正常な異常な世界

@noghuchi

第1話 消えた大谷



何かがおかしい。



Nはその日の朝、


普通に目が覚め、


顔を洗い歯を磨き、


トーストを食べてトイレを済ませ


背広に着替え履き慣れた靴を履き家を出た。



Nの自宅最寄駅から会社までは片道1時間かかる。



本当はもっと会社から近くに住みたいのだが


始発に乗れて座れるし、乗り換えなしの特急1本で着く。



そして駅を降りてすぐのビルにNの勤める会社があるので


Nには特に不満はなかった。



Nは会社に着いた。



たいてい毎朝Nが一番乗りだ。



そのため、


朝イチ、ポットで湯を沸かすのは、


Nの朝のルーチンになっていた。



自分のマグカップに


インスタントコーヒーの粉を入れ


お湯を注ぐ。



熱いコーヒーを飲みながら


自分のデスクに座り


ノートパソコンを開けて


得意先からのメールをチェックする。



これがいつもと変わらぬ、


平日のNの朝の行動だ。



しかしこの日、


Nは朝からずっと違和感を感じていた。



何がおかしいのかはわからない。



違和感があるのだ。



別に体調は悪くない。



いろいろ考えてみたものの


特に思い当たる節がない。



そうこうしているうちに


始業時間になり


違和感を抱えながら


Nはいつものルート営業に出た。



Nが勤めるBB電工株式会社は


電化製品のメーカーで


日本人ならたいてい知っている


大きな会社だ。



営業とはいっても


商品の発注連絡は


電話、FAX、メールなんかで送られてくる。



Nたちはいわば、


得意先の愚痴や不満を聞くために


わざわざ小売店に出向くのが仕事だった。



その日Nは営業車に乗って


最初に村上電気を訪ねた。



「こんにちは。BB電工のNです。村上社長いらっしゃいますか?」



村上電気はとても小さな店で


町の一角にある昔ながらの小売店だ。



正面の扉を入って十二畳ほどのスペースに


所狭しと電化製品が置いてある。



ご近所の高齢者が主な顧客で


親切丁寧をモットーに細々と経営している。



「ああ、Nさん、おはよう。今日も元気だね」



奥から気のいい小太りの中年男性が出てきた。



社長の村上さんだ。



Nと村上社長との間には


今まで特にトラブルはない。



二人とも野球が好きで


村上電気に来ると


Nとはほとんど野球の話ししかしない。



村上社長は日本の野球も好きだが


今はメジャーリーグも好きで


そっちをよく観ている。



Nも好きだったので、


話しは尽きない。



「昨日の試合観た?


やっぱゲレロ.Jrは天才だな」


村上社長が言う。



「そうですね。


あんなのホームランにできる選手、


なかなかいませんよね」


Nが答える。



「いやあ今年はあいつで決まりだな、


ホームラン王」


と村上。



「いやでもまだわかりませんよ、


大谷もまだまだ可能性ありますよ」



村上は大谷のファンなので


いつも大谷の話しばかりするのだが


今日はなぜかゲレロ.Jrを持ち上げてくる。



ここで大谷に否定的な事を言うと


怒られるのは目に見えている。



そう思ってNは、大谷を持ち上げたのだ。



しかし、帰ってきた返事は以外なものだった。



「大谷?誰だそれ?」


村上が怪訝そうな顔をしている。



Nはてっきり自分の滑舌が悪くて


「大谷」と聞こえなかったのかと思ったので


少し大きな声でゆっくりと言ってみた。



「大谷は若いですから、まだまだスタミナありますよ」



今度はちゃんと聞こえたはずだ。



「?だからどこの大谷だよ?いたかそんな選手。日本か?」



どこの大谷?


日本か?



