第9話 ハロルド市奪還
本体の到着後すぐに、騎士たちを参集して軍議を開いた。
斥候の話では、敵軍を押しのけ、ハロルド市に到達した蛮族たちがそのまま城市に襲撃を掛けている。一刻も早く、城市に向かうのだ、という私の言に、ボードワンが意義を唱えた。
「居城を得たのです。皇帝の布れに従い、ここで進軍を止めるべきです」
騎士たちは、目を伏せた。誰しもの心の底にそれはあった。だが、それを明言する者は、彼以外には存在しない。私は、すぐさま反論する。
「城市は、存亡の危機なのです!民が敵軍と蛮族に襲われているというのに、後数時間の距離に居ながら、それを見過ごすわけにはいきません!そもそも、今ある二万の兵たちも、そう、ここにいる皆も含めて、民を救い敵軍を排さなくば、じきに食糧が尽きて飢えるのです!蛮族の略奪から逃れた兵站をいくばくか得ましたが、流通と生産が耐えたままでは、この程度の量ではすぐに底を尽きます。ジャンロベールの試算では、持って二ヶ月。しかし、これも早急に城市で飢えた民たちに提供せねばなりません。今ある食糧はすぐに尽きるのです!明日の食すら危うい状況である以上、皇帝軍の命には従えません!」
「しかし、これ以上の進軍は言い訳が効かなくなりますぞ!敵軍と停戦協定を結び、我が軍も聖戦に参列するべき、いや、それが西方諸国の君主たる者の責務でございます。どのような理由があろうと、それはこちらの勝手な事情と捉えられても仕方がないのが、聖戦という総動員令なのです。周りの状況も視野に入れねば、立場が危うくなりますぞ」
一同を見渡した。皆、私の反応を伺っている。表情を見るに・・・彼の意見に賛成六割、といったところか。戦神アドルフィーナの司祭であるボードワンの言葉は、時に人の長たる君主の言葉をも上回る影響力がある。信仰とは文化であり、道徳であり、教養でもある。人の生きる道を説くその教義において、時代ごとの首長の存在は時と場合により、無力と化す。
「皆、よく聞いてほしい。知らぬ者もいるだろうが・・・ここには、私を神へと昇華せしめんと目する者たちがいる」
ボードワンは突然の展開に狼狽えた。
「神の言葉ならば聞けるが、人のままの私の言葉は聞けぬというのか?」
「そうだ!すでに姫は、我れらの王だ!王は人のままであってはならぬというのか!?」
スタンリーが立ち上がって叫んだ。
「王を僭称するなど、君主会議を敵に回すつもりか!?立場のある者が、滅多な言葉を吐くでないぞ。しかし、今の争点は、そんな次元の話ではない。我らが忠誠は誠のものだ!だが、我らだけの姫であって良いのか?西方世界は、この千年の間、新たな神の降臨を欲しているのだぞ!」
「家を断絶させる事になる!そうなれば、アマーリエの地はどうなる!?」
「大局を見れん輩が、人族の神を語る資格はない!」
ボードワンとスタンリーの古参同志の言い争いに、ミュラーもイレス、イーサンも面食らっていた。ギレスは腕を組んで目を閉じている。ロロは私の次の発言を静かに待っていた。
「でも・・・私はそれでも良いと思っています。世間知らずの小娘の私が、神になれるなんて、本気で考えているわけではありませんが・・・その時がもし訪れようならば、それは身に余る栄誉であり、私に何ができるのかは解りませんが、それは、きっと皆のためにもなる事だと信じます」
スタンリーが愕然と応える。
「姫、貴方は・・・その歳になるまで、ずっとそうやって生きて来られた。もう、貴方を縛る者はおらぬのです。もう、貴方は立派な一人の大人だ。貴方自身の幸せを選ぶべきです。人を捨ててまで、永劫の刻の中で、周りの期待に応え続ける事はない!」
