第3話『ドタ子とタン子(3)』(連続33話)


「無理」


 三時限のテスト時間を終え、口から魂が抜けんばかりに疲弊した勢花は、机に突っ伏したまま脱力している。

 実に恐ろしいまでの集中力でなんとか数学と英語を斬り抜け、選択問題が多めの古文を絶妙な塩梅でこなし、ここに至り、ガス欠を起こしたのだ。

 九時開始、五十分間のテストと十分間の休憩を三コマ。ちょうど昼の時間である。今日はこのまま終わりで、下校の時間である。まわりを見ればもう過半数の生徒が下校し始めている。残っているのは勢花のような魂の抜け殻か、月旦のような余裕のある者か、このあと勉強会の予定を話し合う者たちくらいであった。


「無理」


 脱力してるわりにははっきりと言い切り、更に机にめり込むように垂れる。

 押しつぶされた胸がぐにぐにと蠢きながら形を変えるのを見て、月旦はフと自分の胸を見下ろす。視線は胸に邪魔されることなく、すとんと腿に注がれる。


「……無理」


 最後にしぼんだ風船から抜ける最後の空気のように漏れた勢花の言葉に、胸を押さえて月旦はムっと眉をしかめる。


「ふぅ」


 呼吸を整え、いまだムニムニと形を変える勢花の胸から目を逸らし、教科書を鞄にしまい、席を立つ。


「あれ? 委員長、帰り?」


 ヒョッコリと顔を上げた勢花がスッキリした顔で声を掛けてくると、意外に感じたのか月旦は「え?」と目を丸くして立ち止まる。


「テストどうだった?」

「テ、テスト?」と月旦は一瞬言いよどみ、「そこそこかしら」

「いいな~」


 同じく教科書を手に、勢花は立ち上がる。


「明日、なんだっけ? 日本史とかあったよね」

「ええ」


 意図せずにふたりで廊下に出る。


「日本史か~。まあ何とかなるかあ。選択肢多い先生だし」

「ちょっと、なんで教科書をロッカーにしまうの?」

「え? だって荷物になるし」

「置き勉してるの? ちょっと戸田さん、あなたちゃんとテスト勉強してる?」

「何とかなるでしょ、コピーしたノートもあるし」

「駄目よ! 明日またさっきみたいに項垂れるつもり?」

「あー、うー、委員長、でもさ」

「でももだってもありません!」

「あうっ」


 ぴしゃりと言い放ち、鞄を足下に置き仁王立ちに腕を組む月旦に、勢花は肩をすくめて涙目になる。その威圧感たるや、肝が冷えるような力強さがあった。


「鞄にしまって! ほら、ロッカーに……って……みんな置いてあるの!? ちょっと戸田さん、これはあまりにあんまりじゃないかしら」

「え、あ、まあ」

「日本史と……国語と漢文! ほら鞄に入れて!」

「え?」

「入れて」

「あっはい」

「良し。……じゃあね? しっかり予習しておくのよ?」

「あれ? 委員長はどこ行くの?」


 てっきり下駄箱に向かうのかと思っていた月旦が3棟への渡り廊下へ足を向けるのを見て、勢花はその背中に声を掛ける。月旦は足を止めずに「職員室」とだけ言いスタスタと去って行くのだが、途中いっかい踵を返してつかつかと勢花の前へとやってくる。


