雪月花 女子高生剣術物語

西紀貫之

雪月花 女子高生剣術物語

ドタ子とタン子

第1話『ドタ子とタン子(1)』(連続33話)


「ことここに至っては、やることはひとつね」


 十七歳の誕生日も近い少女は、女子更衣室のロッカーの前で、汗が滲むうなじを掻き上げるように、腰までの長い黒髪をポニーテイルにまとめる。年相応とは思えない黒い下着の上下という姿で、仁王立ちに姿勢を正すと、フンとばかりに鼻を鳴らす。


「自分の真処マンナカを、相手の真処マンナカに打ち込むのみ……ね」


 もうひとりの少女が、同じような黒い下着姿で腕を組み、首をぶるんと振るいショートボブの髪を打ち鳴らす。同じくフンと鼻を鳴らし、汗ばんだ下肢に、愛用のスパッツをはき始める。

 ポニーテイルの少女の名前は、つじ月旦つきあ。すらりとした笹葉を思わせる。

 ショートボブの少女の名前は、戸田とだ勢花せいか。重心の据わった樹木を思わせる。

 勢花がそうしたように月旦もスパッツを穿き、これもまた大人びたキャミソールに腕を通す。これもまた黒い。

 薄手のキャミソールから透ける肌が、やや上気している。


「緊張している? なんて、聞く方が野暮か」


 それでも聞く月旦。

 真一文字に口を引き締めた勢花が受け、そこでお互いがお互いを伺うように、見つめ合う。

 月旦は勢花の肩や腕に刻まれた、隠せぬ赤黒い痣に目を落とす。

 何度も打ち据えられて付けられたものだ。

 勢花も月旦の肩や腕に刻まれた、隠せぬ赤黒い痣に目を落とす。

 そう、何度も打ち据えられて付けられたものだ。

 お互いが、お互いに。

 防具の上からとはいえ、容赦なく、打ち据えたきずあと


「大丈夫よ、月ちゃん。わたし、絶対に揺れないから」


 微笑む勢花。

 そのまま、やや震えぎみの月旦の肩を抱き寄せ、そのまま彼女の頭をかき抱く。

 彼女よりやや背が高い月旦は、中腰の状態で勢花の胸の谷間に顔をうずめる。月旦は嫌がりもせず、勢花の汗の香りと優しい温かさ、そして規則正しくも力強い鼓動に目を閉じる。


「ね? 落ち着いてるでしょう」

「……うん」


 月旦は勢花の背中に手を回し、しっかりと抱きしめる。

 落ち着くまで十秒と少し。


「うん」


 月旦はようやく顔を上げる。勢花も微笑み、彼女も照れくさそうに笑う。


「花ちゃん、わたしも揺れたりしない。もう、大丈夫」

「うん」


 ふたりはロッカーからセーラー服を取り出し、身に付ける。

 この学校の生徒が、みな身に着ける制服である。袖を通し、脇のジッパーを上げ、襟を正し、スカーフを整える。

 スカートを穿き、ややきつめに締める。

 ここまでだと、これから下校する少女であろうかと思うところだが、少し様子が違う。

 お互い、八尺あまりの長さの黒帯を腰に巻き始める。へそで合わせ、腰に回し、もう一度回し、へその下で長さを整えてパシンと締める。

 両端に四文字ずつ刺繍された朱色の漢詩が揺れる。

 沈魚落雁ちんぎょらくがん――魚も沈み、鳥も落ちる。

 閉月羞花へいげつしゅうか――月も隠れ、花も羞じらう。

 生命力溢れる美女を讃える詩である。


「よし、いこう! 花ちゃん!」

「うん、やるよ! 月ちゃん!」


 ふたりはロッカーに立てかけてある刀に手を掛ける。

 刃を上に、腰に佩く。鍔は高く、臍のやや前である。

 セーラー服姿に漢詩の居合い帯、刀を腰に、足下は裸足である。

 異様な風体に気迫を漲らせ、ふたりは廊下へと出る。

 目指すは格技棟、剣道部が待ち受ける道場『求道館ぐどうかん』である。

 待ち構える相手との対決を前に、踏み出す一歩は力強いものであった。

 そして彼女は思い出す。

 それぞれの想いでここを目指したときのことを。




   *勢花の事情*


「え? あたし、クビですか」


 戸田勢花が一年間続けた剣道部から退部クビを迫られたのは、学年末試験期間に入る最後の練習のあとだった。


「進歩もない、見込みがない、ぞんな生徒が二年生になったら、新しく入る後輩に示しが付かないでしょう?」


 更衣室に勢花を残し、着替え終わった彼女にそう言うのは、剣道部の毬谷まりや円佳まどかである。円佳は入り口近くで腕を組み、仁王立ちである。見据える目は厳しく、切れ長のそれが剣呑に細められている。


