侯爵様と婚約したと自慢する幼馴染にうんざりしていたら、幸せが舞い込んできた。
和泉鷹央
第1話
その時、招かざる客を見たという顔を、ユーリアはアグネスに向けた。
ああ、やっぱりそうか。来ない方が良かったかもしれない。
アグネスの心の中に小さく灯っていた危惧の炎は、盛大に燃え始めていた。
「まあ、本当にいらしたの?」
「そうだけれど……」
三日程かけて辺境の地からやってきたかつての学友アグネスを、パーティーの主催側であるユーリアはそんな言葉で出迎えた。
あなたから招待状を送り付けてきたのよね?
来なくてもよかった、と言われているようで。
いや実際にそう言われた。
言われたからそう確かめて、どういうことなんだと叱りつけてやりたかった。
「まあ、どうぞこちらへ」
「どうも」
こちらへと言われたってもうそこはパーティー会場の中だ。
家の玄関口で、ユーリアとその夫になる予定の男性、ロアン侯爵は来客を出迎えていた。
それはパーティーのホストに与えられた役割で、これをこなすことができなければ訪れた人間は祝福をせずに帰宅することになる。
若いカップルに与えられた社交界への入り口。その試練といってもいい。
そんな場所でさっきのような発言はあまり賢くないと、会場に通されたアグネスは思った。
「わざわざ三日間もかけてきてくれるなんてありがたいわ」
「友達だから。婚約したと手紙で披露宴に誘われたら行かないわけには、いかないでしょ?」
「えー……そうね。選別したつもりだったんだけど」
選別? と何か失礼な単語を耳にした気がして、アグネスは眉をひそめた。
何でもないとユーリアは言い、そして、ロアン侯爵を紹介してくれた。
「彼っていい男でしょう? 見た目も素晴らしいし、爵位だって申し分ない。そう思わない?」
「……ごめんなさい。私にはどうでもいい話だわ、とりあえず婚約おめでとう」
なるほど、外側ばかりにしか興味がない友人にはぴったりな相手だったらしい。
悪口を言うのもなんなので、とりあえず祝辞を述べた。
祝いの品は会場は中に入る前に、伯爵家の執事に渡してある。
もうここで帰ってもいいかなと思うようなそんな雰囲気だった。
「ねえ、アグネス。すごいことだって思わない?」
「何が?」
「私、ロアン侯爵様と婚約したのよ。貴方のような無能で下賤な女にはこんな良縁来ないわよね、残念ー!」
「口の悪さは命の短さを招くかもしれないわよ。こんな場所なのに。もうちょっと気をつけて」
そう、忠告してやるとユーリアだけでなく、ロアン侯爵もまた不機嫌そうな顔になる。
お似合いのカップルだ。
そう思い、次の来客に向けて彼らが視線を外すと、アグネスはさっさと会場の奥へと向かった。
少なくともそこならばまともな貴族の方々がいるだろうと思ったからだ。
しかし、その予想はあえなく覆される。
「どういうこと?」
誰に問いかけるでもなく、少女はそうつぶやき会場をぐるりと見渡した。
侯爵家と伯爵家の婚約披露宴とあって、会場の中は多くの来客と多くの引き出物と多くの料理を運んだり給仕をしたり、音楽を奏でたりする家人で賑わっていた。
こんなに賑わいのある場所はアグネスの短い人生の中では二度ほどしか、体験したことがない。
どちらも卒業した王立学園のもので、一度目は入学式。
二度目は、卒業式だった。
あの時は王族だの、他国からの使者だの見知らぬ国の来訪者がアグネスとユーリアたちの卒業を祝ってくれた。
二人は同じ学校の同期生。
その縁で今回、ユーリアが侯爵家の当主と婚約した披露宴に招かれたのだが……。
「やっぱりくるべきじゃなかったかしら。あの手紙を読んでくる気になった自分もバカね」
訪れている来客の多くは年配の方ばかりで自分と同年代の男性はほぼほぼ見当たらない。
それどころか同期生には上級貴族の子弟子女もいれば、下級貴族のそれらもいたわけで。
あいにくと、下級すぎる自分には縁がない場所かもしれなかった。
周りを見渡しても自分の父親と同じ男爵位を持つ友人・知人はとりあえず見当たらない。
見当たらないというよりは招待することを渋ったのだろう。
ユーリアが。
「あの子は外見や地位や名誉にばっかり目が行ってしまって大事なものは何も見えてない」
これは誰の発言だっただろうか。
今ここにいない騎士の家の娘だった同期生が言っていたかな、とアグネスは思い出す。
