《奇生種屋》

橘紫綺

序章

 初めにその症状が現れたのは誰だったのか。

 どこにでもある、取り立てて珍しいものなど何もない山間の村で、それはひっそりと起きていた。

 村人総出で行っていた田植え時期。誰も初めは気が付かなかった。

 ふと見ると、腕に、手に、足首に。脛に腿に、ポツリとした痣が出来ていた。

 どこかにぶつけたかのような紫色の小さな痣。

 気付いたとしても、さして気にしたりはしなかった。

「ありゃ。一体どこでぶつけたのかねぇ」

「お前さんはおっちょこちょいだからね。気をつけなさいよ」

「そうだねぇ。気をつけなくちゃいけないねぇ」

 痛みも伴わない小さな痣。

 誰も重く考える者はいなかった。

 ともすれば、痣のできた場所によってはすっかり忘れている者もいた。

 貧乏暇なし。じっくりと自分の体を観察するものが少ない村の中。

 畑仕事や力仕事。ちょっとした喧嘩や仲裁子育ての中で、痛みの伴わない痣のことなど気にする者は殆どいない。

 いちいち気にしてなどいられなかった。いつの間にかできて、いつの間にかなくなる痣のことなど。日常茶飯事とまではいかないまでも、取り立てて珍しくもない現象を。

 だが、

「ちょいとお前さん。そのふくらはぎの痣どうしたね」

 見て見ぬ振りなど出来ない事態はやって来た。

「痣? って、げっ。なんだいこりゃ」

 指摘されて改めて気が付く。ふくらはぎを覆うように広がり切った大きな痣に。

 禍々しい黒紫の色が、嫌でも人々の心に不安を生んだ。

 しかし、人々を慄かせたのは何も痣の大きさと色だけではなかった。

「昨日までこんなものはなかったぞ?! なかったよな?」

「なかったよ! だから聞いてるんじゃないかィ。一体その痣どうしたのかって」

「知らねぇえよ」

 訊ねる方も答える方も、眉尻を下げて今にも泣きださんばかりの顔で言い合った。

 気味が悪かった。悪いと思わぬ方がおかしかっただろう。

 突如身に覚えのない大きな痣が、足に腕に広がっていれば、誰だって不安になる。

「痛くないのかい?」

「痛くは……ないが……」

 その時点で、腕や足を覆う痣が出ていたのはどれだけだったのだろうか。

 痛みも伴わない大きな痣。

 これは一体何なのかと不安に苛まれた日の夜のことだった。

「ぎゃあああああっ!」

 誰もが寝静まった真夜中に、聴く者の怖気を誘うような悲鳴が、村のあちこちで同時に上がった。

 共に寝ていた家人たちが、言葉通り飛び起きる。

 心の臓が内側から激しく胸を叩く中、悲鳴を上げて転げまわる身内を目の当たりにして血の気を引かせる。

「痛ェ! 痛ェ! 痛ェ! 痛ェ!」

 喉が張り裂けんばかりに悲鳴を上げながら転がり回る。

「痛い痛い痛い痛い痛い!」

 涙をボロボロと零しながら、涎を撒き散らしながら、悲鳴の数だけ人々は突如脳天を突き破るほどの痛みにのたうち回った。

 悲鳴を上げたのは、足や腕に大きな痣が広がっていた者たち。

 身内が、隣人が、何事かと明かりを灯し見守る中で、彼ら彼女らは、痣に覆われた腕や足を掴んで、『熱い』『痛い』と狂ったように叫んでいた。

 とても手を付けられる状況ではなかった。

 真夜中だったせいもある。寝起きだったせいもあるだろう。

 何が起きているのか理解など誰にも出来なかった。

 手の施しようなどなかった。手など出せるものではなかった。

 そうしている間にも、家屋の中には吐き気を催すような、甘いような腐ったような臭いが漂い始め――

「痛い痛い痛い!」

 痛みを紛らわそうと、痛みの元凶である患部を苦しむ本人が強か床に打ち付けたときだった。

「え?」

 ぐちゃりと怖気を誘う音と共に、なんとも間の抜けた声が漏れて出た。

 思わず悲鳴を止めてしまうほどに衝撃的なことが起きたのだ。

 一瞬の静寂だった。