「でもあたし、剣道が好きだし、練習だって――」

「剣を振るなら、部じゃなくても良いでしょう? 今年、上達試験に通らなかったのはあなただけ。別にいじめてるわけじゃないのよ。分かるわよね」

「…………」


 食い下がる勢花の言葉を遮るように、円佳は一歩詰め寄りながら言う。ベンチをふたつほど挟んでいるが、その威圧感に勢花は一歩後じさり、下を向いて口を噤んでしまった。


「向陽高校」


 円佳は、彼女たちの通う高校の名前を呟く。

 その呟きに込められた意味は、大きい。それ故に、勢花には彼女の言う意味がありありと伝わっている。

 都立向陽女子高等学校と言えば、格技を含む運動系部活動の中でも、公立の高校でありながら近年名を上げている強豪である。とりわけ剣道部に於いては学区の中でも古豪として知られ、多くの女剣士を輩出した名門であった。

 名門ゆえに、部員も多い。

 小さい頃から道場などで修練している剣士もいれば、中学高校と続けて剣道を嗜む者も多い。

 町道場の一人娘である毬谷円佳は前者であるが、クビを言い渡された戸田勢花は、高校入学を機に剣道を始めた初心者であった。


「その剣道部に身を置くという意味は、分かるわよね」


 円佳は続ける。


「同じ一年生同士、今までは同じ立場だから言わなかったけれど、三年生も卒業し、四月からは私は副部長。これから東郷先輩と部を引っ張っていかなければならないの。だから、ね」


 諭すような円佳の言葉に、勢花は唇を噛んだ。


「東郷先輩……東郷部長には私から言っておくわ」

「あのっ」


 顔を上げる勢花。唇には血が滲み、それ以上に涙がこぼれ落ちている。


「あのっ……あ、あたし……」

「学校見学のときに来た子がいたでしょう? 五人とも、私の道場の子なの」

「…………」


 言葉尻の自信は、勢花よりも腕が勝る新入生のことを思ってだろうか。


「せめて、みっともない動きが直っていればね」

「そんな」

「二年に上がったら、防具を一式揃えなければならないのは知っているわよね。あなたに防具を身に着ける資格はあるのかしら。ねえ、ドタ子・・・


 一年生は、たとえ経験者であっても、部活動での防具着用は認められなかった。徹底的に基礎と素振りと、相手稽古が義務であった。晴れて二年へと進級した暁に、やっと防具を着けての練習ができるようになるのだ。

 その瞬間を、勢花は楽しみにしてきたのだ。

 しかし、彼女は基礎体力こそ人並み以上に付いたのだが、持ち前の鈍臭さからか、体捌きの方はさっぱりであった。

 そこを指摘されているのだ。


「部活動は義務ではないわ。それに、剣道部を辞めても、決して恥ではないわ」

「恥……」

「足手まといは、いらないの。きつい言い方になってしまうけれど、無駄に高いお金を出してまで続けることもないでしょう? 今しかないの、私たちは」

「と、東郷先輩は……」


 絞り出すような呟きには、次期部長の東郷とうごう重美しげみが、同じように自分を落伍者扱いにしているのかを問うものだったが、円佳はやや違う返しを口にする。


「先輩は次が最後。夏の全日本女子が最後なのよ」


 勢花は無言でうつむく。


「あなたに構ってる時間はないの。お願いドタ子、私たちの邪魔をしないで」


 両腕を垂らし、言い含めるように見据える。


「ロッカーも足りなくなるわ。片付けておいて」


 円佳はそう言うと、口を真一文字に結び、踵を返す。


「じゃあね。お疲れさま」


 うつむく勢花には、彼女が去り、閉められる扉の音しか聞こえなかった。

 堪えきれず零れる涙は、止められなかった。

 堪えられるはずはなかった。

 全て、自分が悪いのは分かっていた。


「うぅ……」


 嗚咽がついに漏れる。

 誰もいなくなったせいだろうか、堪えていた心の堰が突き崩されたようだった。

 苦しかった思い出、楽しかった思い出、その全てが涙を通して溢れていく。

 堪えられるはずがなかった。

 洟をすすり、ひとしきり泣くと、窓の外はもう真っ暗であった。大寒を過ぎてこっち、しかしまだ日は短い。


「剣道、続けたかったな」


 ボロボロの顔のまま、勢花は綺麗に畳んだ袴を、道着を、かき抱く。

 顔を埋めながら、洟をすする。


「ロッカー、綺麗に片付けないとね」


 一年生用の小さいロッカーだった。テーピングや髪留め、傷薬や絆創膏。教本や写真、タオルに着替えと、一年間の思い出が詰まっていた。もともと、試験前で部活動も休みの期間に入るので、大きめのスポーツバッグを持ってきていたのが幸いした。それら全てを詰め込み、綺麗に水拭きし、一礼して閉める。立て掛けられている自分の竹刀を手にすると、ぎゅっと握りしめ、かき抱く。

