第4話『ドタ子とタン子(4)』(連続33話)
「部活動の構成人数について規制をかけている学校もあるけれど、向陽高校は義務と責任がついて回るだけで、人数規制がないのよ」
下校。
いつもよりやや重い鞄を手に勢花は、前を歩く月旦の後ろをトボトボとついていく。
元気のない勢花の歩調に合わせている月旦は、聞かれてもいないことを説明しながら歩いている。
「ひとりでも部は作れるし、特に他の部員は必要ではないのだけれども、人数に応じて便宜が図られることは、やっぱりあるのよ」
やや歩調を落とした月旦が勢花と肩を並べ、その顔をじっと覗き込んだ。
毬谷円佳と話して以来、このように気を落としたままだ。
「――お祖父ちゃんが、この町で道場を開いてたのが、もうずっと前で。その前から田舎で代々道場を開いていてね。全く有名ではなかったけれど、昔から受け継がれてきた古い流れを教えている道場だったの」
「剣道とは、違うの?」
やっと、勢花は月旦の言葉に応える。
「もともとは同じだったのだけれど、分かたれたみたい。違うと言えば、ほんとうに全く違うわ」
「……?」
「歴史は私もよく分からないけれど、柔術が流れの果てに柔道として普及したように、剣術が剣道として普及する流れで変わっていった技術があるのよ」
ジっと、勢花の意気の落ちたキョトンとした目を、月旦は静かな瞳で覗き込む。普段は話すことが全くなかったふたりだが、もともと人とあまり話さない月旦は、構わず自分のペースで続ける。
「剣道と剣術、どっちが上か下かじゃないのだけれど、わたしは剣術部を作ってお祖父ちゃんが残した剣術をしっかりと修めたいと思ってるの。その違いを意識して、昔の人がやっていた動きを自分でもできるようになりたいだけ」
そのとき、はっきりと勢花の目が揺れた。
「同じような動き……?」
「うん。小さい頃、お祖父ちゃんの剣を振る姿を見て、綺麗だって思ったの。いつも見てたわ。そして、自分でもやってみたい、綺麗な動きをしてみたいって思ったの」
勢花の足がピタリと止まる。
それに併せ、月旦も止まる。
「委員長、あのね」
「…………そこで話しましょうか」
月旦は学校近くの小さい公園を指す。
何か憑き物が落ちかけた勢花は、月旦の促しに乗り、ベンチだけで遊具のない狭い公園に入る。
「座って」
いつのまにか自動販売機で買ったペットボトルのお茶を渡しながら、月旦がベンチに腰掛ける。自分のとなりをポンポンと叩くと、勢花が腰掛けるのをじっと待つ。
勢花はしばらく遊具が撤去されたと思しき跡をじっと眺めていたが、ゆっくりと彼女のとなりに腰を下ろす。
子供が怪我をしたという理由で全国から『危険な遊具』の類が撤去されてしばらく、ついにはベンチだけとなった寂しい公園が増えたという。この小さな公園にも、砂場も、ブランコもあったのだろう。今はないそれらの痕跡を、月旦も勢花に倣って、じっと見つめている。
お互いボトルのキャップも取らぬまま、しばらくそうしていると、ふと、勢花がフフフッと笑い出した。
「ごめんね、委員長」
「まさか笑い出すとは思わなかったわ」
「ほんと、おかしいったら……。は~……」
息を整え、勢花は姿勢を正す。背筋の伸びた、綺麗な姿だ。
「中学校のときは、ずっと吹奏楽部だったの」
そう語り出す勢花の話の腰を折らぬよう、「意外ね」とだけ返し、月旦は先を促す。
「高校は近いからここを選んだんだけど、部活はどこにしようか~……なんて考えてなかったの。吹奏楽部は面白かったけど、高校でやろうとは思ってなかったし、そもそも運動部が活発なウチの吹奏楽部は、もう応援演奏なんかで名を馳せる超スパルタでしょう? 入る気なくしちゃって」
そこでまた、勢花は笑う。
さすがに月旦も言葉を返す。
「確かにブラスバンドはスパルタだけど、剣道部はそれ以上だと思うわ――」
「そうなの。でも、新入生歓迎会でさ」
思い出すように、勢花は微笑む。
