第30話

―怖い、怖い、助けて!


 誰か入ってきた。ガチャガチャと床を踏みしめて誰かがこっちに近付いてくる。

 叫ぼうとした声が喉に貼り付いて、悲鳴も出ない。悪夢の中でもがくように手足も上手く動かせない。薄暗がりの中、黒い影がゆらめき僕に近付いてくる。

『ヨウ?ヨウ!?どうしたの!?』

 受話器の向こうから叫ぶようなお母さんの声が聞こえてきても怖くて声が出ない。


「やっと2人きりになれたね…」

 粘ついた声が耳に絡みつく。顔は陰になっていて見えないけど、大人の男のようだ。震える僕に手を伸ばしながら、男はブツブツと呟いた。

「ずっと1人になるの待ってたんだ。ボクを誘っていたくせになんでいつも他の奴と一緒なの。恥ずかしかったの?可愛いね。そうだよね、キミはすぐ恥ずかしがって赤くなるもんね」

「…だれ…?」


―こんな奴知らない。気持ち悪い!


 思わず受話器を取り落とし通話が切れてしまった。後退りながらようやく出た声は掠れていて、男の話す言葉の異常さに吐き気がこみ上げる。

「昼間もあいつと一緒にいたね。浮気は駄目だよ。プールでもあいつとベタベタしてさ。悪い子にはお仕置きだよ」


―プール?プールって…あの時の男!?


 男が更に近付いて手を伸ばした瞬間、外で稲妻が走り、明かり採りの窓から射し込んだ光がその手と顔を照らし出した。

 黒い指なしの革手袋と昼間ぶつかってきた中年男の顔が網膜に焼きつく。


―あの時怒鳴っていた男!


「い…や」

「おいで」

 生温かい手に腕を掴まれ鳥肌が立つ。もう足腰も立たなくて必死で上半身をよじったけど、やけに力の強い男の手からは逃げる事ができない。ハアハアと荒い息遣いが耳元に迫り、雨に濡れた生臭い臭いが身体に迫った。


―怖い、怖い、怖い!!!!


「ヨウ!?着いたよ、開けて!」

 その時玄関の外でオミの声がした。力強い声に力を得た僕は頭を打ちふるいながら必死で声を絞り出す。

「助けて!助けて、オミ!!」

「誰かいるの!?鍵開けて!」

 しかし震えながら背にしたドアの鍵を開けようと伸ばした手を男に掴まれる。

「駄目だよ」

「ヨウ!?ヨウ!!」

 オミがドアをガチャガチャさせているのが聞こえたけど、奇妙なくらい冷静な男はそのまま僕を引きずって歩き始めた。暴れる僕にも構わず、男はブツブツ言いながら玄関から続く2階への階段を登ろうとする。

「ヤダ!!!離して!!!」

 僕は震えて力の入らない片手で必死に手すりに掴まり抵抗した。男は苛立ったように僕の指を引き剥がす。引きずられ階段の床板にガタガタと身体を打ちつけられ、何をされるか分からない恐怖に半ば意識が薄れかけた。


 不意に前方でガシャーンと何かが砕ける大きな音が響いた。頭上に破片が降り注ぎ、手首を握る力が緩む。支えを失った僕の身体は階段からずるずると滑り落ちる。

「ヨウ!」

 雨に濡れた腕に抱きとめられ温かい胸にしっかりと包まれる。朦朧としながら見上げると、オミが蒼白な顔で見下ろしていた。

「ヨウ…ヨウ」

 まるでそれ以外の言葉を知らないように囁きながら僕を抱き締める。押し当てられたオミの胸から早い鼓動が伝わってくる。その確かな響きに心底安心したけれど、未だ起きた事に現実味もなく興奮状態で頭がふわふわする。

「あいつは…?」

 やっとの思いで声を絞り出し、階段の上を見上げると、男はその半ばほどで気絶していた。周りに分厚い破片が散乱しているのを見ると、オミはうちの花瓶を投げたらしい。

「もう大丈夫、無事で良かった」

 オミは僕のおでこに唇を押し付け、はあ、と長い溜息をついた。


―結構重たい陶器の花瓶をあんな上まで投げるとは。


「さすがバレー部……」

「もう、ほんっとお前って…感心すんのそこなの!?」

 オミは呆れたように眉をつり上げ、僕をぎゅうぎゅう抱きしめた。身体が震えている。息が弾んで髪も服もずぶ濡れで靴も履いたままだ。電話を切ってからどれだけ急いで走ってきてくれたのだろう。雨音に混じり、遠くからサイレンの音が聞こえ始め、安堵した僕は全身から力が抜けて行くのを感じた。

「ごめん…」

「欠片当たった?怪我はない?」

 階段を背にして座り、膝の間に置いた僕の顔を確かめるようにペタペタと触るオミに大丈夫だと言おうとした時。

 彼の背後でゆらりと立ち上がった男が眼を血走らせ頭から血を流しながらこっちに向かってきた。鬼気迫る歪んだ形相を稲光が照らし出し、オミは咄嗟に僕を庇うように抱き締めた。

「きゃああああ!!」


 同時に玄関のドアが開き、僕が叫んだ瞬間、背後の男目掛けて黒い物体が飛んでいった。ドスッと重そうな音を立てて男の腹にめり込んだ物体は小型の旅行用キャリーケースだった。男は声もあげずに身体を折り、ケースと共に僕とオミの横に転げ落ちてきた。

「詰めが甘ーーい!!」

 振り向くとパトカーの赤いランプをバックに、長い髪を風に靡かせたハナが勝利の女神ジャンヌ・ダルクのように立っているのが見えた。


―前にもこんな光景見たことある…いつだっけ…。


 思い出そうとしたけれど、極限まで緊張を強いられた僕の頭は考える事を放棄し、意識は暗闇に吸い込まれていった。

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