スタンリーの目は潤んでいた・・・それが、貴方の本心なのね・・・ありがとう。
ジャンロベールとオラースは隣同士に座り、険しい顔で何かを話している。彼らはやはり、スタンリーとは違う立場のようだ。
「ちょっと、何の話をしているのですか?神とかどうのって、皆さん、正気ですか?それとも、何かのお芝居ですか?」
そうね、ミュラー。私も同意見だわ。
ボードワンが咳払いでミュラーを制し、言葉を続ける。
「誰しもが望みながら、久しく千年。未だ戦記に記された神々以外に、神格化を果たせぬまま、人族の世界は後退を続けております。姫こそ、最もその可能性に近しい存在であらせられます」
「ならば!この私が改めて告げます。戦闘は続行します」
「・・・し、しかし、それには、相応の対処を講じねばなりません。ただ、続行するの一言だけでは困るのです。神殿も信者の指示を失います」
「教国は、何を教える国なのです?神殿は、何の声を代弁するのです?言わんや、皇帝軍のその存在意義は!?皇帝こそ、私の意には背けぬはず!」
恥知らずな尊大な言いぶりなのは、自分でも判っていた。流石に、一同は言葉を失う。
「しかし、まだ、姫は神ではあられぬ!人の身で神を語るなど・・・」
極刑ものね。
「ええ、その通り。しかし、でもね、貴方がたが約束してくれるのでしょう?この私を神にすると。私が望もうが、望むまいがお構いなしに」
「・・・そのための布石は、すでに御身の生まれる前より。そして全力で、父君の遺志を継ぎ、その実現のため、これからも尽力いたします事を我、信仰に掛けてお誓い申し上げます」
「その時が来るというのならば、一時の過ちなど、誰が追及できましょう?」
誰も、その時がいつになるのかなど、明言はできまい。全ては絵空事。しかし、その幻想も現実世界で役に立つ事もある。全ては棚上げに、私のあゆむ道は、踏みつける大地と屍は、神格化へのステップだと言っているのだ。なんとも下衆な言い分ではあるけれど。
「姫、危険な方向へ意識を向けられますな。もちろん、それが本心でないことは、長年お側におりました私めには理解できます。どうか、誤解されますな。それなりの対処を講じていただきたい、そう申しておるのです」
ボードワンは、声を沈めてそう返した。雲行きが怪しくなる事を恐れて、強行姿勢を緩めたのだ。そう、初めからそうしていればいい。
「皆さん、なにはともあれ、です。姫のご下知に従わぬとあれば、軍律に従っていただくまでのこと。騎士は牢獄よりも、馬上にあるべき。さぁ、先の事は兎も角、ハロルド市は炎上し、兵たちは食料もない。敵の包囲を解消してから、優位な立場で停戦交渉をすべきでは?皇帝からの命は、男爵たちにも下っているはずです。彼らとて、早急に事態を収束したいはず。互いの立場を明確にし、停戦交渉へ導きます。彼らは、必ず応じます」
ロロ=ノアの透き通るような声は重苦しい会議の場に、まるで春風が吹いたかのようだ。
「参謀として、僕も意見を言っても良いかな?当事者の僕たちは、目の前の事態と現実によって、思考に鎖がかかってしまう。だから、一度目線を変えて欲しい。今の僕たちの行動が歴史の一ページになり、後世の人から論ぜらている状況を想像するんだ。今の辺境騎士団の動向が、岐路に立たされているのは間違いない。それも、二律背反の状況だ。だけれど、ここで多様な状況変化に対処しておく必要は絶対にある。一つの選択だけでは、必ず足元を掬われるよ。後世、大学の講堂で、あの時、こういう手だってあったのに、と年端も行かない学生に言われてしまうのだけは、避けようじゃないか」
ミュラーの遠回しな語りが、騎士たちの頭に、冷却する時間を与えたようだ。
