第二幕 舞台『青空のハコ』
⑤-1 新島翔
幕が閉じられた先で僕は立つことができなかった。その場にうずくまっていては劇がとん挫する。動かなければならない。彼女と向き合え。自分を奮い立たせろ。足よ、動け。悔しさを吹き飛ばせ。彼女への好意を確認している場合ではない。僕が主役なのだから。僕は彼女に言わねばならないことがまだあるのだから。
だが、思ったように体は動かない。まだ手が震えている。彼女の演技の機微、表情、声、そして一番は空気。彼女の言葉の裏やはらむ事情が頭の中で繰り返す。僕の好きな彼女の演技が苛む。
いや、おかしい。
彼女の演技はもっと純粋だったはずだ。
楽し気に演技をする彼女を見てきた。まるで舞台の上で踊っているかのような、それは僕の心を鷲掴みにした。ぴりぴりとした泡立つ感覚ではなく、もっと瞬くようなしぱしぱした新たな価値観を得られたはずだ。画面越しに彼女を研究した。何年も何年も彼女が出たドラマを見返した。彼女が出演する劇も幾度となく訪れた。どれも彼女は演技に対して、純粋性を保っていた。
先ほどの演技の掛け合いはどうだ。彼女の純粋な演技は、復讐心で濁ってはいやしなかったか。あれは彼女の本領だったのだろうか。僕の好きな椎名空という天才女優の演技だったのだろうか。
僕は、彼女のことが好きだが、彼女の演技はそれ以上に愛している。
伝えたい想いは大きい。
だが、その想いは今の彼女に伝えたいか。
僕は今の彼女に伝えられるか。
立てなかった。完全に意気消沈している。彼女に立ち向かうことができない。圧倒的な壁が存在することは、人生で何回も経験していたが、それでも崩壊してしまった心をもう一度復活させることは難しい。彼女のことが好きだが憧れが邪魔をして、彼女に見合わない好意を僕が持っている事実に絶望する。こんなことを彼女にさせている根本的な原因である僕が心底嫌悪してしまう。
「今日は、何回も私から手を差し出しているな」
と、そこで新島の声が降りかかる。冷ややかな目をしながら腕をつかみ上げた。僕は意固地にも彼の助けを断りその場に足を落としてしまった。力が入らないのだ。
「悪い。無理かもしれない」
新島はそれでも僕の腕をつかんで持ち上げようとする。
やめてくれ。こんな僕ではこの舞台を持ち直せない。
「ふざけるな!」
僕の呼吸が止まる。
新島が声を荒げていた。
「彼女の演技は確かにひどいものだった。あの椎名空だと思えないほどのぼろぼろの出来だ。それをお前は知っているだろ」
「ひどい?」
「演技が荒んでいる。あれは空ではない。これは僕が書いた『青空のハコ』ではない。この
「新島、でも空の演技は僕に見合わないんだよ。いくら新島の描いた世界が美しくても、僕は空にかなわない。これじゃあ、いけないんだよ」
この劇の後半で、空へ「好き」と伝えなければならない。
今の僕はできない。
できるきがしない。
「これは秘密に、と言われていたんだが。椎名がこの劇を始める前、脚本に口をだしてきたんだ。彼女は口を出さない女優だから珍しいこともあるものだと思っていた。もともと『青空のハコ』は君たちと出会ってから考え、アテレコで作り上げた脚本だったから快諾した。彼女はこう言った。『私の記憶を物語に落とし込んでほしい』と。できるだけ精密に彼女はお前と出会ってからの日々を語ってくれたよ。そうすることで彼女は、水杉に期待してたんだよ。現実にお前の感情を落とし込んで、より高みを目指した演技を。
──椎名空とわたりあう演技を」
空が。
あの椎名空が。
僕と演技をしようとしている。
最高のフィナーレを目指して。
稽古のときの空は苦しそうだった。儚く散ってしまう花のように、今にも崩れ落ちそうで。それでも頑として板から降りようとしない。僕と向き合ってくれる。逃げたりも、隠れたりもしない。彼女はいつも孤独に板の上で待っているんだ。
「続ける」
僕は足を立てる。力を込めて。
精一杯の彼女の誠意に、答えなければならない。
彼女の孤独を晴らしてあげたい。
「僕は、彼女に応える」
念じよう。彼女への期待を超えるように。彼女に好意と尊敬を抱いて。
立ち上がった。
二つの足でしっかりと板を踏みしめる。
僕は再び歩き出した。
そして、次のシーンのト書きである、実際の記憶を辿った。
椎名空を怒らせてフレンチレストランから飛び出して、彼女は帰路についた。僕も慌てて彼女を追って交差点に入っていた。人々が行きかう中、彼女の背中を見つける。黒いワンピース姿とほっそりとした痩せた彼女の姿は、見間違うはずがない。僕が駆けだそうにも歩行者が遮り、なかなか背中にたどり着けない。それはおろか、ぶつかり「すみません」、次にぶつかり「急いでいるんです」、なぜか人と当たり続ける「お願いです、行かせてください」。まるで誰かが仕組んでいるかのように。僕は手を伸ばす。今彼女に追いつけなければ一生会えない気がしたから。
一言、なんでもいいから謝らせてほしかった。なぜ僕の発言がいけなかったのか、理由は後から考える。今は彼女の気持ちに寄り添えない自分自身に腹が立つ。そこへ彼女のもとへたどり着けない急ぎが重なりよけい焦燥感が積もる。
彼女への気遣いが気持ちを逆なでしたのは重々承知していた。なぜ僕は彼女の執着するものへの配慮が足りないのだろうか。執着を、否定してしまったのだろうか。