だが、会場の中には下級貴族の方々もどこかにはいるわけで。
その人たちは会場の隅にひっそりと、身を隠すようにして座っていた。
アグネスはボーイからお酒の入ったグラスをひとついただくと、そちらに向かって歩き出す。
「まるっきり逆じゃない。侯爵様と伯爵様の未来が透けて見えるみたい」
アグネスが普段住んでいる城塞都市の中にある城では、身分ある方々は会場の奥へと行くものなのだ。
パーティーの主催者はそこにいる。
ホストになる者たちも、その後ろにいる権力者達もそこにいる。
そのはずなのに、この伯爵邸では真逆にしか見えない。
「お嬢さんもこちらにいらしたのかね?」
初老の老人がそんな声をかけてくれた。
彼の隣にアグネスは腰を下ろす。
そこには数人掛けの長椅子があり、彼以外には誰も座っていなかった。
「私も、と言われますと?」
「いやいや、わしも何と言うか。あまりここにきても喜ばれないようなそんな身分だからの」
ほほっ、と老人はブランデーの入ったグラスを傾けながら寂しそうにそんなことを言う。
アグネスは自分のグラスを彼のグラスに少しだけ傾けてカチンと音を鳴らし挨拶をした。
「そうですか、それではこちらにいらっしゃる皆様方全員が?」
「まあ、そんなとこさな。偉そうな文章で自慢ばかりをする手紙で、呼び寄せられた連中さ」
彼も本当は来たくなかったのだろう。
しかし、手紙の主は侯爵だ。
その威厳には逆らえなかったのかもしれない。
そう思うと、端に四つ五つばかりもある長椅子や、四人がけのテーブル席に座った老人ばかりがなんだか哀れに思えて、アグネスはその場にいた皆様に軽く会釈を一つする。
「ありがとうなお嬢さん。この場所が少し華やいだようだ」
「いえ。私も望まれずにやってきた者の一人ですから。さっきそんなこと言われましたので」
「そうか。あの馬鹿どもはそんなこと言ったか」
「ええ、だからさっさと飲み食いしたら帰ってやろうと思います」
「そうだな。それがいいかもしれん。しかしどちらからお越しになられた? わしはこの王都ではある程度知られた顔だ。出入りする場もそれなりには多い。お嬢さんのように良い雰囲気を持つ女性のことなら忘れるはずはないのだが……?」
老人は齢を重ねた証として顔も広いらしい。
「西の方から参りました。セダスの市長が父です」
「ああ、トゥボル男爵の娘か」
「ええそうです。アグネスと申します。今夜のホストの片方、ユーリア様の学友です」
座ったまま軽く挨拶をする。
「あーあの。あの娘には学院を卒業する価値はなかったかもしれんな」
老人はどこか皮肉げに笑ってそう答えた。
「かもしれません。ここは場所が普通の社交界とは真逆のようですから」
「違いない」
ははっとしわがれた声で彼はそう笑っていた。
賑やかなのは手前の会場ばかりで、奥に行くにつれて喧騒は薄れていく。
本当ならばこの奥の方に身分ある人達が集まるべきなのに。
どうやら伯爵様は娘と同じように頭の中身は空っぽのようだった。
「どうかな? 王都は?」
「王都は好きですが、ここは、ちょっと……」
「それは間違いない。さて、どうだろう。わしの孫が来ているのだが恐らく同年代だ。相手をしてやってくれないかね?」
「お孫様、ですか。それは構いませんが」
老人はそう言って会場の賑やかな方ほうへと歩いて行った。
多分、その孫とやらを探しに行ったんだろう。
自分と同年代と言われても、アグネスは少しばかり困ってしまう。
十七歳の自分と同じくらいなら、もうそれは結婚していてもおかしくない年齢だった。
男性の場合は特に、結婚は早い。
この王国ではそれが当たり前だった。
「もし、既婚者だったら後から色々まずいなぁ」
と、見知らぬ孫に対する懸念を感じながらお酒を口にしていたら、老人とともにやってきたその姿を見てアグネスの目は驚きのあまり点になってしまった。
こちらに向いて歩いてくる黒髪に薄いブラウンの瞳の彼。
黒いタキシードをそれとなく着こなしている青年は、王国貴族の子弟子女の間では知らない者がいない、有名人だったからだ。
「どうしよう。お酒飲んじゃったじゃない……」
自分の顔は赤く火照っていないだろうか。
母から譲り受けたデザインの古いイブニングドレスはこの場に恥ずかしくない格好だろうか。
髪型は今の流行に合わせてきちんとセットアップされているだろうか。
化粧は? この瞳と髪色は? 自分の外見は……?
