④ 空の激情

 椎名空の家は、他の俳優のように高層マンションビルに住んでいるとされていた。週刊誌、パパラッチ、噂オタクのタレント、あらゆるところから総計して彼女を追っている芸能界ジャーナリストは鼻高々にそう言っていたけれど、実際はお金持ちが住んでいるような都会の高層マンションではなく郊外のなんの変哲もない一軒家に住んでいた。僕が彼女と出会った終電ホームからさして離れていない、いわゆる閑静な住宅街の一つ。豪邸とは言わない。でも僕のぼろっちぃアパートよりは、やや広めだった。空はそこで足を止めて、片手間に「ここが私の家です」となんの気なしに告げた。

 僕は彼女の裸足の素足が地面に軽く着地し、振り返って足を擦る音に耳を澄ませていた。こちらを向いた彼女の手には重そうに骨壺を抱えていた。コサージュは頭の上で重さをはらみ彼女の頭をもたげさせる。ぎゅっと骨壺を抱きなおして、

「あ・き・ら」

 奇遇ですね、といわんばかりにたっぷりと僕に向けて、視線を注いだ。何秒もの間、僕と彼女は目を合わせ続けていた。背筋に古びた時間が駆けずり回り、いっそ処刑してくれといわんばかりの焦燥の汗が浮かんでくる。

 わたしの父をこけおろした俳優と同じ名前ですね、と動き出した彼女の感情に首に縄がかけられる。僕に言及するまであと何秒だろうか。僕に殴りかかるまであと、どれくらい僕は彼女に告白する余地が残っているだろうか。ずっとファンでした。ずっと画面向こうのきみを見ていたんです、それが純粋に今は受け取ってもらえるか。僕はそれだけで満足するか。

 椎名守を追いやったのは、僕のエゴだった。きみを想ってやったんだ。

 この言い分は通じるのだろうか。

「ここが私の家」

 だが、僕の焦燥とは裏腹に彼女はきっぱりと僕との線を引いた。

 街灯が彼女の姿を照らす。僕には夜の暗がりに潜まり行き場をなくす。

「お・や・す・み」

 虚空の瞳は、どこまでも深く。中身を悟らせないように彼女は演技を続けていた。僕にかまうな、と警告をする。知っているからこそ、なのか。でもそこで終わるなんてできなかった。たとえ、彼女が傷ついたとしても。僕の中の好意はもう引き返せない。

「待って、明日きみに僕はまた会いにくるから」

 僕は彼女へ距離を詰めて、手首をとった。彼女は口をもごもごとさせていたので、もう一度彼女に見えるように街灯の下へ歩みを進めて同じステージに上がる。僕だって俳優だ。彼女と同様に現実だってかっこつける演技を続けてやる。

 大きく口を開けて、

「死んでほしくないから、会いに来る」

 そのときできる精一杯の告白を。

「ご勝手に」

 彼女は鼻で笑ったけれど、僕は次の日も彼女に会いに椎名家のインターフォンを鳴らしたのだった。


 郊外には何もないから彼女を市街地に連れ出した。以前から彼女と行きたかった、演技に役立つであろう普通を散策するのが目的だった。ジャンクフードを食べにハンバーガーのチェーン店に行って、分厚い肉をたべたり、ポテトを一本一本丁寧にとって加えたり。スイーツを食べたり、彼女が選ぶ服を眺めたり。まるでデートだと思っていると、店員さんが「彼氏さんですか」と言って、僕は微笑ましくなる。

 その間も、彼女は間に親の記憶を挟んでいたが。

 ハンバーガーのお店に入っても、

「グラコロとポテト」と注文し「父が食べていたから」と。

 服を選んでいても、

 シックなワンピースを試着して黒いパンプスを履き「母が好きなワンピース」と。

 僕と二人で並んで歩いていても、

「三人でこうして歩いたことを、覚えてる」と。

 周囲のがやがやとした賑わいをよそに彼女の一言で一気に静けさが蘇る。

 彼女の耳にしか入らない思い出という切っ先が彼女自身を突き刺していて、僕はどうしようもなくなる。そういったものを僕は捨ててきていた。過去にこだわるほど生産性がないことはない。引きずるよりも自身の人生を大切に生きたほうが得じゃないか。