「剣道部の部活勧誘発表で、先輩――東郷先輩の演武を見て、ああ綺麗だなぁ……自分もあんな動きができたらなぁ……って思ったの」
「日本剣道形ね」
「だから、委員長がお祖父ちゃんの形を見て、綺麗だって思った、自分でもやってみたい、綺麗な動きをしてみたいって思ったって聞いたとき、自分と同じだって思ったの。だからなんだかおかしくなっちゃって」
――同じね、わたしたち。
そう言って勢花は笑う。
「東郷先輩はずっと剣道とかやってる家で、お父さんもお母さんも、警察官らしいわ。そりゃあ、強いわよね。次は部長って決まっていて、夏の大会が最後で……」
「毬谷円佳さん。彼女も、剣道の家だったわね」
「知ってるの!?」
「ええ」と首肯するが、「知らないわけないじゃない」という呟きは口の中でもみ消す。
「この町で道場を開いてたわけだし、そりゃあ、せまい業界だし、知ってるわ。彼女、順当に行けば副部長になるんじゃない?」
「…………うん」
「道場の一人娘だし、強いし、更に順当に行けば三年生になったら部長でしょうね」
「たぶんね」
また、勢花はクスリと笑う。
「東郷先輩も、毬谷さんも、強いからね」
「そう」
あまり興味が無さそうに頷くと、月旦はそろりと切り出すことにした。
「毬谷さんに、何か言われたの?」
「え?」
「元気がなくなったじゃない、職員室で会ってから。あのとき言われたことじゃなく、もっと前から、何か言われてたんじゃないかなって」
「うん。……うん」
ペットボトルを握りしめ、勢花は手元に目を落としながら、二度、頷く。
「クビんなっちゃった」
「………………部活を?」
「うん。一年やったけど上手くならないし、見込みがないから、もう辞めちゃいなさいって」
「――酷いことを言うのね」
「だって、向陽高校剣道部だもん」
向陽高校。
その剣道部の名前の重さを知る者は多い。
「それに、二年生になったら防具も買わないといけないし。買ってからクビになるよりいいんじゃないかなって。すり足も上手くならないし、ほんと、みんなの足を引っ張ってしまう前にって。わたしを指導する暇があったら、先生も先輩も、他の見込みある人に教えるほうがいいし」
「それは、彼女に、毬谷さんに言われたのね」
勢花の寂しそうな横顔に、月旦はじっと視線を落とす。彼女の揺れる瞳に、どことなく得心して頷くと、やや言い淀みながら続ける。
「……『ドタ子』って、なに?」
「聞かれると思った」
苦笑混じりに立ち上がり勢花はベンチの前を、ペットボトルを竹刀に見立て、トタトタとすり足らしき歩法で行き交うように往復する。
「すり足がいつまで経っても上手くならなくて、どうしても踵が離れないの。『ベタ足ドタ子』。それがみんなから付けられた私のあだ名」
両腕を広げてにっこり笑うその笑顔には、しっかりとした悔いが見えた。
「東郷先輩っていうお手本を間近で見ながら頑張ってきたけど、どうしても駄目だった。初めの頃は他の先輩たちも教えてくれていたんだけど、しばらくしたらだれも教えてくれなくなっちゃって。部活も、朝練も、休み中の合宿もついていったのに、筋トレも自主練もがんばったんだけど。ほら、わたしって大雑把だから、みんなの言う通りドタドタするだけでさ。ち、
ガッツポーズで力こぶを作る勢花の腕は、確かにしっかりとしている。細い月旦の肢体よりも、肉付きは良い。
「朝、走っていたのは?」
「あれは自主練。持久力付けないと、練習について行けなかったから」
「いつもうちの神社に?」
「う、うん。でも、委員長の家だって知らなかったよ。ほとんど毎日行ってたのに、会ったのは今日が初めてだったもの」
「そうね、ほんと偶然」
「あっ! そうか、あのときの刀って――」
「うん、道場に行って毎朝形稽古をしてるの。お祖父ちゃんの動きを頭に、いつかああなりたいと思って。そうか、わたしが剣を振ってるとき、戸田さんは走っていたのね」
「わたしも、東郷先輩みたいになりたかったな。ほんと、続けたかったけど」