 誰もが思わず見入っていた。見入らずにはいられなかった。

 打ち付けた腕が、足が、冗談のように本体から離れて落ちていた。

 冗談のような光景だった。

 腐った果実が潰れて弾け飛んだかのように、痣に覆われていた部分が千切れ飛び、手が、足の先が、衝撃の強さの分遠くに飛んでいた。

 腐臭が一気に広がって、

「「―――――――――――っ!!」」

 至る所で上がる絶叫が、村中を震わせた。



 何の変哲もないただの村だった。幸運にも、これまで飢饉と言う飢饉にも遭うこともないが、特別豊作になって村が潤うことになることもなかった村だった。

 特別な名産品があるわけでもなく、特別楽しいことがあるわけでもなく、特別な不幸があるわけでもなかった。

 毎日同じことの繰り返し。起きて仕事して飯を食う生活。

 良くも悪くも、そんな可もなく不可もない生活が繰り返されて行くだけだと誰もが思っていた日々の中。刺激がないと思う輩もいないわけではなかっただろうが、平穏は、突如として打ち砕かれた。

 村は蜂の巣をつついたような状態になった。

 突然身内の手足が腐り落ちたのだ。腐り落ちたのだと人々は理解していた。

 だとしても、理解したところで対処法を知っている者はいなかった。

 人々は家屋を飛び出し助けを呼んだ。

 そして知る。理解しがたい状況に陥ったのは自分たちだけではないということを。

 そして誰もが互いの顔を見ながら絶望し、起きていることに恐れ戦いた。


 村に住まう唯一の医師を名乗る一家が、順番に家々を回ったが、結果は打ちのめされただけだった。あり得ないことだった。たった一日で手足が腐り落ちる病など聞いたことがなかったのだから。

 それでも、村人たちは助けてくれと医師に縋った。意識があるウチのを先に診ろ! と喧嘩をする人々もいる中で、異様に殺気立った村人たちに恐怖心を抱きながら、医師は一軒ずつ見て回った。

 残念ながら、突如己を見舞った意味不明の衝撃的な出来事を受け止めきれずに事切れている者もいた。辛うじて止血が間に合った者もいたが、程なくして命が尽きた者もいた。

 村は、たった一日で十三人の発病者を出し、内、三人は手足が取れた衝撃で。五人は出血の量が多過ぎて。二人は止血は出来たものの、朝方息をしていないことが発覚し、生き残ったのはたったの三人。共通するのは突如手足を覆うように現れた黒紫色の痣。それを有していた者たちだったということ。

 村は、騒然となった。

 身に覚えのない痣が広がったら最後、その日の夜には痣のできた部分が腐り落ちる。

 その恐ろしい事実は、瞬く間に人々を恐怖のどん底へと突き落とした。

 戦々恐々とする日々。

 誰もが怯えて自身の体を見るようになった。

 小さな痣一つで、次は自分だと狂わんばかりに怯える人々もいた。

 殺気立つ村人たちに恐れをなして、医師の一家が村を逃げ出したのは、初めの悲劇が訪れてから五日後。二度目に同じことが村中で起きた翌日のことだった。

 医師まで逃げ出した事実に、村人たちが恐慌状態に陥った。

 発症した本人も、周りも、死への恐怖へ捕らわれた。

 自分の一部が腐り落ちる。その恐怖は尋常ではない。

 その恐ろしさを知らなければまだ良かっただろう。だが、村人たちは知っていたのだ。

 のたうち回る人々を。その悲鳴を、断末魔を。末路を。

 目にしていた。耳にしていた。その姿が重なるのだ。

 想像力は自身の心を恐怖一色に塗りつぶした。

 それを見守るしかない周囲の者たちの恐怖も尋常ではなかった。

 死にたくないとしがみ付かれる。万力のごとく腕を掴まれ縋られたところで、医学の知識などない人々に救う術はない。慰めることも出来なかった。代わってやることも出来なかった。自分ではなくて良かったと心のどこかで思っている自分を自覚して、とても真正面から怯える相手の目を見ることなど出来なかった。