Nは混乱した。



村上さんは何を言っているのだろう。



村上さんの顔は真剣だ。



むしろ少しイラついて怒っているようにも見える。



本当に、どこの大谷?と聞いているのだ。



「え、あの、エンゼルスの大谷です。大谷翔平」


とトーンダウンして答えるY。



「エンゼルス?いたのか日本人選手。


知らなかったよ。


今結構多いもんな、日本人メジャーリーガー。


で、バッター?ピッチャー?」



Nはますます混乱した。



先週まで村上さんは


大谷の話しを嬉々としてしていた。



しかし、今、大谷を知らないと言う。



もし、からかっているのでなければ


村上さんは脳の病気かもしれない。



Nはそう思った。



「二刀流の大谷です。ショーヘイ、の」



Nはボールを投げたりバットを振ったりするジェスチャーをしながら


努めて明るく動いて見せた。



「二刀流ってなんだよ」


村上さんがはははと笑う。



「まったく面白いねえYさんは」



「大谷ってのが二刀流なら、


俺はかかあとゆみちゃんとみどりちゃんの三刀流だな」


と言って村上さんはまた、わははと笑った。



少し怖くなるN。



これはほんとに脳に何か異常があるぞ。



しかし、村上社長本人に


脳がおかしいから病院に行け、とは


なかなか言いづらい。



そこで考えたNは、


村上社長の奥さんにもこっそり確認してみて


もし村上さんの異変に心当たりがあったら


病院に行くように二人で説得してみよう。



Nはそう思った。



村上さんに合わせて愛想笑いをした後


Nが尋ねる。



「今日は、奥さんいらっしゃいます?」



「ん?ああ。今ちょっと出掛けてるよ。どした?」



「あ、いや、こないだ頼まれてたポスター、


持ってくるの忘れちゃって。


謝っとこうかなって」



適当に合わせるN。



「あー、いいいい。


また今度持ってきてくれたらいいよ。


かかあには俺から言っとくよ」



そう言うと村上は


また野球の話しを始めた。



変なのは、大谷の話が出てこない以外


村上の話しは何もおかしなところがない。



脳に異常があったら


こんなに普通にしゃべれるだろうか。



大谷の事だけド忘れした?



そんなことが起こりうるのだろうか?



一人で盛り上がって話し続ける村上をよそに


どんどん心配になってきて、話しが入ってこないY。



「何、Nさん、ぼーっとして。


話し聞いてないでしょ、どした?


何か心配事でもある?


俺でよかったら聞くよ?」



上の空のYを心配して村上がNにそう言った。



あなたの脳が心配です、とは言えないN。



「あ、すみません。全然大丈夫です。


やり残した仕事の事思い出しちゃって。


午前中に片付けないといけなかったの


すっかり忘れてました」



適当なうそをつくN。



「何そうなの、そりゃあすぐ行った方がいいよ。


うちは大丈夫だから。


客なんて来やしないんだから何とでもなるよこんな店は」



そう言ってまた、わははと笑う村上さん。



全然笑えないN。



「す、すみません、そしたら私、会社に戻ります」



またお願いします、と言い残して


Nは村上電気を出て、営業車に戻った。



村上電気の近くのパーキングに止めた営業車の運転席で


腕を組んで考え込むN。



“緊急事態だったらどうしよう”



“ああいうのは早期発見が大切だって言うし”



このまま会社に帰るべきか、


それとも怒られるのを覚悟で村上さんのところへ戻って


脳の病気の話しをして病院へ連れて行くべきか。



そこでNは思いついた。



“そうだ、スマホで大谷の記事を検索して


村上さんに見せればいいんだ。



大谷のファンでしょ、大谷ですよって。



そしたら自分が大谷の事忘れてるって気がついて


病院に行こうってなる。



簡単な事じゃないか。



そうだそれがいい”



すっかり落ち着いて安心したYは


ズボンのポケットからスマホを取り出し


大谷について検索しようとした時、


前方から村上社長の奥さんが


自転車に乗ってこちらに向かってきていることに


気がついた。



この通りを過ぎればすぐ村上電気なので


今から帰るに違いない。



Nは車を降りて、村上夫人を呼び止めた。



「こんにちは、BB電工のNです」



「ああ、Nさんこんにちは」



笑顔で止まってくれた夫人がNに答える。



「あの、奥さん。村上社長なんですけど、最近変わったところはありませんか?」



「何どうしたの急に。うちの人、なんかやらかしたの?あ、スナックの女の話し?


なんて言ったっけ名前」




「いや、そうじゃないんです。



さっき少しお話してきたんですけど、


いつもみたいい野球の話しをしてたんですけど、


大谷の話しになったら、大谷なんか知らないっていうんです。



あんなにファンだったじゃないですか、大谷の。



ホームランボールだって飾ってますよね、確か居間に」



「?大谷?選手?私野球よくわかんないんだけど、


確か居間に飾ってたのは落合さんのボールだと思うわよ。



私も一緒に行ってたもの、その試合。



私がぶつかりそうになったけど、うちの人がグローブで


バシッと取ったのよ。



たまにはかっこいいとこ見せるじゃない、って


あの夜はうちの人と、ってあらやだもう何言わせるのよ。


それで、何の話だっけ?」



いよいよNは青くなった。



その話しは今まで何度も聞いたことがある。



しかし、ホームランを打ったのは落合ではなく、大谷だったはずだ。



そして、この話しは、村上社長からだけでなく


奥さんからも何度も聞いたことがある。



村上社長だけでなく、奥さんも、大谷の存在を忘れている。



「あ、ああ、いえ別に用とかじゃなくて、少しご挨拶したかっただけでして。


すみません、会社に戻らないといけないので、そろそろ行きますね」



そう、気をつけてね、と少し怪訝な顔をする村上夫人を残して


Nは車に乗り込み、会社へ向かった。



その道中、信号待ちで


思い出したようにスマホを取り出し


"大谷" 、"二刀流"など、様々なキーワードで検索をかけてみたが


大谷の写真一枚出てこない。



"いったい、何がどうなっているんだ..."



呆然とするNは、鳴らされたクラクションで我に返ったが


狐につままれたような心地は抜けず


やはり呆然としたまま、会社へ戻った。

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