第31話
ムクドリを追いかけるハナを追いかけていた。必死で走るけれど、足の遅い僕は彼女に追いつけない。
もうすぐ暗くなるし、早く家に帰らないとお母さんも心配する。ハナは何かに夢中になると僕のことを忘れて駆け出して行ってしまう。
『まって、ハナちゃん』
幼い僕は半分泣きながら声をかけたけど、彼女の背中はどんどん小さくなる。背負ったランドセルが重くて立ち止まる。息を整えていると、知らないおじさんが話しかけてきた。
『お嬢ちゃん、ちょっと道を教えてくれない?』
知らない人に話しかけられても答えてはいけません。人には親切にしましょう。
学校の先生が言った言葉のどっちを選んで良いのか分からずに、困った様子の優しそうなおじさんに交番の場所を教える事にした。
気がついたらひと気のない路地の突き当りでおじさんが僕を抱き締めていた。荒い息遣いで『可愛い、可愛い』と言いながら、大きな手が身体中を這い回り、服の中に手を入れられる。僕は怖くて気持ち悪くて泣きながらハナを呼んだ。
『ハナちゃん…ハナ…』
頼もしい幼馴染みは僕が泣いているといつも駆けつけてくれる。永遠にも感じられる苦痛と恐怖の中で朦朧とする僕の眼の前が急に開けた。
顔中に黒っぽい返り血を浴びたハナが肩で息を切らせながら腕を振り上げている。怖いはずなのに彼女の顔を見たら安心して力が抜けた。
『ごめんね』と何度も言いながら抱き締める細い腕に縋り、僕の意識は遠のいた。
『もう大丈夫』何度も囁きながら抱き締める腕は硬く、いつの間にかそれはオミのものに変わっていた。
眼を覚ましたら病院のベッドの上だった。お父さんとお母さんが泣きながら僕の顔を覗き込んでいる。起き上がろうとしたら脇腹が痛む。階段で引きずられた時に打ったみたいだ。
「ヨウちゃん!」
泣いているお母さんごとお父さんに抱き締められて、僕もつられて涙腺が緩む。
「ごめんね…」
「なんでヨウちゃんが謝るの!何も悪いことしてないでしょ!」
「そうだよ、よく頑張った」
お父さんが小さな子にするように僕の頭をよしよしと撫でるので、涙がますます溢れてくる。
そういえばどうしてお父さんがここにいるのだろう。仕事で海外に行ったはずなのに。
「報せを受けてすぐにとんぼ返りした。ヨウが大変な時に仕事なんかしてられない」
―それは大人として大丈夫なの?
そうは思ったけど、家族を大事にしない奴にまともな仕事などできないと常々言っているお父さんの事だから、なんとか折合いをつけてきてくれたのだろう。
「あまり患者さんを興奮させないでください」
診察に来た医師に言われて2人は離れたけど、お母さんは僕の手を握ったままだった。
軽い打撲と擦り傷だけで、検査が済めば帰れると言われた。僕は一晩病院に泊まって翌日家に戻った。
家に戻ったら戻ったでバタバタする。事情聴取に来た刑事さんが警察手帳を出して中の身分証をしっかり見せながら僕にもきちんと挨拶してくれる。
刑事ドラマはあまり見ないけど、胸ポケットから出してちゃちゃっと見せるだけじゃないんだと妙な感慨が湧いた。
あの男は近所に住む一人暮らしのサラリーマンで、近所の人ともほとんど面識はなく、覚えている人も大人しく真面目な人だったと言っていたそうだ。
家宅捜索で押収されたものの中に、僕の写真が何枚も見つかり、ずっと前から目星をつけられていたのだと知ってゾッとした。
あんな風になるまで誰も気付かなかったのかと思ったけど、以前僕を襲った変質者も見た目は優しくて気の弱そうなおじさんだったし、案外気付けないのかも。
「大きくなったね」
中年の刑事さんは懐かしそうに僕にそう言った。覚えていなかったけど、多分前の事件の時にも担当していたのだろう。
「もう会いたくないと思ってたよ。俺達と会うのは辛い時が多いから」
「大丈夫です。あの時の男はどうなったんですか?」
「死んだよ」
あっさりと言われて言葉に詰まった。いつ、どうやって、何故?今さら聞いたところで何もできないけど、静かな狂気に蝕まれた瞳を思い出すと身体が震える。孤独の中で闇を深めた彼らの眼差しはよく似ている。
―だからといって同情はできない。
「ヨウ、思い出したの?」
傍ら寄り添っていたお母さんが心配そうに顔を覗き込んでくる。もう片側にいたお父さんも、僕の肩を抱いて優しく擦る。
「辛い思いをさせたね」
―お父さんのせいじゃない。
こうして大事にされているのは分かる。自分に向けられる強い感情が苦手なのも、自分自身の感情が希薄なのも、全て過去に要因があるとは言わないけど、一因でもあるとは思う。今はただ、穏やかな親愛の情だけが心地良い。
刑事さんは寂しそうに笑って「もう二度と会わないよ」と言いながら帰って行った。
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