同じ参謀としての責務を感じたのか、ギレスブイグが挙手して案を発する。
「ミュラー殿のご意見は最もだ。しかれば、軍の一部をすぐにでも皇帝軍に合流させるべきだろう。具体的には千でいい。食料は最低限、合流した途端に、補給を催促しよう。誠意は伝わったが、ありがた迷惑だと思ってもらうのだ。その頃合いが丁度良い」
「既成事実を作りながら、本格的な合流には時間がかかる事情を認識させるという事ね。妙案だわ。この作戦には、猛々しい武将をあてる必要がある・・・オラース、貴方が適任よ。貴方なら、精兵を送った私の意図が皇帝にもよく伝わるわ」
オラースは、キョロキョロと周囲を見て慌てた。
「おい、そんな貧乏籤は御免だぞ」
「おやおや、二万の全軍の存続と、ハロルド市を奪還する作戦を支える、とても大事な任務を貧乏籤とは、オラース卿ともあろう方が見る目がない。それとも、双肩にかけられた重責に怖気付いたのですか?よもや、一人では寂しいと?」
ロロ=ノアが大仰な驚きようで、揶揄してみせた。オラースはむむむ、と唸りながら、ジャンロベールを見る。ここまであからさまに師弟関係を表されて、ジャンロベールも居心地が悪そうだ。仕方なし、と肩をすくめてうなづき返す。
「ロロ=ノアよ!軽口で俺を皆の前で辱めたことは忘れんぞ!だが、異論はもう述べまい。このオラースがしかと演じて見せようぞ!」
「その折には、最大の敬意を持って、このロロ=ノアは本日の無礼を謝罪するでしょう」
「よし!確かに聞いたぞ!忘れるな!」
机をばんと叩いて立ち上がると、オラースは軍議を退席する。その背中を追うように、ミュラーが慌てて声をかけたが、彼は振り向きもせずに怒鳴り返した。
「詳細はすでに心得ておる!子ども扱いするな!」
話の流れを利用して、厄介払いは一つ叶った。手下がいなくなったジャンロベールは、果たしてどんな動きを見せるのだろうか。
「念の為、皇帝軍の集結地点を彼に伝えておきましょう。姫からの書状も持たせておきます。彼の頭が冷えた頃にね。参謀たちのご意見は?」
ロロの問いかけに、ギレスとミュラーは賛成だ、とだけ答えた。
「ボードワン殿、よろしいですね?ここで軍を止めては、飢え死にする者が増えるばかりです。もちろん、私たちもそれに含まれます。姫はその状況を改善するまで、延期すると申しておるのです」
「承知した。対処した以上、神官や信者にも説明の仕様がある。もはや、異論は申さぬ」
ロロの念押しに、ボードワンは完全に折れた。
「満場一致ね。城に補給部隊と工兵のほか、オラースが残す一千の歩兵を守備軍としてイーサンに指揮を任せます。周辺の住民たちを保護しつつ、城壁の補修作業に努めて。二角の構えとして、ケレンは二千五百の兵と共に、いつでも進軍できる状態で駐屯して頂戴。先発は、ジャンロベールの重装歩兵。ワルフリードとミュラーは、歩兵二千ずつで中軍。私は千を率いてジャンロベールの後ろに付く。しんがりはスタンリーの騎兵。出立は明朝とする!以上」
早春の冷えた朝靄の中、緩やかな丘陵地帯を辺境騎士団は静かに進軍を続けた。
草木の中で囀る早起きの鳥たちの声を、武装した兵たちの歩む音と、馬のいななきが重なる。かつては美しかった緑豊かな丘の道も、度重なる行軍により泥濘の道と化していた。陽が登り、午前の明るさが辺りを照らし始めた頃、集落に差し掛かった。ハロルドと城の間にある村の一つだ。かつて私が、戻った折には名付け親になる事を、名も知らぬ母子に約束した村だ。一時の休息に借りた家屋は、焼けて半壊していた。村には、誰の姿もない。
「蛮族を見つけたら、首を落とせ」
ギレスが村を捜索する兵たちに命じる。
「報告!すでに首を落とされた蛮族が三匹、ほかには、半ば白骨化した村人が数十人ほど確認されました」
