわ」

「うん」


 微笑んで促す月旦の表情に、どことなく柔らかいものが湛えられいるのを感じ、勢花もなんとなく微笑み返す。

 そのとき何かを察したのか、ふと勢花は自分の両掌を親指でさするように握り込む。


「母も出かけるし、気兼ねしないで」

「おじゃましま~す……」


 玄関を潜り一声掛けると、奥から月旦の母がトタトタとスリッパを鳴らして顔を出す。その柔らかそうな表情、佇まいに、ああ月旦は母似なんだなと、どことなく思った。このきつい顔つきの月旦とすごくよく似ていると感じた理由ははっきりと言葉にできないが、たぶん合ってる――そう思った。


「いらっしゃい。戸田さん、だったわね」

「こんにちは。えーと、戸田です。クラスメイトの――」

「堅苦しい挨拶は抜きにして、どうぞ、上がって下さいな」


 スリッパを出しながら促す母に、月旦も苦笑する。

 友人を招き慣れていないのが悔やまれる。帰宅途中の買い出しにしろ、昼食にしろ、こんなときにどうして良いのか分からないのだ。


「お昼は娘が腕をふるいます。ささ、それまでふたりでお茶でも嗜みましょう」

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