陣内は診療所を空けた。往診に向かう為だ。懐には薬を携えている。勿論それは建前であり、実際は向かう場所は違う。

 陣内は油問屋の鍋島屋に向かった。表に立っていた丁稚奉公の子供はまた違う子供に代わっていた。


「あっ、佐凪先生」

「よっ、あれ?こないだまでいた丁稚のコは?」

「あぁ、佐吉ですか」

「おう、ンな名前だってか?」

「先生、ご存知ありませんでした?」


 ぼろを出さないように気を付けながら陣内は答えた。


「どしたェ?」

「昨日から、行方が分からないんですよ」

「え?」

「料理屋で、鰻を盗もうとして…」

「……」

「先生はお忙しい方ですからね。それに立派なお方ですから、お耳汚しな…」

「立派なら、昼間から呑んだくれてねぇや」

「…瓦版ですよ。ほら、これ」


 丁稚の子供は一枚の瓦版を陣内に手渡す。内容はよく知っている。さりげなく驚いたような顔をして陣内は顎を触った。


「ふぅ…ん。ひょっとしてこれが」

「そうみたいなんで…」

「おい利助!」


 裏から呼ばれた丁稚の子供はびくりと体を震わせて振り返る。番頭のでかい男が繋がりそうな眉毛を歪めて利助と呼ばれたその丁稚の子供の襟を掴む。


「すまねぇな、忙しいところ俺が話なんかしちまったからよ」

「あぁ、お医者の先生…」

「その子は悪くねぇんだ。どうか許してくんねぇか?」

「あぁ、ンですが、うちも客商売なんすわ。変な噂やら何やらを吹き込まれちゃ…」

「何だそいつぁよ」

「こら千太郎!」


 番頭は眉を顰めたまま後ろにいた店主をちらりと見る。そこには綺麗な身なりをした柔らかな物腰の男がいた。鍋島屋の店主だ。


「すみませんねぇ、昨日の今日で気が立ってるんです。御容赦頂けませんか?」

「まぁ、許さねぇとは言わねぇがよ」

「この千太郎は、斜向かいの油問屋の鋤屋から来て間もなくてね。来てすぐにこの騒動でしょ?」

「まぁ、俺は詳しくは知らねぇがよ」


 店主は困ったような顔をしている。本当に今回の一件で参っているようだ。


「うちの丁稚が二人も、妙な悪戯で瓦版なんかに、情けない姿を晒しましてな。うちとしちゃあ、もう商売上がったりでさぁ」

「ほぉ…」


 千太郎はこちらをじろりと見た。腕は番頭にしてはかなり太く逞しい。歩き方も様になっている。


「また、いらしてくださいませね」

「あぁ」

「では…」


 鍋島屋の店主は奥に引っ込んだ。顎を触りながら陣内はちらと後ろを気にする。


「いるんだろ?反物屋の旦那」

「何だ、わかってんのかよ」

「言いたいことが、あんだろ?」

「いんや、ここじゃアレだからよ」

「?」


 宿良の背後にはあの時の若者がいた。


「どうするェ、陣内先生よ」

「奴さん、お前ェを追ってきやがったんだぜ。お前さんでどうにかしろや」

「へいへい」



 宿良は裏通からぼろい神社の中に入る。鳥居の下にすっと立つと、わざと聞こえるように声を張り上げる。


「こそこそしてねぇで、出てきやがれってんだよ」

「!」

「尾けてんのは分かってんだ」


 若者は着物の襟に手を突っ込んでいる。


「物騒なもんでも持ってやがんのか?」

「そんなもんはねぇよ」

「手前ェ、誰だ?」

「俺か?俺はただの物書きだよ」

「なぁんだ、手前ェが猫柳かよ」


 若者は顔を歪める。


「分かってたのかよ」

「そりゃあな。しっかしまた妙な真似をしやがるな」

「どこまで知ってやがる?」

「あン?」

「どこまで知ってやがんだ?回答によっちゃ…」

「おっと、本性を出してきやがるか…」


 宿良は片足をすっと前に出す。力を抜いた体勢だ。


「来な」


 

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