第2話 もう一人の大谷
社に帰ってきたN。
エレベーターで
ビルの三階にある営業三課のオフィスへ戻る。
“そうだ、山川部長に聞いて見よう。”
“部長は俺の知る限り一番の大谷ファンだ”
そう思ったNは、三課のオフィスに戻ると
窓際の部長の席のところへ行き、
デスクワークをしている山川部長に
唐突に尋ねた。
「部長、大谷知ってますか?」
すみません、お聞きしてよろしいでしょうか、とか
今、お時間ありますか?とか
ご存知ですか、とか
普段のNなら当然そういう言葉を使う。
しかし、今のNには
そういう相手のことを気にするような言葉は
全く出てこなかった。
Yは丁寧に聞いたつもりだった。
「…大谷?」
山川部長が顔を上げてNを見上げる。
山川はもう五十歳を超えているが
学生時代からスポーツマンで、
夏は海、冬はスキーで年中日焼けして
歯は真っ白にコーティングされていて
ボリュームを失っていない白髪交じりの髪は
整髪料でいつもオールバックにしてある。
山川はNを可愛がっていた。
もう三年以上部下としてみてきたが
Nはなかなか仕事ができる。
飲みの誘いも断らずに来る。
Nも山川部長がキライではなかった。
たまに理不尽に怒られもするが
理解のある部類だし、なにより
山川のさっぱりしている性格が好きだった。
こういう関係性だったので
Nが唐突に話しかけても
怒られたりはしない。
「ああ、知ってるよ。経理係の大谷だろ?
大谷良子。
昔俺の部下だったよ」
そういうと山川は、
右手でくいくいっと手招きをして
顔を近づけるようにとNに合図した。
デスクの上で、顔を近づけ合う二人。
「なんだ、お前。大谷狙ってんのか?
だったら速いほうがいいぞ?
あいつああ見えてモテるんだよ。
当時はあいつに言い寄ってくる男、
ひっきりなしだったぞ。
今、男いるか知らんが、
連絡付けてやろうか?
いや、いかん。
男なら押しの一手だ。
俺がしゃしゃったら形なしだな。
自分でドーン行って来い!
営業三課の魂、ぶつけてこい!」
そういって山川は白い歯を見せ、ニカッと笑った。
Nは、山川が大谷(翔平)の事を
知っている可能性は低いだろうなと思っていたが、
まさかの予想外の展開になったな、と思った。
否定しても良かったが、面倒なので
適当にあしらって退散することにしたNは、
「あ、はい。ありがとうございます。
がんばってみます」
と言い、おじぎをして席に戻った。
そして、少し現状について考えてみようと思い、
席を立ってオフィスを出て、休憩室のある六階へ行くために
エレベーターホールへ向かった。
歩いていると、同じ営業三課で同期の田宮裕太が
走って追いかけてきた。
「N。ちょっといいか?」
「おう、田宮。どうした?」
「今お前、部長に大谷の事聞いてたよな。
それでちょっと話しあるんだけど」
そう言われたところで、エレベーターが来たので
乗り込む二人。
六階ではなく屋上で話したいと言われ
Nと田宮は屋上に出た。
屋上は日中常時開放されていて、
休憩に来る人も多い。
しかし、結構な広さなので
他の人に会話を聞かれる心配はない。
あまり聞かれたくない、
上司の悪口や不倫の話しなどは
たいていここで行われた。
二人はフェンス際のベンチに座った。
「実は、俺付き合ってるんだ、大谷と」
田宮はそう切り出した。
ほんの少しだけ、実は俺も大谷翔平を知っている、と
田宮が言うのではないか、という甘い期待は
さっそく崩れ去った。
この後延々とどうでもいい恋愛話を聞かされるのだろう、
とNは落胆したが、挙動不審だと思われてもやっかいなので
努めて普通のフリをした。
「もう四年になるんだ。それで、来月、結婚することになったんだ」
田宮とは同期だが、営業三課で一緒に働きだしたのは今年に入ってからで
まだ三ヶ月も経っていない。
正直こんな、ドラマで見るような女性云々の話しを
田宮とするとは思っていなかったし、全然しっくりこない。
「まさかお前がアイツのこと、気にしてたなんて思わなかったからさ、
報告しとくべきだったよな、動機なんだし。ほんとゴメン」
そういって頭を下げる田宮。
Nはどうしていいかわからない。
全然好きでもない女、見たことすらない大谷良子なる女に、
勝手にアタックする運びになって
そしてその女と付き合っているという同期から
結婚するからあきらめてくれ、と謝られている。
いったい何が起こっているのか。
俺はただ、
大谷翔平を知る人物に会いたいだけだ、
Nはそう思った。
黙りこくるN。
「そうだよな、いきなりこんな事言われたって
納得できないよな。
俺、あいつにマジなんだ。
だから、どうしてもお前には諦めてほしいと思ってる。
もしお前がどうしても俺を許せないって言うなら
今ここで殴ってくれ。
好きなだけ殴ってくれていい。
それでスッキリあいつの事は忘れてくれ、頼む」
田宮が暴走している。
今、こいつはきっと大谷良子の事で頭がいっぱいに違いない、
そして俺は、大谷翔平のことで頭がいっぱいだ、
Nはそう思った。
「田宮、わかったよ。
お前がそこまで惚れてるなんてな。
応援するよ、二人のこと」
Nの口からスラスラと、ドラマのような台詞が出る。
Nはもう、一刻も早くこの茶番を終わらせたかった。
それには、勘違いだとか、大谷翔平がどうとか
そういう話しは全くの無駄にしかならない。
田宮が求めているのは、承諾してほしいということだ。
全く関係のない俺に。
だったら承諾すればいい。
それだけのことだ。
そう考えたNだったので、何の恥ずかしげもなく
そう答えることが出来た。
「N!お前。。ありがとう!」
そういってNに抱きつく田宮。
まだ続くのか、この三文芝居。
「わかってくれると思ってたよ。
ほんとにありがとう!
あいつにも言っとくよ」
そう言って走り去ろうとする田宮。
「田宮。俺、ほんとに二人のこと応援するから。
お幸せに」
走り去る田宮に声をかけたN。
振り向く田宮。
「…N。サンキュな!」
そう言って親指を立てはにかんだ笑顔を見せ、
田宮は知り去った。
“なぜ、おれは最後あんな台詞をはいたのか”
自分の言動がわからなくなるN。
三課のオフィスに戻りづらい事この上ない。
大谷翔平について、自分の現状について
全く考える事ができないまま
Nは三階の営業三課のオフィスに戻った。
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