そして、お互いの間に沈黙がおりる。
月旦は、何も言えなかった。
言えるはずがなかった。
「…………っ」
その開かれた双眸から止め処なく溢れる涙で頬を濡らす少女を前に、月旦は声を掛けられなかった。
「頑張ったのに。駄目で……!」
声を殺し泣く少女。
まるで自分の胸を締め付けられるような悲しみを覚え、月旦も目頭が熱くなる。思うように行かない悲しさ、それを上回る……はるかに上回る悔しさ。
彼女は、彼女たちはそれを知っていたのだ。
「戸田さん」
月旦はペットボトルを置き、立ち上がると、頭ひとつ低い勢花の頭を己が胸にかき抱く。
「戸田さん。わたしは、あなたが欲しい」
「――!?」
抱かれた勢花の体がびくんと震えるが、月旦はそれを逃がすまいとぐっと強く抱きしめる。
「ちょ、委員長!」
「逃げないで。話を聞いて」
「服汚れちゃうよ!」
「かまわない。今ここで抱きしめられないことに比べたら些細なことよ」
「ちょ、いいんちょ……」
「あなたが欲しい。自分を信じて、自分が綺麗だと信じたものを追い求めて頑張れるあなたが欲しい。他の誰よりも、東郷重美よりも毬谷円佳よりも、戸田勢花という一人の女が欲しい」
一瞬びくんと強く震えた勢花が、ゆっくりと抱きしめられたまま顔を上げる。その鼻水と涙にまみれた顔が、控え目な月旦の胸の間から彼女を見つめ返す。
「いいんちょ……」
「お願いがあるの、戸田さん」
「…………」
「わたしと一緒に、剣術部をやって欲しい。一緒に、美しいと思った動きを、術を、孤月を身に付けるための仲間になって欲しいの」
「なか、ま……?」
「ええ」
そっと、かき抱いた胸を離す。
息もふれあう距離で、月旦は頷き微笑む。
「一年間という長い時間、そこまで頑張れたあなたの努力をわたしは笑わない」
「なんで?」
「努力を笑うことは人間を否定することだから。結果が出ない努力を否定したり馬鹿にする人間は、他人の努力の結果で利益を得ようとする人間だけよ」
きょとんとする勢花がひとつはなをすすると、ポケットから出したハンカチでドロドロの顔を拭いてあげる月旦。
「いい? あなたの努力はしっかり体に残ってる。毎日走っていたこと、竹刀を振っていたこと、全部。――ほら」
今度は勢花の手を取り、その
「あっ……」
「気が付いた? ほら、戸田さんの手も、わたしの手も、ごつごつしているでしょう?」
毎日しっかりと竹刀を振り、鍛えあげている者の掌にできる、何度も血豆となり、剥け、治癒し、硬くなった、タコのある皮膚の感触。
勢花は、素直に驚いた。文系とばかり思っていた、すらりとしたこの柳葉のような委員長が、掌に剣タコを作るまでに鍛えていた剣士という事実に。
「結果なんてものに踊らされちゃ駄目。私たちが『これ』と信じて修めようとしている、あの美しい何かは、そんな目先の過程にはないわ。もっと先にある、追い求め続ける何かであるべきよ」
「追い求める何か、じゃないの?」
「確かに。でもそれを言えるほど、まだわたしは剣に生きていないから――」
「そっか。だから、部を?」
「ええ。家の道場だと、父の目もあるし。学校なら、自由にやれる」
「そっか」
勢花は、まだ月旦には事情があるのだろうと察したが、飲み込んだ。
組み合わせたままの掌をお互いの胸元に、ふたりはしばし見つめ合った。
「わたし、何も知らないよ? 委員長が言う、剣術とか知らないし」
「わたしも、知らないようなものよ。一緒に、研鑽していきましょう」
勢花はしっかり頷いた。
「あれだけ熱烈なプロポーズされたら、女の子としては心動かされちゃうよ」
「え? プ、プロ…………」
月旦は顔を赤らめる。プロポーズと言われて、先ほど心の赴くままに言った言葉を反芻し、さらに耳まで赤らめる。
「わたし、初めてなんだからね。優しくしてよ?」
おどけて言う勢花。吹っ切るようなその言葉に、月旦は今になって恥ずかしさで身をよじる。しかししっかりと組まれた掌のせいで離れるに離れられない。