 それに椎名守は空にはいらない存在だった。彼女の演技を濁すのなら、こうして思い悩むのなら、

「忘れろよ、そんなこと」

 さんざんいろんなところに連れまわして、最後の夕飯に僕は安めのフレンチレストランに入った時だった。前菜の豆のスープをすくいながら、僕は知らず知らずのうちに言葉を吐いていた。気づいたときには遅く、彼女のテーブルクロスは真っ赤に染まっていた。からんからん、とワインの入っていたグラスが横に倒れていた。続けて銀食器が床にはねた。彼女の黒いワンピースには赤のしぶきが飛び散っていた。

 そこにいる彼女は、頬杖をつく。僕への怒りもあるだろう。だけど、にっこりとほほ笑んで、彼女の言葉でしっかりと口にする。

「薄情者」

 彼女の言葉は誰よりも、僕の中に突き刺さった。

 うっすらと影のある微笑みに食欲が消えうせる。背筋に伝う汗は冷えているのかぬるまっているのかわからない。感覚が遠のく。目の前の彼女は僕の瞳を逃さぬよう一心不乱に見つめてくる。吸い込まれるほどの大きな瞳を見つめ返してしまう。まっかな唇を震わせて、涙を伝わせて。

 瞳の奥にひっそりと青い炎が灯っていた。

 

 会話の掛け合いのシーンの幕が上がる。

 ハコの中を案内したあと、青と空は二人で帰路についていた。ハコの照明が昼の澄み切った空の陽光から、寂しげな茜色の夕色に変遷していく。紙袋に染みた赤色に物寂しさを感じる。このハコはなぜか郷愁を沸き立たせる。胸のわだかまりを増幅し、ある日の記憶を呼び起こす。僕は必死になって落ち着けていくうちに、海の波風が漂い、次第に流れるかすかな波音が記憶を凪いでくれる。

 空の家に着いたシーンにたどりついた時にはすっかり記憶は霧散し、海風いっぱいに浴びた体は夜の暗闇に落とし込められる。積み木のような白い四角の家々に電灯がともりだす。四角い窓からぱっとつく明かりに生活に触れているような身になった。

 空の家のキッチンに立ち、蛇口をひねり、水を手に浸すとすぐにそんな生活も僕の中からすっと消えた。ハコの外に不安は置いてきた。青が僕の中に入り込んでいる。

 ハコの市場で買ってきた野菜や肉を鍋に入れ煮込み、簡単に知っている料理をつくる。ありあわせの皿を取り出して、煮込んだものを注ぐ。人工甘味料と野菜や肉がまざりあい、白いスープが出来上がる。ハコの外ではシチューと称されたもの。今日買ったパンをつけて、三人分の皿を食卓へ運んだ。

 帰宅してからも、空はじっと骨壺を見続けていた。空にとって母親の存在がどれほど大きかったのか、それだけでも深く理解できた。今朝の冗談交じりに言った言葉を後悔し始めてきたころ、僕は空の制止を振り切り三つの皿を食卓に並べた。いやいやながら、空は骨壺の前に置かれたシチューを見て、手を合わせ祈った。深く、深く。かぶりを大きく。コサージュがもたげるまで。

 食卓にパンのバスケットを中央に置いて、傍らに白紙の紙とボールペン。白い紙にぽとりとシミがつく。とん、とん、と徐々に増えだし、静かに空は涙を伝わせる。

 唾を飲み込み、

「つらいことからは逃げてもいいんだよ」

 僕は慰めにもならない言葉を彼女の目の前に置いた。

 空の息がすぅ、と吸われて、呼吸が止まった。時が止まったように制止する。ぴりっと、肌にやすりを当てられ擦られるような空気が入り込む。たった一言、僕の言葉が彼女をかりたてる。丸い水晶玉の瞳がてらてらと光っている。覗き込むと黒く冷たい水晶玉の中に青い炎がともり揺らいでいた。止まった時間を炎がゆっくりと溶かしていく。