 剣道部、その道場のロッカーで最後の仕事を終え、荷物を背負い、電気を消して去って行く。

 そして彼女は二度と、この部に帰ることはなかった。



 目覚ましの音を聞いた瞬間、いつものように飛び起きると、勢花はアラームを慣れた手つきで解除する。


「そっかぁ……」


 そのまま、毎朝五時に設定していたアラームを、躊躇った挙げ句に、設定そのものを解除した。


「もう早起きする必要なんてないんだったよね」


 そのまま力が抜けたように、溜息と共に枕へ顔を埋める。

 外から差し込む明かりは街灯のそれで、まだ真っ暗だ。

 そんななか、携帯の液晶から漏れる光がその頭を照らし出している。

 時間がやや経ち、照明の輝度が一段階おちると、彼女の頭はもぞりと蠢く。


「眠れない」


 画面がオフに切り替わる前に、二つ折りの携帯を折りたたみ、むくりと起き上がる。

 クビになった翌日の朝。

 結局、夜中じゅうグズっていたせいで、寝たのは明け方。その寝不足にも関わらず、肉体はいつものリズムで目が覚めてしまう。

 自主朝練習の時間に。

 毎朝、五時起き。自宅から街道沿いに五キロ離れた『五本欅』そばの神社まで往復マラソン。帰宅してシャワー、朝食、徒歩で登校が、いつもの彼女のリズムであった。

 蛍光灯の紐を引き、明かりを付ける。

 ベッドサイドの鏡に、泣きはらしたあとの野暮ったい目をした、乱れボブカットのげっそりとした顔が映っている。

 勢花であった。


「酷い顔」


 両手で頬を挟み込むように打ち、気合いを入れる。ムニムニともみほぐし血行に活を入れると、「良し!」と気合いを入れ直して、しかし「はぁ~……」と肩を落とす。

 走るか。

 走らないか。

 その、二択だった。


「どうする? 勢花」


 昨日のことを思い出す。

 来春からの副部長、毬谷円佳はこう言った。「剣を振るなら、部じゃなくとも良いだろう」と。部で剣を振ることを疎ましく思われても、朝のマラソンまで走るのを躊躇ためらってしまったら、なにかが終わるように感じていた。

 いつもより、二分遅く、初春の寒い室内にピンクのパジャマ姿で立ち上がる。


「走る」


 強い決意の表れか、パジャマを脱ぎ捨て、下着姿で深呼吸をする。

 気が引き締まる。

 板張りの道場は、もっと寒かったのを思い出す。

 厚手の靴下を穿き、少し汗臭いままのジャージを身に付け、明かりを落として部屋を出る。廊下はしんと冷たく、薄暗い。両親も弟も、まだ寝ている様子だった。

 そこもいつもと変わらない。

 階段を降りて、リビングを横目に玄関に降りる。


「おはよう、セイちゃん」


 気遣わしげに声を掛けてきたのは、母の京子であった。


「おはよう、お母さん。……起こしちゃった?」

「起きちゃったのよ。安普請だからね」


 四十を手前に控えた、まだ若い母であった。彼女が昨夜、目に見えて落ち込んでいた勢花が、食事もろくに摂らずに寝たのを気にとめていたのだ。眠りも浅かったのだろう。


「走ってくるね」

「そう。……気を付けてね」

「うん」


 スニーカーを履きながら答える勢花。ずいぶん履き古したそれを見ると、進級と共に買い換えようかと考えていたことを思い出す。


「行ってきます」


 カギを開け、ドアの向こうへと走り往く娘の背中を追うように、京子は心配そうにカーディガンを羽織り直す。

 いつもより、五分遅い日課。

 そんな勢花の五分遅れの日課が、彼女の運命を大きく変えようとは、彼女も、彼女の母も、知るよしもなかった。

 いつものマラソンコースだが、景色が違うな……と思った。

 空気そのものはいつもの味。走って五分もすれば、この陽気でも汗が滲む。吸って吐くリズムが熱を帯びてくると、頭もしっかりと動いてくる。そこで思ったのが、「景色が違う」だった。

 勢花の視界には、いつもは映らない人が映り、車が行き交い、そしていつもの街並みが広がっている。

 なぜ走っているのかという問いそのものは考えず、いつもの自分を取り戻すためだけに、いつもの生活リズムに乗ってみようという、彼女なりに考えた結果に過ぎない。

 息も上がりつつあり、いつもの道を、違う見え方のまま、走る。

 赤信号では腿上げの足踏みでドタドタと青を待ち、青になると車に気を付けて走り出す。耳からも、雑音が消えていく。いつもの自分だ。

 走ってる間は、考えるまでもなく、自分であることを意識できた。

 公園の時計を見る。毎度見上げる時計は、五分進んでいる。いつもと同じペース。いつもはかなり先で通り過ぎる作業服のおじさんとすれ違うとき、彼が小首を傾げて腕時計を見るのをおかしく感じる余裕が出ると、朝方の悩みの多くも遠くなる気分だった。

