第2話『ドタ子とタン子(2)』(連続33話)


   *月旦の事情*



「お前、またそんな物を持ちだして」


 朝である。

 辻家の長女である月旦つきあは、仏間から祖父の形見である刀を手にした瞬間、待ち構えたように言う父の言葉に振り返った。


「お父さん、おはようございます」

「おはよう。――じゃない、月旦、ちょっとこっちに来なさい。話がある。……刀は置いておきなさい」


 セーラー服姿。

 登校の準備を整えた彼女は、疲れたような父の言葉に、抱えるように抱きしめていた鞘ごめの刀を、祖父の仏壇の脇にある床の間へと置いた。

 何度目のお小言だろうか。

 月旦の端正な顔がしかめられる。


「おはよう、お母さん」

「おはよう。ご飯ができているわよ」

「はい」


 父は先に済ませた様子で、読んでいたと思われる朝刊を脇に、愛用の湯飲みでお茶を飲んでいる。月旦が席に着くと、娘の顔をちらりと伺うが、自然に伏せて湯飲みを傾ける。

 それを「話はあとだ」というサインと受け取り、月旦は箸を手に取る。


「いただきます」

「はいどうぞ~」


 母が応えると、脂を沸かせた焼きたての秋刀魚の開きが置かれる。

 味海苔でご飯を巻いて、ひとくち。次いで焼きたての魚から骨を除こうと手を伸ばした矢先、父が口を開く。


「この春から、二年生になるんだ。いつまでもチャンバラごっこの、そのまたマネゴトなんか、もうやめなさい。あれは本当に危ない刃物で、玩具じゃないんだぞ」


 咀嚼中に口を開く粗相に気を取られるこの瞬間を見計らっての、声がけだった。

 月旦は父の言葉の間中、ご飯を飲み込むまで我慢してから口を開く。


「チャンバラごっこではないわ」

「月旦、ここで道場を開いていた義祖父おじいちゃんのことを忘れろとは言うつもりはない。しかしな、なにも女の子がチャンバラなんて、なあ」

「チャンバラじゃないわ」

「……どっちでもいいっ」


 多少いらつき始めた父の物言いに、月旦の目がスっと細められる。

 据わる、というやつだ。

 その視線に、父もマズいことをしたと改める。こうならないようにしたつもりなのだが、どうにも上手くいかないようだった。


「母さんからも何とかいってあげてくれ」

「あらあら」


 自分のお茶を煎れた母が、席に着く。湯飲みを手にしたまま、じっと娘と夫の顔を見据える。


「お母さんね、月旦の好きにしても良いと思うのよ」

「母さん……」


 味方に裏切られた情けない顔で父はため息をつく。


「だってあの刀は、遺言で月旦に渡したものだし、お祖父ちゃんだってソレを望んでいたはずよ? さすがに辻流を継げとは言ってなかったけど、お祖父ちゃん子だった月旦と、孫馬鹿のお祖父ちゃんだったし。それにあなた、月旦が中学に入るまで神社や家族を放っておいて、私たちがどれだけ――」

