鴉が探りし黒い噂
壱
どこかの店の丁稚奉公が、店の軒先に水を撒いている。ここ最近はとんと雨が降らない。珍しいことだが、この音路町の川ではこの時期質の良い手長海老がよく採れるのだが、それすら最近は少なくなっているようだ。
その手長海老の素揚げを肴に酒を飲みながら、佐凪陣内は診療所の外を眺める。店ではなく、陣内はたまに自分で料理もするのだ。無論、それは酒の肴ばかりにはなるが。
「ちっ」
陣内は軒先に歯茎に刺さった手長海老の角をぺっと吐き出した。
「ん?」
軒先から外を見ると、ここ最近出来たばかりの新しい油問屋の丁稚奉公の子供が周りをちらちらと気にしながら歩いている。
「よう、ヤブ医者」
診療所の裏庭の扉から入ってきたのは、反物屋の宿良だ。端正な顔だがまぁ口が悪い。にやにやしながら入ってはきたが、陣内の表情を見て、その口を閉じる。
「どうしたェ」
「あそこ……」
油問屋の丁稚奉公は、料理屋の裏口に入っていった。ちょうど診療所からは裏路地が見える。よく見ると、その近くには若い男が立っている。片手には藁半紙を持ち……
「あっ」
陣内の目の前で、その丁稚奉公は料理屋の裏の桶に入っている鰻を手に取り、着物の胸元に入れようとした。その近くの若い男はそれを分かっているであろう。なのに何も言わずにそれを見ようともせず、藁半紙に何かを書いている。
「ちょ、行ってくらぁ」
「待てよお医者さんよ、患者が来たら厄介だ。ここは俺が行く」
宿良は足早に診療所の裏口から出ていく。勿論、あの丁稚奉公の子供を追う為だ。
†
油問屋の丁稚奉公の子供が店に帰ろうとしたその時、不意に宿良が声をかける。
「おい、お前さんよォ」
「はいっ」
子供は然程気にもしていないような表情で振り返る。宿良は子供の着物を指差して言う。
「そこにある奴、よこしな」
「何をおっしゃるんです?」
「いいからよこしやがれ糞餓鬼が。こっちは一部始終見てたんだよ」
子供は首を傾げる。宿良は子供の着物の襟を掴み、胸元に手を突っ込む。ぬめっとした感触を感じる。宿良はそれを掴んで取り出した。
「あっ」
「よくもまぁいけしゃあしゃあとした面で言えるもんだなぁ?え?」
「ごめんなさい」
宿良はそれを手にしたまま子供に言う。
「今ならまだ間に合うからよ。料理屋の桶に戻してこい」
「はぁ」
子供の尻を叩き、料理屋に向かう姿を見送ると、宿良はその横で知らぬフリをしている若い男をちらと見た。男は書き物を着物の袖に仕舞った。
(…ンだ、あいつぁ…)
「どうしたェ、宿良よ」
「ンだよヤブ医者が。診療があるからって俺に行かせたくせによ」
「わりぃわりぃ、暇になっちまったんだ。許せや」
「しゃあねぇな」
「ところでよ、宿良。何かあったんじゃねぇのか?」
思い出したように、宿良は陣内に瓦版を差し出した。
「和尚が、調べてくれとよ」
「なになにぃ?」
宿良は覗き込むようにして瓦版を見る、食指でそれをとんとんと叩いて言った。
「薬屋の膏薬に、餓鬼の歯を埋め込んだってぇ悪戯をしやがった奴がいるだと?」
「あぁ、しかもほら、見てみろ」
「?」
「それをやりやがったの、丁稚奉公の餓鬼だとよ」
「ンだって?」
「手打ちにされたとよ」
「なんだと?悪戯ごときでか?」
「知らねぇがよ。それがまた、なぁんかキナ臭ぇんだとよ」
「さすが和尚、鼻がききやがらぁ」
陣内はふんと鼻を鳴らす。宿良は裏路地から再び出て行く子供を見送った。
「悪ぃ餓鬼も、増えてやがんのかねぇ」
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