 街道を逸れて左に入ると、折り返し地点。

 南に鳥居を構えた神社が見えてくる。

 この階段を上り、境内で息を整えながら、神前に手を合わせてから戻るのがいつもの日課であった。

 ――ここは、今日も同じ景色だ。

 勢花は鳥居を潜りながら、石段を駆け上る。両足に溜まる心地好い疲労は、神社の清廉な空気を吸うごとにピークを迎えつつある。


「着いた~!」


 石段の最終段を蹴るように上りきり、手水舎の前までクールダウンしながら小走り、そして歩き、足を止める。

 深呼吸しながら、体中の筋という筋を伸ばし始める。

 このストレッチは、念入りに十分ほど続けられるのだが、石段のそばで前屈をしているときに、ふと、玉砂利を踏む音が聞こえた気がした。


「あら」

「え?」


 声を掛けられ、勢花は前屈の姿勢のまま、ふと顔を上げる。

 見覚えのある姿だった。

 取り立てて見どころのない地味なセーラー服姿は、彼女も通う向陽高校のものだったからだ。しかも、その制服少女の顔は、勢花も知る、同じクラスの――。


「委員長」

「戸田さんじゃないの」


 お互いがお互いを認識した瞬間だった。


「おはよう、戸田さん。あなた近所に住んでたの?」


 小首を傾げて尋ねる『委員長』。

 勢花はポカンとする間に、この美しいロングヘアーをポニーテイルにまとめている、つり目がちの如何にもなお嬢さまの名前を思い出す。


「おはよう委員長。……ええと、あの、朝練?」

「なぜ半疑問系なのかしら」


 名前を思い出しても、口から出てきたのは「委員長」である。勢花はさすがに苦笑混じりに愛想笑いを浮かべた。その笑顔の推移に、委員長は眉根を寄せて訝しむ。


「いつも朝練で、ここまで走ってきてるの。……委員長は近所なの?」

「近所も近所、この神社――の裏が、私の家なの」

「え、ということはここ、いいんちょン家?」

「そういうことになるわね」


 こくこくと頷く委員長に、勢花は「へ~」と間が抜けた声を出し、ようやっとそこで前屈顔上げの態勢を直し、佇立したまま大きく深呼吸をする。


「しかし、朝練? 体力作りは大事よね。たしか戸田さんは、剣道部だったわよね。これから学校に行ってから、部活の朝練になるのかしら」

「ん、でも……」


 言いよどむ勢花の間を、委員長は違う意味合いで悟った。


「ああ、部活動禁止だったっけ。試験期間中だものね。いや、それでも朝練だけはあるんだったっけ?」

「え、ええ」


 そこで勢花は、いつも来ていた神社がクラスメイトの実家であると知った驚きと相まって、あまり話さないクラス委員長の辻月旦の姿をまじまじと見た。

 綺麗な子だった。

 ポニーテイルにつり目はいかにもお嬢さまだし、肌も白い。着こなしているセーラー服のラインは美しく、腰も細く、腰も張ってる。いかにもな、美人だった。


「あら?」


 そこで気が付く。


「辻さん……それなあに?」

「ん?」


 委員長は、勢花の視線が自分の後ろに注がれているのを知ると、「ああ」と言いながら笑う。それは彼女の肩に担がれた、黒く、細長い鞄――というよりケースであった。


「気になる?」


 その表情が、勢花の記憶にある彼女の楚々とした表情とは違う、親しみのあるいたずらっ気満載の表情でビックリした。こんな顔もできるのかと失礼なことを考えながらも、彼女の担ぐそのケースに勢花の興味はそそられたのだ。


「さすが剣道部ね」


 と、思わせぶりな物言いで委員長はソレを肩から下ろし、彼女の前に差し出す。


「どうぞ、いいわよ」


 とあっけにとられながらも、勢花はそのケースを受け取った。両手で押し頂くように見ると、どうやら中身はずっしりと重い、細長い何かが入っているらしい。チャックの着いた上の部分を開いて取り出すらしいが、その手応えに彼女自身思い至る物があって声を漏らす。

 一度、「いいの?」というような顔で伺いを立てると、委員長は「どうぞ」と背中を押す。

 ケースを持ち替え、チャックを開く。


「竹刀じゃ……ない」

「竹刀じゃないわね」


 勢花の目には、くろがね色の金属。組み紐が巻き付くソレは、明らかに刀の柄であった。

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