「母さん、今はそんな話は……」

「そんな? そもそもですね――」


 旗色が悪くなり、父は母からの追求にせまられる始末。

 月旦は食事を再開しながら、思いを馳せる。


「とにかくだ」


 話を切り上げんと、父が強めにいって立ち上がる。


「チャンバラごっこは、やめなさい。いいね? 道場はもう畳んでるし、お前は神社の娘なんだから」


 月旦の返事があることを期待した物言いではなかったのは、そそくさと自室に戻っていく姿から伺えた。


「お父さんはね、心配しているのよ? 月旦」

「うん、それは分かってる」


 厳しい顔つきが、一気に垂れる。


「事情があるにしても、女の子が真剣かたなを振り回してるのは、やっぱり心配なのよ、親としては」

「振り回してはいない……わよ?」

「術理のことじゃないの」


 ぴしゃりと言われて月旦の箸が止まるが、母は食べなさいと促す。


「お母さん、お祖父ちゃんからそっちのことはあまり教わらなかったからわからないけど、どこかの道場に通って修めるとか、剣道部に入るとかあると思うのよ」


 そんな母の言葉の端々に、徐々に目が据わり箸の動きも大きくなる。


「ひとりで、お祖父ちゃんの手帳を見ながらなんて、あたしとても心配で」

「駄目」


 ごくりと全てを平らげて、箸を置く。


「駄目なのよ、他の道場じゃ」


 ぬるくなったお茶を飲み、立ち上がる。


「ごちそうさま。……学校に行ってきます」

「……はい」


 それでも、母はにっこりと笑う。

 仏間に向かう娘の後ろ姿を目で送り、困ったように首を傾げる。


「ほんと、頑固なところもお祖父ちゃんそっくりなんだから」





 早々に食事を切り上げた月旦は、仏間に置いた刀のもとに戻ると、溜息混じりで正座をし、祖父の遺影に手を合わせる。

 神社の息子のところに、となりの剣術道場の娘が嫁いできた。それが月旦の両親だ。実のところ、神社の方も亡くなった父の兄、伯父が継ぐはずであったが、その逝去に伴い、会社の景気も悪く出張などを繰り返していた父は転職を期に、実家を継いだ。

 母は、もとよりその当時から門弟もほとんどいない道場だったこともあり、普通のOLをしていたらしい。母が中学生のときに祖母が亡くなったらしく、そのあたりから祖父は全く他人に何かを教えることが嫌になったと聞いたことがある。生活が成り立ってたのが不思議なくらいで、どうやら月旦も知らない謎の遺産があったらしく、ただただ己の研鑽しかしない祖父だった。


 月旦は祖父の遺影に写る、その平々凡々とした、ややふっくらとした顔の好々爺の顔をじっと脳裏に焼き付ける。目を閉じれば、それよりもやや若い、溌剌とした祖父の顔が思い出される。


 江戸弁の残る祖父の、「なっちゃいねえ」という口癖が耳に甦る。

 目を開くと、亡くなる直前に自分と撮った写真から切り抜かれた、祖父の笑顔。遺影の中の祖父は、あのときと同じままだった。

 神職を継ぐ前の父は忙しく家を空けがちで、母も仕事を続けていたせいもあり、月旦は祖父である光太郎こうたろうに預けられることが多かった。預けるとは言っても、もとは隣同士、簡単な改築で二件は一件となって、同居のようなものだったから、預けられていたという感覚は月旦にはない。