そんな今更どうしようもないとりとめもないことが、大量の疑問符とともに頭の中で溢れ出してはどこかに消えていく。
「やあ、お嬢さん。さっき言ってた孫だ。すまない相手をしてやってはくれないか?」
「え、待ってください。その……」
老人は孫を押し付けてそう言うとさっさと姿を消そうとする。
去っていくその背に向けて差し出した手はあっけなく空を掴んでいて。
困ります。
その一言は言えなかった。
「あー……その、迷惑、かな? えっと、そう。俺はレスター。君は?」
「いえ、迷惑なんかじゃ。アグネス、です」
頬が火照ってしまい、何をどう話したらいいのかと心が焦ってしまって次の言葉が思いつかない。
目の前にいる彼は、この国の第二王子その人だった。
*
「婚約したんだ。へえ……」
急に王都へと向かうことになった。
セダスの城塞都市に住む市長の娘、アグネスは貴族の子弟子女が通う王立学院の同期生だったユーリアから報告の手紙を受けてそんな言葉を漏らしていた。
あの子が。
外見だけは凄まじく良いけれど、実家の爵位を振りかざし、性格は最悪だったあのユーリアが。
婚約するなんて。
「世も末ねえ」
なんて感想を手紙を半分ほど読み上げてから、述べてやる。
自室で机に向かい久しぶりに送られてきた友人からの手紙には、自慢と自慢と自慢と。
まあ、自慢しか書かれていなかった。
それと、素晴らしいでしょ? あなたには永遠にやって来ない幸福を私は手にしたのよ、とか頭の悪い女が書き連ねた悪口にしか思えない言葉を並べ立てているのはさすが、腐っている中身をお持ちというか。
「馬鹿が丁寧な文章を書くと、ちぐはぐで困るのよね」
我ながら素晴らしい罵詈雑言だと思う。
アグネスは前半の自分に向けた悪口と、後半部分にある格式ばった丁寧な文章の対比を嘲笑う。
ちょっと性格が悪いかなと思いながらユーリアの顔を思い浮かべてやれやれと首を振った。
手紙の書き方ぐらい王立学園で学んだのだから、当たり前だ。
知識とは品性の曲がりくねった性格すらも表さないようにすることができるので大したものだ。
「婚約披露宴に招待しますからどうか我が家にお越しくださいませ、ね」
どんな招待をしてくれるのか楽しみだ。
亜麻色の髪の少女は席を立つと、階下で仕事に勤しんでいる父親を訪ねることにした。
王都に向かう、乗合の馬車は空いていた。
とはいっても貴族たちが利用するものだ。
貧相には見えなかった。
「気をつけて行っておいで。ユーリア様の御実家、バルク伯爵様には我が家も色々とお世話になっている。決して粗相のないようにな」
「分かりましたわ、お父様。決して、我が家の恥にならないよう務めて参ります」
そんな会話をして馬車に乗り込んで三日目の朝。
アグネスは王都へと到着した。
途中、危険な目にあうこともなく、落ち着いた旅程だと思えた。
あの旧友と顔を合わせる不快感。
それだけを除けば、まあまあ悪くない旅だった。
「食事の味はイマイチだったけど。市民達と話をするのは悪くない」
途中の駅舎で口にしたそれぞれの地方独特の食事とその席で交わされる商人や、土地の者との会話は、若いアグネスの見聞を広めるにはまたとないチャンスだった。
学院にいた頃からユーリアは我がままでお嬢様で人を見下す性質が多分にあった。
そんな相手ともう一度顔を会わせることは、あまり気分がいいものはなかった。
けれど、いつか自分も夫を迎えるのだと考えたら、披露宴というものを一度ぐらいは体験しても悪くないと思ったのだ。
ついでに、全寮制の学院は王都にあり、今でもその時の友人たちはそこに住んでいるはずだったから、彼らを訪問するのも悪くないと思えた。
「そうは言っても、あの子。自慢しかしなかったのに、どうやって年上の旦那様を迎えるような段取りを取ったのかな」
と、疑問が頭を過ぎる。
まあ、ユーリアの実家は王都でも名だたる名家だ。
どうにでも都合はつけたのだろう。
そんなことを考えていたら学生時代に言われた、様々な悪口とは本人が思っていない悪口が脳裏を占める。
「あなたなんてどんな化粧しても美しくならないわよ、元が悪いもの。家だって格が足りないし、この歴史と伝統のある王立学院に、貧乏貴族の娘のあなたがいること自体、品位が下がるわね。だからせいぜい頑張って努力しなさい。そうしないと、ここじゃやっていけないわよ」