「戸田さん」

「は、はぃい?」

「あなた今日は部活に行かないの?」

「え?」

「あ、そうか、試験期間中は午後の部活動は禁止だったわね。御免なさい。それじゃ」

「え? あ、うん? うん」


 そして足早に去って行く月旦。

 去って行くかな? と思った月旦が、再び戻ってきた。


「いいんちょ?」

「忘れ物よ」


 月旦は自分のロッカーを開けると、数枚の書類が挟まれたクリアフォルダーを取り出す。幾つか朱の印が見えるのは、捺印した何かなのだろうか。


「それじゃあ、ほんとにまた明日ね」

「ねねねねねね、それなあに?」


 興味を引かれた勢花は、チョイチョイと間合いを詰めて覗き込む。

 月旦も隠そうとはせずに、しかし見せようともせずに、苦笑する。


「職員室に持っていく書類よ。部活動の申請。生徒会から昨日返ってきた書類。これをまた職員室の生活指導部に回して、またまた生徒会に戻すの」

「申請?」

「そ、申請。そういえば戸田さん、生活指導の先生って誰だか知ってる?」


 品行方正な月旦は、コワモテで睨みを利かせる類の生活指導の先生とは縁も馴染みもなかった。ふと、剣道部の――剣道部であるとまだ思っている勢花に訪ねたのも、もしかしたら知ってるかもという期待を込めてのものだった。


「うん、知ってる。柳先生。やなぎ七子ななこ先生」

「柳先生?」


 と言うわけで、答えが返ってきたことで「へ~」と勢花の顔を覗き込む形になった。


「社会科だったかしら、柳先生」

「そそ、柔道部顧問。知ってる?」

「…………?」


 顔はおぼろげに思い出せる程度。

 月旦にとっては教科で受け持たれるわけではないし、なにより柳は三年生の担任である。彼女が受け持つ世界史の授業も選択で三年にならねば受けられないから、月旦の生来の無関心もあってその顔はやはり思い出すことができない。


「ほら、髪の毛が短い、こんな目をしてるゴツい先生」

「ん~?」


 ピンとこない月旦は、アレコレとジェスチャー交えて説明する勢花の腕をむんずと掴む。


「え?」


 その意外に力強い握力に、勢花は間抜けな声を出す。


「顔知ってる? 知ってるわよね。一緒に来て」

「え? え?」


 ずるずると引かれる。その力はやはり強い。

 つまずくように足を揃えて歩き出す勢花。物静かな委員長の意外な一面を立て続けに見て、なかば強引に肩を並べて歩き出すことを余儀なくされたわけだが、勢花も「まあいいか」と鞄を担ぎなおす。


「委員長、部活してたっけ?」

「してないわ」

「でもほら、部活の申請って」

「ああ、これ? これはね、新しい部活の申請書類よ」

「新しい部活? 委員長、なにか部活を作るの? この向陽で? へ~」

「この向陽でって、それはそうでしょう、わたしここの生徒だもの」

「いや、そうじゃなくって」


 向陽高校は、剣道部筆頭に格技系で名を馳せる学校であったし、どう考えても文系の委員長が新しい部活を……となれば、なんとなく難しいかもなぁというイメージがあった。その根拠は、公立という限られた予算から部活動費が下りにくいのではないかという点、バリバリの体育会系の柳が新設の窓口というのがまたいけない。

