第29話

 図書館での勉強を終えて外に出ると、空はすっかり黒い雲に覆われていた。遠くから低い雷鳴が聞こえる。

 雷雨は意外と近いのかもしれない。雨の降り始めの匂いもどこからか漂ってくる。

 いつか読んだ本に書いてあった。ペトリコール、石のエッセンス、オゾンの匂い。植物由来の成分が岩石や地面に蓄積されて雨で空気中に拡散する。ジェオスミン、大地の匂い。土壌細菌の出す匂い。植物が暑く乾いた時期を乗り越える為の営み。

 たいていの人は雨を嫌うけれど、僕は結構好きだ。いい匂いがするし、雨の日の読書ははかどる。


 玄関の前まで送ってくれたオミにお礼を言って傘を差し出した。

「雨降りそうだからこれ持ってって。雷鳴ってるから気をつけてね」

「俺は大丈夫だけど…ヨウ、一人で大丈夫?」

 オミは傘を断って、心配そうに僕を見下ろす。小さな子供ではあるまいし、一人で留守番くらいできる。


「大丈夫だよ」

「俺が帰ったらちゃんと戸締まりして。誰か来ても開けちゃだめだよ。何かあったら電話して」

「オミ、お母さんみたい」

 思わず笑ってしまうと、オミは拗ねた眼をして僕の頭をワシワシとかき回した。

「やめて」

「お母さんじゃない」

 頭を掴んだまま近付いてくる顔をすんでのところで両手で押しとどめた。このパターンは身に覚えがある。僕だって学習してる。


―そうそうやられっぱなしでたまるか。


 それでもオミの方が一枚 上手うわてだったようで、彼はニヤリと笑って僕の両手首を掴むと手の平の表面をベロッと舐めた。

「ぎゃあ!汚い!」

「うーん、塩味」

「帰れ!」

「分かった分かった、帰るよ。ほんと気をつけて」

 怒りと羞恥で顔を赤くした僕に胸元を押され、オミは笑いながら帰って行った。


 僕は玄関ドアに鍵を掛けると、心臓の鼓動を胸の上から押さえて洗面所に駆け込みゴシゴシと手を洗った。


―僕をどうしたいんだ、あいつは。


 鏡を見ると赤い顔で眼を潤ませた少年とも少女とも言えるようなどっちつかずの髪の短い人物が映っている。

 僕は眼鏡を外してバシャバシャと顔を洗った。自分の顔はあんまり好きじゃない。可愛いと言う人もいるけど、そのたびに羞恥と共に恐怖が襲い消えたくなる。

 オミやハナや両親も時々言うけどそれは最近あまり気にならない。距離感の問題かな。オミもそこに含まれている事に気付いてまた顔が熱くなった。


 居間に入って窓の外を見たら、雨が降り出していた。出しっぱなしだったアルバムを棚に戻していると、玄関のチャイムが鳴った。


―雨が酷くなってオミが戻ってきたのかもしれない。


 そう思ってモニターを見た僕はゾッとして後退った。画面いっぱいに人間の眼が映っている。血走った眼は見えもしない中を探るようにギョロギョロと動き、次の瞬間何かに遮られたように画面が真っ暗になった。


―何!?誰!?怖い!


 僕は悲鳴をあげそうになる口を押さえて居間側の大きな掃き出し窓の鍵を確認した。ちゃんと閉まってる。

 何かあったら電話をかけろというオミの言葉を思い出し、固定電話の子機を掴んだ。この前家に来た時勝手に登録していった彼の短縮番号を押す。

『何?やっぱり寂しくなった?』

 すぐに出たニヤついているであろう声にかまう余裕はない。外に聞こえてしまうかもしれないという恐怖で声が震えた。

「オミ、外に変な人がいるの!怖い」

『すぐ行く。いったん切っても大丈夫?俺が警察に電話しとく』

「…うん、うん」

 泣きそうになりながら頷いて、通話の切れた子機を握りしめる。良かった。自分で通報なんてパニックで思いつかなかったし、話せたとしてもちゃんと状況説明できたとは思えない。


 僕は学校で聞いた防犯対策の記憶を必死で辿り、何かあったらすぐ外に出て助けを求められるように靴を履いた。

 玄関の外に誰かがいるかもしれないと思うと怖いけど、そのままそこで子機を抱き締めてオミが来るのを待っていた。


 不意に鳴った子機の音に身体がビクリと揺れる。

「もしもし…?」

『ヨウ?大丈夫?オミくんから聞いたよ。お母さんもすぐ帰るからね』

「うん」

 オミがお母さんにも電話してくれたんだ。優しく励ますような声にほっと息を吐いた時、居間の方から何かが割れるような音がして雨の音と雷鳴が急に大きくなった。

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