蛮族は、先行しているジャンロベールの部隊によるものだろう。白骨化した死体は・・・二年前のものだ。
「先へ進みましょう。左右からの襲撃に警戒を厳とせよ」
ハロルド市までは、残すところ徒歩で三時間、そこまで来て進行方向に敵軍がすでに展開していることが判った。斥候たちが順次に報告に戻ってくる。ここは背の低い丘陵が多い。敵が分散して潜伏していないか、何度も繰り返し哨戒させる。
「報告!先鋒が会敵!クリューニ、ランゴバルドの連合軍、およそ一万が行手を阻んでおります。我が先鋒は、横縦列の方陣を形成中!」
「敵との距離は?」
「およそ二キロ」
「ワルフリードは後方左翼、ミュラーは後方右翼へ展開」
伝令がたちが慌ただしく動き始める。十分ほど軍を進めると、整然と列を成す先鋒の軍団に追い付いた。左右の離れた位置に、緩やかな丘がある。そこに登れば、馬二、三頭分の高さから敵軍を望めそうだ。だが、少し距離がある。先鋒とあまり離れるわけにもいかない。仕方がないので、鞍の上に立ち上がり、遥か前方の軍影を望む。近衛たちが慌てて駆け寄り、馬が動かないように手綱を取り、左右から手で支えた。心遣いは有難いが、馬が嫌がって逆に揺れる。
「混成部隊のようだけれど、兵は集結しているわ。まさか、こんなにも早く対応して、会戦に望んで来るとは思ってもいなかった」
「城から逃げ出した兵から、情報を得たのでしょう。挟撃を避けるため、一気に蹴散らそうという腹づもりかと。となれば・・・」
「ハロルド市は、まだ陥落していないのね」
ロロが旗の紋章を端から読み上げ、家門の特徴も簡潔に添える。彼女は、鞍に座ったままでも旗の紋章を読み取れるのだ。
「しかし、ハロルド市がまだ蛮族に襲われている場合、城市からの援軍による挟撃は望めません。丘陵地帯ですが、ほぼ平原と言っても良いでしょう。ここで、雌雄を決することになります。旗印は、どれも古参の傭兵団のもの。主力と見て間違い無いでしょう。兵数は、ざっと一万二千。数では互角のようですが・・・」
「・・・ですが?」
「姫のお見立ての通り、馬の数が極端に少なく、人馬の混成軍となっています。おや、早くも前進を開始したようです。気が早いですね」
遅れて、角笛の音が響いた。
「二年越しの再会だと言うのに、前口上も無いの!?イレス、前に出て」
「直ちに!アドルフィーナのご武運を!」
弩兵と弓兵たちを連れて、イレスがジャンロベール指揮下の重装歩兵の列の中に消える。
「第四行軍速度の合図です。よほど急く理由があるのか・・・あるいは、威勢を張ってこちらの士気を測ろうというものか」
それにしても、前口上も睨み合いも無し、というのは何とも口惜しい!この時をどれだけ待ち望んだものか!叩きつけてやりたい言葉は、いくらでもある!復讐心のラベルを貼った私の引き出しには、たんまりと在庫を用意してあると言うのに!
いくらかぬかるんでいても、進軍しやすいなだらかな道だ。停止するつもりが無ければ、十数分後には、両軍は激突する。
「敵軍の両翼に騎馬兵がいない。ギレスは、どう思う?」
「再編成する時間が無いからと、理由を付けたいところですな・・・むぅ。左右の丘が邪魔ですな。ここの丘は草に埋もれた岩が多く、足場が悪い。展開しづらく、ここからの見晴らしも悪い。少し前に出るべきかと。ちなみに、右の丘の奥には林がありますぞ」
地勢を知るギレスは、そこに敵騎兵の伏兵がある可能性を示唆したのだ。
ロロが引き継ぐ。
「野伏を左右の丘に放ちましょう。スタンリーは、まだしばらくの間、近衛の後ろを維持させてください」