それは彼女があまりにも苦しそうだったから。
ケーキを大事そうに持ったスーツ姿の男が横切る。幸せそうなカップルが僕のことを見向きもせずに通り過ぎる。親子連れが、僕に子どもをぶつからせないように引き寄せる。交差点の信号が青のままで、白黒の停止線を踏み越える。車のテールライトが人々の影を伸ばしていた。僕と彼女は一人だけ影が濃く際立つ。板の上、彼女と僕は、たった一人。現実でもそれは同じだろう。
彼女は、僕よりも才能があるから。
影はよく際立つし、光はより輝いている。
僕は妹に言われたことがあった。幼い頃狂ったようにビデオを巻き戻していた。まだあの頃はDVDもでていなかった。ブラウン管テレビの前でおりこうさんに。中の彼女は誰よりも目を惹く。ここで彼女はターンする。ここで彼女はスポットライトを浴びる。ここで彼女は瞬く。頬を、肌を、と暗唱できるまで頭に叩き込む。そうして一人ぶつぶつと同じことを繰り返す。彼女にも誰にも届かない演技を。子役としての演技だから男女差もほとんどない。一本仕上げるごとに妹に見てみてと披露した。
同じタイミング、同じ発生方法、同じ演技の表現方法。
彼女に恋焦がれ始めていた。
──さみしい。
妹が僕の一通りの演技を終えた後、目じりに小さな雫が光った。
──お兄ちゃんの、その演技さみしいよぉ。
次に妹は瞬き、顔を赤らめて唇を引き締めて、こらえようとしたけれど瞳に宿したため池は飽和状態だった。すぐにダムは決壊し、濁流となって滝のように水を放流させた。水滴は雨となって、窓を叩き天すらも僕の演技に涙を流す。湿り気のある室内はくぐもり、お天道様は悲しんでいた。妹は呼応して泣き続けた。
「空は、舞台の上で寂しかったんだ」
誰も彼女のほかに相対するものがいない。現実にも、虚構の中ですら。耳が聞こえず、誰の声も聞こえないから彼女のより孤独による寂しさは助長する。
「僕がいてあげたい」
今にして彼女のことがわかった気がした。
わかっていなかった。
僕は耳が聞こえるっていうのに、彼女のハンディよりも恵まれているのに、だからこそ気づかない孤独に気づいてあげられなかった。
「空」と呼んだ。聞こえないけれど、彼女の名前に手を伸ばす。
「空!!」
交差点を抜けて彼女は駅構内に駆け降りる。僕も後を追って走り出す。
彼女の傍にいたい。孤独な彼女は死のうとした。どんな理由かはわからない。でも、傍にいて、空のことを支えたいのだ。エゴだろうとかまわない。僕の感情は踏みとどまれない。僕のこれは、恋なんだから。
階段を降りて地下鉄の改札ホールに。開けた広場には大きなテレビモニターがあり、でかでかと空が演じるはずだった劇の宣伝CMが流れていた。液晶モニターの粒一つ一つが目に飛び込み、一瞬たじろいだ。この冬、舞い降りた悪魔と謳い文句に別の女優を紹介される。
『
本当はこの悪魔の役も椎名空が演じるはずだった。
視線をモニターから下げる。
その前で椎名空は寒そうに腕を抱きしめて、震えながらうずくまっていた。
──あぁぁあああぁ
悲痛なうめき声が漏れ出る。鼓膜が削られていく。喉元がしぼられる。目を閉じて背けたくなった。想像もしたくない事実が突きつけられる。忘れるなと、僕がしたことを彼女の叫びで思い起こされる。まるごと罪として飲み込んだ。舌に残る苦さが、痛くて仕方なかった。
もう白状してしまおうか。いっそ彼女に嫌われたほうが楽になるだろうか。
僕が水杉彰です、と。
彼女の気持ちが楽になるなら。
僕は彼女の肩に手を添えようとした。
こん、こん、とその時かすかな鍵盤をたたく音がした。
モニターの音に割り込み、ピアノの音が鳴り響く。グラデーションのように色とりどりの音が響き、一気に叩き落す。音は弾かれて矢継ぎ早に次の譜面へと移る。その前に空と僕はピアノの音へと顔を向けていた。
駅の改札広場にストリートピアノが設けられていた。弾いているのは黒いズボンに黒いニット、黒いコートを着た青年だった。髪は肩にかかるくらい長く、顔もよく見えない。鼻っ面だけが前髪から覗く。彼は歌うように体を揺らしながらピアノを弾いた。右に左に揺れながら、時折神様に祈るように見上げる。音は快活に。飛んだり跳ねたり。彼女の嗚咽は吹き飛んで、僕たちは聞き入った。知らず知らずのうちにピアノへ歩み寄り、二人で彼の演奏の前に立ちすくんでいた。
なんの曲かわからないが、僕の心を踏みとどまらせるには十分な陽気さをはらむ。こん、こん、と鍵盤をたたくにつれて笑みを体に内包させていった。
演奏が終盤になり、名残り惜しそうに彼は鍵盤に指を吸いつかせて、湿っぽい音を押しなべる。僕たちの寂しさと呼応して、交差して、髪がゆれ覗く瞳が僕たちへ視線が突き刺さる。
そして、鍵盤から手を離した。
「こんなところで巡りあうなんて運命としか思えない」
青年は立ち上がり、他の人を払いのける。
周囲を見渡すと知らず知らずのうちに人が寄せ集まっていた。携帯のカメラが青年に向いていた。パシャ、パシャ、とシャッター音が鳴っていた。空はそんなこと気づいていないから、僕だけがシャッター音の鳴った方向へ顔を向けて反応してしまう。青年は音も何もかも無視して空の前に跪く。顔の髪を払いのけて、
「椎名空、お目にかかれて光栄だ」
脚本家、
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