 ふっ、と今度は息を吐きだして、彼女は笑みをあざ笑い、怒りの掃きだめを場に埋め尽くした。口角を極端にあげて、目を上弦の月のように細めて。俯きながら頬を橙に灯して。

 そしてすぐに笑いをかき消して、口を結び見下す。これまで下げていた顎を上げて。灯した肌の橙を凍えるような青白い肌へと変貌させる。さっきの燃え滾るような炎が水晶玉を溶かして。瞳の端から涙が一滴熱のこもった輝きが頬を滑り出す。

 肝が冷えるような怒りに思わず体が震えだす。場が蠢きだす。足元がぐにゃりと隆起して、立てなくなる。

 目の前の彼女の圧に負けてしまいそうになる。

 あまりの激情。彼女の怒り。

 現実よりも如実に滲みでているそれは、ハコの外よりもリアリティに満ちている。

 空の口が嚙み締められて、初めて空のきちんとした声がとどろく。

「薄情者」

 空を見ている誰しもが、顔を背けてしまいそうになるほどの怒気を帯びた言葉。彼女のたがが外れていることなど、知っているはずだった。目の前にいる才能に満ちた彼女に、どうやったら僕は立ち向かえる。どう、僕は彼女と同じ土俵に立てる。

『記憶をなくし、感情をなくし、青は薄情になったんだろうね』

 空のセリフは背後のモニターと同時に彼女の声から発せられる。険しい表情で改めてペンを持ち直す。その手は怒りで手を握りしめすぎて血を流しているかのように錯覚させられるほど震えていた。間近で見ていなくても、彼女の握りしめた拳は血を我慢していることが伝わるほどの迫力を見せていた。

『忘れてしまったら、お母さんは誰にも記録されない。それは、耐えられない。悲しいことだよ』

 何度も稽古の時、舞台裏で、僕へと発せられたその言葉には純粋な彼女の憎しみが込められていた。

 演技をしていても、忘れられないことがある。忘れてはいけないものがある。

 だが、演技だから忘れられることもあって。

 僕はそのことをここで込めなければならない。パッチワークじゃなく、僕自身の感情を舞台のセリフにのせて告げるんだ。

『きみがつらくてつぶれてしまうんなら、忘れた方がいい』

 なんで、僕の声は情けなく彼女に発せられるのだろうか。

 これでは伝わらない。

 薄っぺらい言葉が空のぐずぐずになった紙を避けて震える手で消えていく。

『私がつぶれたとしても、忘れたくない』

 悲鳴に近い言葉が圧し掛かる。どれだけやっても、その感情や執念は消えない。空は消してはくれない。大切なもの、として心に置いてしまう。彼女にとって思い出が大切なように感情も彼女は胸にとどめる。胸に手を当てて、服をぎゅっと絞り込む。頭をふって大きな演技をすることで、情動を魅せる。伝った冷ややかな涙がスポットライトで輝く。

 対して僕は静の演技。第三者から見れば彼女の言い分は過去に固執する子ども。忘れたくなくても忘れてしまう諦念と哀愁を、日常動作をしながら諭すように言うことで憐れさを背負っていることを示す。そうして空をちっぽけな存在だと観客に見せるのだ。彼女はただ大人に噛みつく子ども。その二人の二律背反といった衝突が起こる。

「きっと時とともに消えていくさ」

 なのに、なぜか僕の言葉は、どうしようもなく軽い。 

 空は机をたたき、椅子を後ろにはねのけて立ち上がった。ペンは机の上から転げ落ちて、シチューは空っぽの骨壺にはねた。バケットから食パンが零れ落ちる。視線をあげると、空が口から煙のような息を立てて、僕に冷たい表情を向けていた。唇をかみしめて「ぅう」と獣のような音が漏れ出る。