 物心ついた頃から、祖父の亡くなる中学二年まで、べったりの祖父ッ子だったのだ。何をするにも、祖父と一緒で、何を教わるのも、祖父からだった。

 その祖父である光太郎が唯一、月旦に教えなかったのが、辻家に伝わる剣術である、辻流剣術だった。

 彼女は、庭先で刀を――真剣を振るう祖父の姿を思い出す。

 綺麗な動きだった。

 あの動きを見ているだけで楽しかった。

 自分でもやりたいと思い、幾度となく教えを請うたこともあったが、やんわりと「大きくなってからな」とその都度、断られた。


「ふぅ」とひと息つき、月旦は刀を手に立ち上がる。

 竹刀や刀の運搬に使う、革製のケースに入れて担ぎ、鞄を手に取る。

 廊下に出ると、玄関に向かう背に、母から声を掛けられる。


「月旦」

「お母さん?」


 その手にはお弁当である。彼女から弁当を受け取ると、月旦はありがとうと一言、鞄にしまう。


「お父さん、社務所のほうよ」


 月旦の顔がしかめられる。

 あの物言いのあとに、刀を担いでいるところを見られると、また何か言われるだろう。母の心配は、そこにある様子だった。


「神社の方から行くわ」

「ふふ、そうね」


 社務所の奥からは、神社拝殿はいでんのほうまでは見えない。

「道場によってから、学校に行きます」

「はい、行ってらっしゃい」

「……行ってきます」


 ローファーを履き、玄関を後にする月旦。

 この日、たまたま、いつもの時間に父の目から逃れるために道場までの道を変えた。

 このたまたまが、彼女の運命を大きく変えようとは、彼女も、彼女の母も、知るよしもなかった。


   2


 向陽高校。

 住宅街の外れにあるも、最寄りの地下鉄や私鉄からのアクセスも良く、多くは自転車通学をしている、いわゆる公立の女子校である。

 時節柄、周囲を覆う柵こそ頑丈で高く物々しいが、耐震工事を終えたばかりの校舎は白く眩しいほどであった。

 正門の門扉はスライドされ、開け放たれたそこには生徒会役員と生活指導の教諭、それに警備員が二名という物々しさである。


「おはようございまーす」


 遠くからも聞こえる生徒会役員たちの挨拶。


「そっか、こんな時間だと、もう週番活動があるのかぁ」


 結局、朝のマラソンをこなした勢花は、自宅でしこたま朝食を摂ったあと、神社で会ったクラスメイトのことを考えながら普通の登校時間に家を出ることにしたのだった。

 朝練に行かなくてもよいという、決して軽くはない疎外感を感じてはいたのだが、朝のあの一件以来、どことなく喉元過ぎた感じがする勢花であった。

 愛用のスニーカーで、大股にのしのしと通学路を進み、そうそうたる出迎えの挨拶に、「おはようございます」と会釈しながら門を潜る。


「おはよう戸田」


 が、その背中にハスキーな声が掛けられる。

 振り向くと、ベリーショートに髪を整えた、真っ赤なジャージ姿の教師――生活指導教諭の柳である。


「柳先生、おはようございます」

「ん」


 勢花も姿勢を正し、挨拶を改める。


「今日はどうしたんだ? こんな時間に。午後はないが、朝はあるだろう」

「ああ、それはですね……」


 柳は生活指導という睨みを利かせる役割に似合う、柔道部の顧問教師でもあった。剣道部員である――剣道部員であった勢花が、朝練に顔を出さずにこの時間に登校してきたのを不審に思っての声がけだった。

 部活のサボりは許さぬタイプの堅物だが、勢花の真面目さもこの一年、部は違えど見てきた女である。決めつけることなく、小首を傾げて問う。

 下手な言い訳なら許さぬところであったが、柳の予想を超える返事が返ってくる。


「クビになりました」


 これには、さすがの柳も目を丸くした。


「クビ……?」


 柳の言葉に頷く勢花。

 思い出したのか、さすがに表情が曇る。


「向陽高校剣道部には、相応しくないとのことです。わたし」

「…………」


 スッ……と丸くなった目が細められる。

 組んでいた腕も、だらりと垂らされる。自然体だ。


「顧問の先生の判断か? それに、副部長の東郷はなんと言っている」


 部をクビになるという、部をクビにするという仕打ちについて、ことこの向陽高校剣道部という組織においては、有り得ることだと柳は得心した。


「東郷副部長……先輩は知っています」

「そうか」


 戸田勢花という生徒の、一年間の頑張りというものを少なからず知る柳は、やるせない表情で肩を落とした。

「柔道部に来るか?」と言いかけたが、柳はそれを飲み込んだ。彼女の部の生徒への手前もあるし、なにより彼女が目指していたものを考えると、おいそれと持ちかけられない話だったのだ。