 人々は神に願った。仏に祈った。神仏に縋るしかなかった。

 野良仕事などほっぼりだし、ただただ一心に願った。祈った。どうか助けてくれと。どうか救ってくれと。

 死に染まった村で念仏の声が響き渡った。

 それは二度目の悲劇が起きてから五日間続いた。

 一心不乱に祈る人々は、しかし、残酷な現実と直面する。

 またしても、痣が広がった人々が現れたのだ。

 三度目になると諦めの方が先に立つのか、人々は声を上げることなく泣いた。

 日が傾き、夕暮れがやって来て。夜がやって来ると緊張は頂点に達していた。

 村中が緊張に張り詰めていた。

 一体どれだけの痛みが襲って来るのか。死への恐怖に罹患者は瘧のように震えた。

 吐き出し、泣き出し、発狂する者さえ現れた。

 そして――

「ひっ」

 引き攣った悲鳴を口にした一拍後、恐れていた瞬間が人々を襲う。

 村中に三度目の悲鳴が次々と打ち上がる。

 恐れるかのように木々がざわついた。

 逃げるように雲が流れた。

 痛みにのたうち回る身内を前に、耳を塞ぐ者もいた。涙を流す者もいた。祈る者も、願う者もいた。

 何もできなかった。出来ることがなかった。

 そこへ、

「じゃ、邪魔をする」

 突如、戸口を開け放って現れたのは、村八分にしていた一人の青年。

 その青年は、片手に巻物を持って現れると、何をしに来たのかと問う前にのたうち回る身内の元へ跪き、顔も向けずに問い掛けて来た。

「もしも俺がこの病を治したら、あんたたち、毎日こいつに感謝できるか?」

 震える声で問われ、差し出された巻物を見て、咄嗟に判断が付かずに戸惑っていると、

「こいつに、毎日、感謝できるか?!」

 震えながらも強い口調で問われ、はらりと巻物が広げられる。

 それを見た瞬間、家人たちは眼を見開いた。

 広げられた巻物は掛け軸だった。

 そこに描かれている優しい顔立ちの菩薩の姿を目にした家人たちは、我知らず居住まいを正し、床に手を付いて頭を下げると、

「出来ます。します!」

 と口早に誓った。藁にも縋る思いだった。救ってもらえるならば何でもいい。何でもする。

 そうしたくなるほどに、掛け軸は満足な明かりのない室内で淡く優しい光を発していた。

 事実、村人たちは奇跡を目の当たりにすることとなった。

 村八分だった青年は、手首を返して菩薩の体を左手で一撫ですると、次いでその手で今にも腐り落ちそうになっている患部を一撫でした。

 直後、

「え?」

 間の抜けた声がした。茫然自失の声だった。

 青年が、安堵のため息をついてがっくりと項垂れる顔の下で、痛みにのたうち回っていた者は眼を瞬かせて、呆気にとられた顔をした。

 むくりと起きて、己の腕をまじまじと見る。

 そこに、恐ろしい痣は一染みも残らず消えていた。

 そう。奇跡は起きたのだ。祈りは、願いは届いたのだ。

 何故そんな奇跡が青年に起こせたのかなど誰にも解らない。

 ただ、命を救ってくれたことに対して、本来であれば恨まれても救ってくれる義理などない自分たちに、救いの手を伸ばしてくれたことに対して、村人たちは心の底からの感謝と謝罪の言葉込めて、深々と頭を下げた。

 村八分だった青年は。疎まれ続けた青年は。この夜を転機として、一躍村の救い主となった。

 結果、その日の夜に手足を失ったものは一人もおらず、後にもう一度同じ症状が出たとしても、青年がいれば全て未然に防がれた。

 青年は《仏の誠二郎(せいじろう)》と呼ばれ、どんな病も治してくれる生き仏となった。

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