 紙とペンを必死にたぐりよせて書きなぐる。

『記憶がないから言えるんだよ』

 言われた通り、青は空っぽさ。

 僕だって空っぽだ。

 僕自身の今の感情をこめればいつだってこうだ。今の僕を彼女にぶつけたいのに。過去の記憶なんて引き出さずとも、僕は。


「ごめん」


 言葉が飛んだ。

『カミサマは、そういう集まりなんだ』というところを、僕は悔しくてたまらず謝ってしまった。これは彼女の演技についてこれなかった、僕の不甲斐なさが一強してしまった結果だ。演技に戻れない。椎名空と僕として向き合ってしまう。

 彼女の感情にどう対応したらいい。どう見せたらいい。わからない。

 空は僕をにらみつけて、立ち止まった。ペンの書きなぐる音も、彼女の呼吸音もやみ静寂が立ち込めた。動きがにぶくなり、僕の体もうまくいうことができなくなること数秒。

 空が勝ったかのようにほっこりと笑顔を咲かせた。

「わぁ、かた」

 空が放った一言で、ようやく僕は目の前のスプーンを手に取れた。空の演技をちらちら見つつシチューをすくいとる。いくらか空は僕の様子を見てため息をつき、椅子に座りなおした。バケットの食パンを鷲掴み、シチューにつける。空が何かを食べるところを、このハコに来て初めて見せた場面だった。興味津々に彼女の口にする食パンを見つめる。小さな口が開き、食パンを入れて、歯でかみちぎる。皮の厚さを感じないくらいに。もぐもぐと、口の中にまだパンが入っている状態で、ペンを力強く握りしめて、

『私、働くことにする』

「まだつらいはずじゃ」

 言葉が薄く心配しているはずの言葉が場をするっと滑っていく。

『ちょうど仕事決まってなかったし』

「でも」と僕は彼女の聞こえない声を発し続ける。


『忘れないために』


 彼女は力強い瞬きをした後、鋭い光を丸いに瞳にためこみ、僕を眼光で委縮させる。突き刺し演技をぼろぼろにしてしまうほどの意思。

 ──今日のこと忘れないでね。

 椎名空が僕に告げていたことを思い出す。脳内を揺さぶり、影として残り続けるこの正体を、僕は知っている。僕も記憶にすがっているんだ。だから、この会話の掛け合いで空に宿った熱にやられてしまう。

 彼女の宣言の下に僕は、

「きみが、生きら、れるのなら」

 紙の上の甘い言葉をなぞってしまう。

 完敗だった。

 太刀打ちできず青の哀愁も、カミサマという存在の大きさも、ちっぽけに見えてしまう。今も食卓の上のパンを頬張り、彼女は滔々と涙を流し、瞳には彩の強さをたたえている演技がなされている。最初のもろく儚げな光はこぼさず、瞳にしっかりと蓄えて飲み込んでいることに驚きを隠せない。どうしたら、そんな表情や演技をできるんだろうか。

 暗転してやっと、僕は膝から崩れ落ちることができた。天才の本気に、天と地の差を押し付けられて、うずくまる。顔を手で覆う。悔しくてたまらなくて、声を出さず口内でうめいた。

 舞台が始まる前、彼女は僕に妖艶に言ったことを思い出した。

「今日のこと、一生忘れないでね」

 彼女の隣に立てると思った自分が浅ましくて、情けなくて、ただただ呆然と心が立ちすくんでいる。彼女の前に跪き頭を下げたくなる。「もう一度お願いします。僕にチャンスをください」そういいたくなるのを噛み締めた。

 うん、今日、共演したこと忘れないよ。

 だって、こんなに悔しくて演技をすることに挫折しそうになっているのに、どうしてだか、それでもきみの才能に触れられたことに心底狂喜しているんだから。

 僕は、彼女のことを真の髄まで愛してるんだ。

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