彼女が手信号だけで指示を出すと、レオノールは隊を二つに分けて左右の丘を、外套を靡かせて颯爽と駆け登って行った。
「伝令!城に向かいケレンに出撃を命じよ!」
会戦になった以上、兵力差がものを言う。
「全軍、第一行軍速度。五百歩前進せよ!」
角笛が鳴らされ、兵たちがゆっくり前進を開始する。三分ほど経ち、行軍停止の合図が鳴った。私は、最前列のジャンロベールの脇まで馬を進める。相棒を左遷させれた騎士は、額に汗をかき、神妙な面持ちで私を迎えた。
「敵は前進を止めません!間もなく衝突します!」
私は彼に馬を並べて、首を捻った。
「今日は、馬上戦闘用の拵えなのね。やっぱり、パヴァーヌ出身の騎士には、それがよく似合うわ。敵の動向だけれども、彼らも皇帝軍に加わる前に、片を付けておきたいのでしょう。ゆっくりしていては、背後をハロルド軍に挟撃されるかも知れないしね。ところで、貴方はどうなの?まさかとは思うけれど・・・貴方は男爵軍とは戦いたいくはないの?」
「何と言いますか!?とんでもありません!例え、我が家門を敵にしても忠誠は尽くします!ましてや、ランゴバルドやクリューニなどに、手心を加えるはずもありません!」
「そうね。失言を詫びるわ。貴方が、あまりに覇気が無かったから心配になったのよ。心配性なのは知っているけれど、指揮官が弱気になれば兵にも伝播します。しっかり頼みますよ。貴方の武勇に期待しています」
「はっ!肝に命じます」
彼の従順な態度を見ても、私の不信はやはり拭えない。それには、ある事柄がどうしても頭から離れないからだ。
私は手綱を叩き、さらに前進し最前列から抜け出すと、自軍に対峙する形で剣を抜き放った。
「古参の者たち、そして新しき戦友たちよ!グラスゴーの重装歩兵たち!辺境より集結した選りすぐりの剣士たち、そして弓兵たちよ!山の民の猛者どもも聞け!この戦の後、辺境はその名を返上する!我らは西方諸国に劣らぬ強国となるのだ!列強に肩を並べる日が、今この時に、まさにこれから訪れようとしている!もはや、我らは蔑みを受ける片田舎の民ではない!辺境とはもう誰にも呼ばせはせぬぞ!この日だ!この時だ!今、まさに我らの命運が決まる!諸君らの子孫代々まで語り継がれるであろう戦だ!命を惜しむな!名を惜しめ!もはや我らは辺境にあらず!辺境にあらず、だ!」
辺境にあらず!辺境にあらず!辺境にあらず!
兵たちが連呼し、盾を叩く。
私は馬を走らせ、重装歩兵たちが掲げた穂先に、次々と魔剣の刃を当てて行く。
「剣の巫女の加護が着いているぞ!槍を並べろ!弓兵、構えよ!」
私は荒げた息を整えようと、ふと深呼吸をした。そこで、私の後ろでギレスブイグが馬を歩かせながら、何かを土に落としている姿を見た。
「・・・何しているの?」
「貴方は、いつも私の作業を邪魔してくれる・・・しばらく、歩兵を前進させないように」
ぶつくさと、何かを呟きつつ、一つずつ小瓶を放っているようだ。
なるほど・・・いつぞや見た、制御の難しいやつだな。
「茨の構えで迎え撃て!」
大きく息を吸ってから号令をかけた、まさにその時、私の耳は、尾を引くような高い音が、空を流れてゆくのを捉えた。振り返ると、敵兵たちは草を巻き上げて眼前まで迫り来ている。
「射撃開始!」
一斉に弦が鳴り、無数の矢が飛んで行き・・・次々と敵兵の体に突き立ち、彼らを転倒させた。
「ギレス、早く戻って!第三射の後、投石!両翼前進、半包囲せよ!」
私はギレスと共に兵たちの中に戻り、近衛に合流する。
「ロロ!今のは!?」
「左の丘から鏑矢です。スタンリーを向かわせます」
「お願い!」
野伏たちが何かを発見した。最もリスクの高い可能性は・・・敵別働隊が我が軍の後背を突こうと、丘を迂回している!