「あ、う、うん。そ、そうね」
「じゃあ、こうしましょう」
場の空気を勢花に戻された月旦は、名残惜しげに離された掌にやや涼しい初春の空気を感じつつも、彼女の瞳に吸い込まれるように呆ける。
勢花はペットボトルのお茶のキャップを取り、そのお茶を一口、あおるように飲み込んだ。
「はい」
と、勢花は口を付けたペットボトルを月旦に差し出す。
「え?」
呆ける月旦。
「盃。固めの」
そんな勢花の言葉に、やっと月旦の頭も動き始める。
「…………桜が咲く前で、すこし格好はつかないけど」
ペットボトルを厳かに受け取りながら、押し頂き、口を付け、一口あおる。
ゆっくりと、静かに嚥下し、視線を彼女へと戻す。
「戸田さん、わたしは揺れたりしないわ」
「ふふ、これで仲間ね」
「でも良かったの? お、お、思わず勧誘しちゃったけれど」
「委員長、それを今さら言う? ふふふ、だって、しょうがないよ、やってみようと思っちゃったんだもん。それに……」
口を噤む。
あの『綺麗な動き』を体得し、どこかの誰かを見返す機会が欲しかったのかもしれないという、自分の昏い気持ちと一瞬向き合う。
「うん。でも、嬉しかったもん」
「そ、そう……」
安堵の表情に戻る月旦。
「だから、そうだなあ。……委員長、勢花でいいよ?」
「え?」
「名前。クラスメイトだし、名前でいいよ?」
「なな、名前……」
「うん。えーと委員長は~……っと」
そこで、勢花は月旦の置きっ放しの鞄に目を留める。
律儀な月旦は、しっかりと学校指定の名札に名前を書き入れていた。
「…………なんて読むの? げつ……『つきたん』? 『げったん』?」
「つ、『つきあ』! 『つきあ』よ!」
ペットボトルを押し返しながら、慌てる月旦。
「つきあ? そう読むの? この漢字。月と、元旦って字で? アって読むの? これ」
「あ、アキラとか、タンとか……まあ、読むわね。アキラの、アで、ツキア、月旦って読むの」
「じゃあ、……タンちゃん?」
「そ、そのあだ名はやめて!」
言下に否定した月旦は、眉を八の字に懇願する。
「しょ、小学校のときに、読めないからって、タン子って呼ばれてて」
「た、たんこぉ~? ふふふ、なんか似合わないね」
「だから、やめて!」
「でも可愛いよ? ねね、タン子ちゃんでいい?」
「だ、だめよっ」
「ん~……。じゃあ、私のことを名前で呼ぶなら名前で呼んであげる」
「委員長でもいいのに」
「味気ないでしょう? やっぱり、名前で呼び合わないと。仲間だし」
「ん、ん~……」
「ふふふ」
そう笑いながらも、勢花は自分が『ドタ子』と言われてることと、彼女が『タン子』と言われていたことを、心に留めておこうと思った。
彼女は、彼女のことを、決してそのあだ名で呼びあうことはないだろう。
「しょうがないわね。……せ、勢花さん」
「ムズムズするね」
「あなたが言えって言ったんじゃない!」
「冗談よ、月旦ちゃん」
「――ちゃ、ちゃん!? …………ま、まあ、いいかな」
そっちから間合いに踏み込んできたのだから、今度はこっちが踏み込む番よ……とばかりに、勢花は照れ隠しの攻勢を見せる。
今度は自分のハンカチではなをかみ、顔を拭き、はなをすすってお茶を飲む。
「ふぅ、落ち着いた。ゴメンね泣いちゃって」
「いいのよ。泣けもしないより、よっぽど健康的よ」
「じゃあ、制服汚しちゃったのもいいよね? 抱きしめてきたのそっちだし」
「………………」
ドロドロになった自分の胸元に目を落とし、口を噤む月旦。
「ま、まあね」
ハンカチで拭きながら、月旦は苦笑する。
「ともあれ、これから宜しく、勢花さん」
「うん、月旦ちゃん」
どちらからともなく差し出された手を取りながら、彼女たちは微笑む。
昼間近のスズメが、チュンとひとつ、鳴いた。
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