「朝、少し走ってきたんですが――」


 勢花のその言葉を、柳は未練だとは思わなかった。


「体を動かすのは良いことだ。とくに戸田、お前は運動しなくなった途端に太るタイプだ。気を付けろよ」

「うっ」


 朝ご飯はしっかり二回おかわりしてきたのは覚えている。


「部活動がなくなるなら、そのあたり気を付けることだ」

「は、はい」

「それに加え、試験は、まあ頑張れ。担任を泣かせるなよ」

「は……はい……」


 期末試験初日と言うこともあり、生徒もどこかピリピリしている様子だ。


「ほんとに、頑張れよ」


 そう言うと、柳は門で睨みを利かせる仕事へと戻る。

 残された勢花は、自分の脇腹をつまみ、「いやいや」と首を振り、下駄箱へと向かう。

 しかし、こうして気持ちを意識的に切り替えるまでもなく、頭に思い浮かぶのはクラス委員の辻のことだ。

 辻月旦、彼女は結局、思い詰めた顔のまま多くを語らず、神社の奥へと姿を消した。勢花はその背中を見送るしかなかった。


「あの刀……なんだったんだろう」


 骨董品? 質屋でもやっているのだろうか。

 靴を履き替え、上履きで二階へと上がる。

 渡り廊下を過ぎ、左手へ。通い慣れた教室に入る前に、ふと格技棟へと目を落とす。いつもはこのくらいの時間に、朝練の汗を拭いながら、あっちから来るんだと、独りごちる。

 そのまま廊下に備え付けられたロッカーから、今日のテスト教科である数学と英語、古文の教科書を取り出す。


数学すーがくッ」


 顔が歪む。


英語えーごッ」


 肩が落ちる。


「古文ッ」


 項垂れる。

 全く自信がなかった。

 体を動かすことにかけては、この一年余り慣れてはいたが、勉強の方はからっきしだった。

 赤点を免れれば御の字。進級も危うい状況であることは否めない。生活態度や、それでも仕上げてくる一夜漬け・直前詰め込みのおかげとも言える。


「んあああああああああああ」


 情けないため息をつきながら教室に入ると、早くもクラスメイトたちがグループを作って試験前の確認をし合っているところであった。中には勢花どうよう試験前から項垂れているものも多く、彼女らも彼女らで傷口を舐め合うように教科書片手に試験範囲を通読している。


「おぁよー」


 打ちひしがれた勢花の気の抜けた思い挨拶にクラスメイトの数人が応えると、彼女は自分の席にどっかと腰を下ろし天井を仰ぐ。


「あ~」


 やる気が湧く前に無力感に苛まされる。

 とにかく、テスト範囲の通読と、要点のチェックだった。それで赤点は回避する。これしかない。


「……………………」


 そんな天を仰ぐ彼女の横顔をちらりと伺う少女がいた。


「………………?」


 小首を傾げるのは、辻月旦である。

 彼女はあのあと思わせぶりに道場へと引っ込み、一通りのかたをこなしたあとに登校したのだ。

 彼女にしてみれば、あの思わせぶりな刀のチラ見せがあれば登校してきた勢花が何かしらの問いかけをしてくるかと思ったのだが、とうの勢花は教科書を机に天井を仰ぎ、情けない顔と声で悶々としているのみである。

 入学したての頃から他人にあまり興味を抱かなかった月旦だったが、この剣道部員の少女だけは気になっていた。自分から声を掛けることはなかったが、同じ剣を修める者として気になっていたのだ。


「やっぱり、勉強は苦手なのかな」


 口にこそ出さなかったが、興味は更にそそられた。

 気が付くと、勢花は机と向き合い物凄い集中力で教科書とノートを睨み付けていた。声を掛けるのは躊躇われる。


「ま、いいか」


 話す機会はまだあるだろう。

 月旦は勢花から意識を戻し、教科書を眺め直す。月旦は別段焦りも見せずに落ち着いた様子だ。彼女は、成績は良いのである。

 そうこうしているうちに予鈴が鳴る。

 ついに、期末テスト初日が始まった。

 勢花は絶望の表情で。

 月旦はしかし、そんな彼女を見て小首をもう一度傾げる。


「面白い子」


 少し声に出して、彼女もテスト準備をするのであった。

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