 文芸部あたりの新設だろうが、「そんなもの勝手に自宅で読めば宜しい。図書館もあるだろう」と一周される気配が満々である。

 そんな、勝手な、あくまでも勢花のイメージであった。


「いいでしょ部活。とにかく、自宅じゃ駄目なのよ。お父さんが反対していてね」

「お父さんが? ほんとに?」

「ええ」

「どんなお父さんなの、部活くらいいいじゃない」

「でしょう? でもね、だめなの。今日も朝すこし遣り合っちゃってね。前からいろいろいわれていたんだけど、学校だったら、ほら、邪魔されないし」

「委員長も大変なんだねえ」

「そうなのよ。部活の新設って面倒くさいのよね。ほんと。でも申請が通れば学校の施設の使用もできるし」

「ああ、それはあるかも。なかなかないものね」


 特に道場なんてその最たるものだろう。

 このときお互い同じものを頭に思い浮かべていたのだが、微妙に勢花との同期は取れていない模様である。


「委員長だったら大丈夫だよ、生活態度も真面目だし」

「あらそう? じゃあ、柳先生に口添えしてもらおうかしら、ふふふ」

「別に良いよ? ……しかし委員長が部活かあ」

「あなただって剣道部でしょう?」

「え? あ……」

「知ってるわよ。この一年、袴姿で竹刀を担いでるところとかけっこう見てるし――と」


 話の途中だが、職員室の前に到達。月旦は失礼しますと一声掛けて引き戸を開ける。中には各教科の職員がひしめいており、いかにも期末テスト初日という様相を呈している。穴が空くように落ち着いた雰囲気の一画は、一~三年のうち初日の教科を終えた担当の席だろうか、テストの回答用紙を封じたオレンジ色の封筒が重ねられている。


「戸田さん、柳先生はいらっしゃるかしら」

「ん、どれどれ~?」


 と、二人揃って職員室を覗き込もうとして――。


「こら、試験期間中、生徒の職員室への立ち入りは禁止されているぞ!」


 ハスキーな声でぴしゃりと言われ、勢花も月旦もはっとなって身構える。


「…………ん? どうしたお前たち、早く扉を閉めんか」

「委員長、あれあれ」


 勢花は月旦の袖をクイクイとしながら一喝した教師を指す。


「なるほど」


 月旦は頷き、真っ赤なジャージに身を包んだベリーショートの、屈強な女教師――柳をしっかりと認識し、職員室のドアをちゃんと閉める。


「こら、お前らが残ったままでどうする! 外に出て閉めろという意味だ」

「ども、柳先生」

「戸田、なにをしに来た。テスト期間中は出入禁止だ。早く帰って勉強しろ。お前はとにかく頭が悪いからな」

「がびーん! 松下先生ですね!?」

「担任の松下さんが私に愚痴を漏らすくらいの頭を恨め。で 用事は何だ、まったく」


 つかつかと歩き寄り、しっかりと彼女たちと職員室の間に立ちはだかり、各教師の机が伺えないようにガードしつつ、柳は勢花の頭をグリグリと拳で押し苛みながら、諦めた様子で聞く。


「わ、わたしじゃなくって、いいんちょ、いいんちょがッ」

「ん?」


 と、そこで柳は脇で控える月旦に気が付いた。気配を消していたわけではないが、努めて目立たぬように控えて居た彼女に、改めて柳はその存在に気が付いたかのように体を向け直す。


「お前は?」

「柳先生、テスト期間中に申し訳ありません。これを提出に来ました」

「提出? …………ほう」


 クリアファイルから透けている部活動新設申請書を見ると、柳は「なるほどな」と受け取り、中の書類をパラパラとめくる。


「これは、本気か? 辻」

「はい」


 ほうら来たぞ、と勢花は思った。文系の部活動を認めないわけではないが、この学校ではやんわりと断られるのではないかという想像は今も持っている。


「しかし、そうか。お前が『辻』の」

「……はい。祖父が亡くなってから。自己流ですが」


 と、ここに来て勢花は首を傾げる。

 自己流? 祖父?

