第12話 書物と尾行
カクパスは、返事の代わりに肩をすくめて、
「話は変わりますが、お渡しするものがあります。ただ、その前に走り出さなくては。寮鑑の見回りまでに、戻りたければ、ね」
「うわわ!!」
バーツとカクパスは、やがて、並んで、都の大路を走っていた。
百歩ごとに警備の兵が囲んで立っている。
都を出るとき、門番には、優等生のカクパスの顔が証文代わりになって助かった。
月の山道を、ほどほどの速度で上っていく。
山の夜気に、白い呼気がふたかたまりずつ、後ろへ流れて置き去りにされていく。
これを、とカクパスは、バーツに一冊の書物を渡した。
小さく、薄い。
サボテンの繊維を紡いだ糸で綴られているが、糸も白く、光沢があった。
開いてみて、バーツは驚いた。
内容は何かと思ったら、全く何一つ書かれていない。
「これはお別れの贈り物です」
「え?!」
「実はもうあと十日もすれば、ボクは転属になってしまいます。それには心残りなのです。チタムについて、思ったことを記録していくようお勧めします」
「お主も、チタムを信じろというのでござるな」
「そうは申し上げませんよ。ただ、一見ではなく、時間をかけて、隊にとって国にとって、信頼に足るかどうか、見極めてほしい」
告げるカクパスの声は、寂しそうだった。
「あなたの結論が出たら、報せてください。ボクはそれを信頼することとします」
「え? 嬉しいでござるが、どういう目論見でござるか」
カクパスの横顔は、ただ、まっすぐ前を見つめていた。
「
「吾の印象で、本当にいいのでござるか」
「期限が、あります」
「へ?」
「次の戦までに、あなたは、決めなくてはならない。しかもその戦はいつかは既に分かっている。あの敵のアフが、間もなく、と言ったでしょう。ということは、七日後です」
「そんなに早く?! 根拠は!!」
カクパスは、空を指した。
夜空の低い位置、山の稜線に近く、東だった。
「ごらんなさい。金星が輝いている。あの星が消えるのが、ボクは怖い。あの
合戦を申し合わせるなら、間違いなくその日が選ばれる。
奇襲とて、するのも警戒するのも、戦神の加護の力が最も増すとされるその日だ。
東の空にキラキラと再び金星が現れるとき、敗死せず立っていた者のみが、金星を拝むことができる。
その輝き、光線は、
訓練所に着くと、さすがにバーツの息は切れていた。
しかしカクパスは涼しい顔で、手を軽く振って自らの寮に消えた。
寮は、二人で一つの小屋だ。
藁葺きで、木と竹と土間で出来ている。
ご丁寧にも、バーツの同室者はチタムだった。いったい誰の計らいか。
小さな窓の竹の扉は半分開いていて、差し込む月明かりの中、土間を行き来する吼え猿やコンゴウインコが、がさがさ、げえげえと、小うるさい。
バーツが連れてきた動物たちの物音と気配の中にもかかわらず、平気で寝ているチタムを見て、
「たいしたもんだ。人のことは言えないでござるが」
その隣の寝床に寝転がって、織物をしっかり巻き付けてあったかくすると、懐からあの書物を出して、表紙を開いた。
疲れきって、頭はガンガンしている。
眠ってしまいたくてたまらないが、第一印象、危険人物、と、書き込んだ。
竜舌蘭の芯の繊維をなめした紙のこの書物と、携帯竹ペン、素焼きの小さな墨壷という三種の道具は、これから携行しようと思う。
だが……、と、昼間の路地の血臭を思い返す。
兵士に優しい嘘を言って、魂を救ってやっていた。
認めたくないことだが、あれはなかなかできることではない。
そしてそのあとに……、それと、その前に……
いつしか、竹のペンがぽとりと土間に転がった。
眼を開け、こすって、白紙の書物を懐にしまうバーツ。
ペンも拾おう、と思いはしたが、そのまま、寝息をたてはじめた。
それから間もなく。
チタムが、音もなく半身を起こした。
十分な間を置いてから、小屋の扉を、バーツも開いて追うことにした。
「って、しばらく観察すると決めた夜から動き出すなんて、どうしてやろうかねでござる、まったく」
残念でござったな、カクパス。と、心の中で呼びかけた。
ほら、〈存知〉は、外れていないにちがいないでござる……
チタムの背中が消えたのは、かわやへ降りていく道ではなく、密林にどんどん入っていく。
樹冠からところどころ差し込んでいる光の塊に、浮かび上がったり暗がりに沈んだりしながら動いていく、小柄な背。
少し開けた場所に出た。
樹海に埋もれかけていているが、こんなところに、こんな廃村が、とバーツはきょろきょろ見回した。
生えた木の根で割られた石の基壇。
雨で流れた漆喰の色彩。
木製の朽ちかけた太いまぐさ。
遺棄するので儀礼的にで破壊された、岩の丸彫り。
化け物のような月陰。
廃村の最も奥の崖に、チタムは進んだ。
木の円盾を設置すると、戻ってきた。
百歩以上の直線が、まだ森に浸食されていない。
直線を遮って生えた若木は、チタムが伐っていた。
覗き見していたバーツの頬には、そのうち皺が寄った。
チタムはある岩の割れ目からの清水を、持ってきたヒョウタンになみなみと汲んだ。
月光の下、水の刃を何度も、何度も、何度も、何度も……
運などではなかったのだ、と思うと、最も冷え込む夜明け前の夜気の中ですら、体が温かくなった。
やはりそうだろう、努力なしに能力の維持ができるなんて、騙されるなんてみんな本当に考えなしだ。嬉しさがこみあげてくる。
極秘の自主練習を見られていることにも気づかず、チタムの方はチタムで、チタムの思考を追っていた。
チタムは、自分を疑っているバーツのことを、なぜ信用してくれないのかとイラつく感情に支配されていた。
と同時に、疑われて助かる、とも実は感じてしまっていた。
明晰に人を判断しようとしているバーツに、今後、もしも信頼されたなら、真実に人に信頼された気持ちになれるだろう。他の誰に信頼されるよりも。
もしも、何もうちあけずとも、彼に信頼されたなら……
寂寥にふと、こみあげてきたものを、目尻から拭う。
歩きだして、的のところまで行き、すっかりずたずたになった円盾を、取り替えた。集中するために的に描く絵文字は、昔いた軍に独特のもの。
だがこの的は回収しなくても、どうせ壊すから、人に見られはしない。
と、ハッと心臓をちぢめて振り向く。
視線も感じたし、ガサッと音がした。
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