前線はすでに槍の叩き合いが始まっていた。突き合い、ではない。長槍は騎兵の突撃を防ぐために重宝するが、歩兵相手になるとその扱い方が異なってくる。強靭でしなやかな柄を利用し、反動をつけて上から相手の兜を叩くのだ。まともに食らった敵兵が、板金の兜を凹ませられ、壊れたかかしのように倒れる。脳震盪か、悪くすれば頭蓋が砕ける。長い槍は柄がしなる分、突きの威力は半減する。相手が勢い良く突進して来てくれる騎兵と違い、歩兵相手では叩く方が効率的なのだ。最前線では互いの槍がぶつかり合い、人が通る隙間もない。
長槍の数では、こちらが有利だ。敵は混成部隊で装備も揃っていない。血気盛んな敵兵が、槍を剣で叩いて突入を試みるが、弩を食らって倒れる。弓兵も投石兵たちも、ギリギリまで前線に張り付いて応射を止めない。
「矢を防げ!」
ギレスがよく響く声で合図を送った。空高く、前線の敵味方を飛び越えるように、大きな弧を描いて無数の矢の影が迫り来る。近衛たちが馬を寄せ、盾で私の身体を守ってくれた。カンカンッと、盾や甲冑に矢が弾かれた。本隊の歩兵たちも盾を構えて、これをやり過ごすが、何人かの肩や腿に矢が食い込んだ。私の馬が、びくんと震える。見渡すと、腰の防具、グラッパーに鏃が半分埋まった状態の矢があった。それを引き抜いてやり、馬をパンパンと叩いて労わる。馬の防具は巨大な分、重量を軽くするため人間のそれよりも薄く造られている。疲労に直結する首の周りのクリネットも、軽量化のため指で押せばたわむほどの厚さしかない。
「大丈夫よ。大した怪我ではないわ。後で仕返し、しましょうね」
敵の斉射は、等間隔でしばらく続けられた。
『とこしえの闇に眠る魔界の王たちよ!我が血族の盟約に従い、煉獄の洗礼をもたらし賜う』
ギレスが地の底からの唸りのような、ドスの効いた声で何かの呪文を唱えた。
・・・ややあって、地面が浮き上がるほどの衝撃と爆音!!
赤い閃光を纏った炎の壁が前戦を覆い、巻き上げられた草と土が、空から矢の如く飛来した。あまりの衝撃に、皆、身を屈め、そしてそれがギレスの魔術だと悟った時、大きな歓声に変わった。
「油断するな!敵は魔術に慣れている!すぐに反撃が来るぞ!」
炎の壁はすぐに消え失せ、代わりに白い煙が一同を襲った。煙が薄れると、抉られた大地と、焼けた草に混じり、倒れた敵兵の影が姿を表す。その敵の体と土を踏み締めながら、後続たちが突進して来る。
すると今度は味方の重装歩兵の列に、突如として火柱が上がり、数人の身体が炎に包まれた。次はこちらの番、とばかりにクリューニ男爵軍の魔術師たちが応戦してきたのだ。だが、ギレスの魔術のような豪快さは無く、すぐに魔術の攻撃は途切れた。私は魔術合戦を初めて垣間見た。こればかりは、城の家庭教師も教えてはくれなかった。だが、もう終わりなのだろうか?ギレスがそうであるように、魔術は連発が難しいのかも知れない。だとすれば、魔術による攻撃は即死を免れない脅威ではあるが、戦においてはさほどの威力はないと言えるのかも知れない。直接的な攻撃よりもむしろ、橋を落としたり城壁を破ったり、堀の底を焼いたりなどの破壊工作や計略にこそ向いていると思う。さらに言うならば、霧を生んだり雨を降らせたり、そういった類の魔術の方が、よほど脅威的な魔術と言える。
しかし、その迫力には改めて肝を冷やした。まだ少し、手が震えている。
まるで晴天の霹靂であるかのような魔術の応酬は、しかし束の間の出来事で終わり、兵たちの槍と剣が、再び戦場の主役を張った。
依然、剣の時代というわけね。
両翼を担うミュラーとワルフリードの歩兵団が敵の両翼を半包囲せんと前進を再開した。これを防ぐため、敵軍は徐々に薄く、横に伸びていく。
「ジャンローベル!押すな!前進せず、留まって応戦せよ!伝令、伝えよ!」
「いかん、数が多い。第二小隊から第五小隊、私に続け!姫、兵を借りますぞ!」