励ましなのかそれともバカにされているのか。
まあ、ユーリアはそんな性格だった。
だから彼女の周りには機嫌を取る取り巻きしかいなかったし彼女の事を本当に愛する男性も現れなかったのだ。
いつもいつも恋人が欲しいと寮の部屋でぼやいている彼女のことを思い出し、アグネスはくくっと笑ってやった。
「外見ね。確かに、外見は宜しくない。家の格もー……」
確かにユーリアの実家は伯爵家で、男爵令嬢のアグネスとは家柄では比較にならない。
容姿もあちらは貴族によくいるブロンドにアイスブルーの瞳、神話の女神のような顔立ちだし、白磁のような肌に豊満な肉体と素晴らしいものを持っていた。
対して、アグネスは背も低いし貴族には珍しい亜麻色の髪だし、瞳の色も黒。顔立ちは悪くないかもしれないけれど、ソバカスも多いしスレンダーすぎる肉体には……男性はそそらないだろう。
*
そんな下級貴族の自分が何をまかり間違ったか王子様。
この国を統括する王族の一員と言葉を交わす日が来るなんて。
「悪い夢だわ」
「酔ったか? 外の風に当たりたいなら、連れて行くけど。どうする?」
「お構いなく。お酒には弱くない方だから……」
ただね、と酒の勢いで本音をぼやいたのか、どうしても言わざるを得なかったのか。
今からしてみれば分からない。
「ただね。あのバカップルを見ていたらいろいろと、腹立たしくなってきて。学院の同期生なの。家柄が低いだの、外見が悪いだの散々馬鹿にされて。今さっきだって」
と、思い出したらあまりにも悔しかったので泣き言を言ってみたら、意外にもレスターはよく分かる、と頷いていた。
王子様にこんな下級貴族の娘の心がわかるわけがない。
そう思ってみたら、レスターとロアンは従兄弟同士だった。
「あれの。侯爵殿の性格の悪さと人柄の悪さは、親戚の間でも有名だ。見てるこっちが恥ずかしくなりそうで情けない限りだよ」
「王族が親戚の悪口を言っていいの?」
「こんな場所だからね。別に構わないさ。誰かが聞いて告げ口したところで、こちらの方が格上だ。気にすることはない」
「あなたもそうやって格式で話をするんだ。私もう、帰ります。今夜はどうもありがとう」
「待ってくれ! 何か気に障ったなら謝る……」
「いいえ、結構!」
ひょっとしたらとんでもなく失礼なことをしたかもしれない。
今から思い返すと間違いなく失礼なことをしていた。
ヘタをしたら王族に対する反逆罪を適用されたかも……しれないことを言い、その場を後にしてホテルに戻ったことをアグネスは覚えている。
侍女も連れず、一人で故郷から王都へとやってきた彼女にとって、朝の淑女の支度というものは手間がかかって仕方がないものだった。
そして、何を考えたのか彼がいきなりやってきたことも……また、想定外だった。
ドアがノックされた。
こんな早朝からどこの誰がやってきたんだろうと思ってアグネスが扉を開けると、そこにはレスターがいた。
「あれからあいつらの相手をしていてなんだか無性に腹が立ってさ。そうしたら君のことを思い出した。祖父に頼み込んでどこのホテルに泊まっているかを調べてもらったんだ」
「誰よ、お祖父さまって……」
「いや、誰というか。祖父は大公なんだが。知らなかったのかい」
「あの場所にいたのが、前国王の王弟だったなんて、いい悪夢だわ」
はあ、とアグネスの口からため息が漏れた。
とんでもない出会いだと思ったからだ。
幸運? そんなことがあるはずがない。
父親からきつく言い含められていたことを思い出す。
失礼のないように。男爵家に恥をかかせないように。
「……どうしよう。大公様にどう謝罪すれば……こんなことになるなんて、私」
「あー……祖父は君と出会えたことを喜んでいた、と言えば救われるかい」
「そんな嘘。すぐにばれるわ」
「真実だよ! 俺は嘘を付かない男だ」
「どうだか……嘘を言わなくても、淑女の泊まっている部屋を挨拶もなしに訪ねてくるなんて、作法がなってない王子様だと思いますけれど」
まずは誰か挨拶に寄越すべきだ。
王族がいきなり誰かを訪ねるなんて、この国ではあり得ない話だった。
もしあるとすれば?