 好奇心に負けて、提出書類から委員長――辻月旦の名前を知った柳の手元を盗み見――ようとして、ぴしゃりとおでこを指で弾かれる。


「あうっ! 柳先生ひどいよ」

「お黙り」


 クリアフォルダーに書類を入れ直し、もろとも腕を腰に回して休めの姿勢で、柳は月旦をじっと見る。


「もう一度聞くが。本気なの?」

「はい」

「……そうか」


 こくりと頷き、柳は次に勢花を見遣る。


「戸田」

「は、はい?」

「……お前も、『この部』に入るのか」


 その問いかけに、勢花は「?」と小首を傾げ、月旦もつられて小首を傾げる。


「そんな、戸田さんはもう剣道部に――」


 と、月旦が否定しようとしたそのとき。


「失礼します」


 職員室の扉が開かれた。

 やや小柄だがしっかりとした体つきの少女だった。


「あら、ドタ子じゃない」

「……毬谷さん」


 昨日、自分をクビにした剣道部次期・・副部長の姿に、勢花の体は鉛になったかのように重く固まる。その視線も伏せられ、口は食いしばるように真一文字に引き締まる。

 それを気にも留めずに、毬谷円佳は同じく書類をまとめたクリアファイルを柳へと差し出す。


「職員室は――」

「柳先生、これを出しにきただけです。すぐに退出しますわ」


 柳はポカンと口を開け「お前らは全く」と溜息混じりにそれを受け取る。見るまでもなく、来年度の剣道部名簿である。「部長は東郷重美、副部長は――毬谷円佳。ふむ」


 そして何枚かめくりながら、確認する。

 ちらりと勢花を見る柳の視線に気付き、円佳はクスリと笑う。


「本当だったのか」


 柳の言葉に、勢花の体がビクリと跳ねる。

 いままで内に澱となっていた屈辱が、決して溶け得ぬ砂のように心の水面に巻き上がってくる。


「……なるほど」


 柳は剣道部員の名簿に戸田勢花の名前が消えているのを確認し、それをしまう。月旦が持ってきた書類と同じように後ろ手に、ひとつ頷く。


「名簿は試験明けでもいいんだぞ? こんなものはどうせ生徒会に右から左に流すだけなんだからな」

「決まったものは早めに渡したいですし」


 昨日、邪魔者――勢花をクビにしてから……いや、クビにすることを決めたときから作っていたのだろうそれを、学校側に提出することで確固たるものにしたかったのが、ありありと分かる態度だった。

 この場で勢花に会ったのは意外だったが、もはや彼女にとって文字通り眼中にないのだ。特に態度を取り繕うことは毛頭ないにしろ、肝が据わっているものだと、柳は顛末の何かを看破した。

 とにもかくにも、これが提出された以上、来年度からの部長である東郷重美も知っているということだろうか。


「わかった」


 そこまで考え、柳は首肯した。


「それでは」


 柳に一礼し踵を返す円佳。しかし、その途中でもういちど勢花の耳元で「じゃあね、ドタ子」と囁くことを忘れてはいない。


 そんな円佳の姿が消え、遣り取りを黙って聞いていた月旦の鋭い目つきが幾分和らぐ。


「お前らも、はやく帰れ」


 柳が落ち着いた声色で聡し、退出を促す。

 勢花の背中を押すようにして廊下へと出ると、柳は大きく息を吸い、静かに吐き出す。未だ沈痛の面持ちの勢花の心中を慮るや、さすがの柳も同情を禁じ得ない。勢花は自分から投げ出したわけではないのだ。


「戸田――」


 柳が勢花の肩に手を伸ばしかけたときだ。


「今のは剣道部の毬谷円佳さんでしたね」


 月旦は、静かに呟く。


「戸田さん、『ドタ子』って何? 何があったの?」

「何でもない」


 否定する勢花に、月旦の顔は険を増す。彼女に、ではない。彼女に何事かを囁いた毬谷円佳に対しての何かしらの気持ちが表れている。

 毬谷円佳の姿を探しても、すでに階下だろうか、見当たらない。

 月旦は柳に頭を下げる。


「では先生、よろしくお願いします」


 今の自分には何もできないと察し、月旦はいったん引き下がることを決めた。

 しかし、それを伺う柳は受け答えに交えてあるきっかけを投げ入れた。


「わかった。『剣術部・・・』の申請、通しておこう」


 その言葉に、勢花の肩がピクリと震える。


「え?」


 柳はニヤリと笑う。


「ああ、剣術部だ」


 そのとき、微かに朝の光景が繋がる。

 あの思わせぶりに見せられた、刀の柄。

 勝手に文系の部活動と思っていた勢花は、改めて月旦に向き直る。

 視線を受けて彼女は頷く。


「興味、ある?」


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