考えたくないことだけれど。余程気に入られたか、それとも――死罪を与えるほどに怒りを買ったか。
思いつく者はそのどちらしかない。
頭が痛い。
朝から偏頭痛に似た物を感じながら、アグネスは彼を見上げてそう言ってみた。
そうしたら、レスターときたらとんでもないことを言ってアグネスを驚かせたのだ。
「実は、あのさ。昨夜のお詫びを言いたくて、少し考えたんだ。どうして君が怒ったかを。それについて話をしたい。どうだろう、朝食を一緒に食べて貰えないだろうか?」
「えっ、そんな。王族に食事の席に招待されるのは名誉ですが、その場に着ていくべき服も……用意をする家人もおりません。何より、それこそ事前連絡が必要じゃないですか。第一、何を考えているんですか。あなたは国の要人ですよ、お供も連れずにこんな場所に来るなんて!」
「君が―ー」
「はあ?」
「君が俺をどうこうしようと考えて近づいたとか、考えていないよ」
「それはっ。そんな大罪を考えるはずが……もし、そうだとしたら不用心すぎます!」
そう言ったら彼はさもおかしそうに笑うのだ。
自分の心配などしていないように。
「そんなことはまるでつまらないことで、大事なことはそこじゃない」
「じゃあ、何が大事だと言うのです? あなたは大事な存在なのですよ」
「ありがとう、アグネス嬢。その忠告は痛み入る。以後は気を付けよう……だが、今大事なことは俺のことじゃない。貴方の尊厳を傷つけたことだ。機嫌を損ねたからじゃない」
「ふうん。なら、どうだと言われたいのですか? この室内着のままで扉の前に立つのも幾分、恥ずかしいのですけれど?」
謝罪しにきた、とはレスターは言わなかった。
安易にそんなことを言えば、アグネスはさっさと扉を閉めて彼を追い返しただろう。
だが、話をしたい。そう言われるなら……まあ、聞いてやってもいいかと思ってみたりした。
しかし、彼を扉の向こうで待たせるのも無作法だし、かといって室内に招き入れることはもっとふしだらだと言われるだろう。
王子に恥をかかせることにもなりかねない。
「朝食をお望みなら、ホテルのレストランでお待ち下さいな。参りますから」
「そうか、済まないな。恩に着る」
そんなことを言い、これから彼とは後で食事をする約束をした。
いやいやいや。
王族がだめでしょう、そんなに軽薄に女性を訪ねて食事に誘うなんて。
あの時そう言って断っていたら、多分、今の自分はいない。
あの時、断らなかったから。
教会の神父の目の前で自分達は夫婦になろうとしている。
親戚になるはずのロアン侯爵夫妻は、なんだったか。
夫が事業に失敗して、多額の負債を抱えてしまい夜逃げしたんだかしなかったんだかという話をレスターから聞かされた。
まあ、どうだっていいのだ。
下級貴族と馬鹿にされ外見が悪いと罵られたそんな自分にも、こんな素敵な相手が来てくれたのだから。
人生には素晴らしい出会いが待っているのかもしれない。
これまで苦労した分を、馬鹿にされて見下されてきた分を。
全部ゆっくりと彼とともに取り返して行こうとアグネスは心に誓い、結婚したのだった。
侯爵様と婚約したと自慢する幼馴染にうんざりしていたら、幸せが舞い込んできた。 和泉鷹央 @merouitadori
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