突如、ギレスが号令を発し、本隊のほとんどを反転させた。丘の影を利用し、後背から現れた敵の騎兵部隊は、スタンリーの騎兵と交戦に入った。しかし、全容を表した敵騎兵は、スタンリーの騎兵部隊よりも、三倍ほども多かった。騎兵千五百ともなれば、大戦力だ。まだ、こんな力を維持していたとは・・・。
私はやっと理解した。
会敵の際に、口上も無しにやにむに突進してきたのは、このタイミングを合わせるためだ!重装歩兵の後ろは、接近戦が苦手な弓兵と、本隊の千人のみ。今まさに、本隊は挟撃されようとしている。
「パヴァーヌの軽装騎兵です。練度が高く、厄介です」
紋章官は瞬時に敵軍を把握した。
すでに軍事同盟を・・・いや、初めからか・・・。
「ギレス!スタンリーに合流して!敵の足を止めるのです!」
「承知した!」
パヴァーヌの騎兵たちは、辺境の騎馬兵たちを数で圧倒し、しかも熟達した槍術で安定した戦いを見せている。
果たして、防ぎ切れるか・・・。
ほぼ同数の敵相手に、前線は全て会敵状態だ。辺境からの市民兵たちは、傭兵たち相手に想定以上の健闘をしていた。だが、まだだ。優劣が表面化するタイミングではまだない。ここで、一部にでも反転を命じれば、たちまち全体に混乱が広がり、一気に敗走へと転じかねない。スタンリーは馬上で奮闘し、敵を一時足止めしたが、パヴァーヌ軽騎兵の後続がそれを迂回し、ギレスの迎撃隊に雪崩れ込んだ。
「いけませんよ。前線を反転させれば、その時点で大敗は必須です。ここが分水嶺です。歴史上の女性指揮官は、ここで大抵逃げ出しています。貴方は、彼女らと違い、まだここに立っているだけの度胸はおありですかな?」
ロロの囁き声が、耳元で囁かれた。彼女は隣で馬を並べているが、その小さな声は戦場のうねりのような音にかき消されるはずだった。魔法の囁き、とでも言うべきか。
「私は女である前に、武人です」
ロロは仰々しく、お辞儀を返した。
「それでこそ、我が君。ならば、本調子でないまでも、私めもグリゴア殿に負けぬよう尽力せねばなりませんね」
そう言って彼女が手を振ると、敵の騎兵たち横一列が次々と浮き上がり、人馬もろとも転倒した。転倒した者は、あるものは馬の下敷きとなり、ある者は負傷し、そしてある者は駆け寄った辺境騎士団の兵に串刺しになった。しかし、大勢に影響を与えるほどでは・・・ない。
「まぁ、私程度の力では、この疾風が限界ですが・・・」
えぇ・・・もう、終わりなの?ギレスといい、ロロといい、意気地がない。
私は小姓の手から短槍をもぎ取ると反転し、迫り来る敵傭兵の喉を串刺しにした。それを抜き取ると、次の敵兵に馬を向き直し、首元に突きを入れる。だが、相手は槍を下から合わせ、私の突きを上へいなしながら同時に脇の下を狙った。槍をこねって巻き返し、その突きを外へ反らせながら、再び首元を突いた。たった、ふたテンポの攻防だが、敵の傭兵たちは戦慣れしている事が知れた。一気に前線を抜け、私を狙った残る敵集団は、近衛たちによって露払いの洗礼を受けた。重装歩兵たちの列が乱れ、隙間ができ始めている。
半包囲が完成する前に、袋が破けるかも知れない!
重装歩兵の部隊から、先ほど送った伝令が息を切らせて戻って来た。
「ほ、報告!ジャンロベール卿が指揮を放棄、敵方に“合流“しました!」
「追従した者は?」
「え?いえ。誰もおりません。“お一人で“行かれました!」
ついに、ジャンロベールは本性を表した。私の警告を受けて、思いとどまるかとの願いは、叶わなかった。彼は、パヴァーヌが送りつけて来ていた、父の代からの内通者だったのだ。
「ご苦労。私が行くまで、アッシュが指揮を継ぐように告げて」
伝令が再び戻っていく姿を目で追いかけて、その途中で更なる異変に気がついた。
右手の丘の上、何かの影が見えた。
それは、空に飛び立つ、トラツグミの群れだった。
激動の戦の最中、それは対象的に静かな光景だった。
まるで、絶望の来訪を告げる、神からの印でもあるかの様に、私は感じた。
「レオノールが戻ります」
ロロの言う通り、丘を戻る彼女の姿があった。
彼女は息も絶え絶えで走り、手を大きく振ると、何かを叫んでいるようだった。
「何と・・・?」
ロロに問いかけて、思わず息を呑んだ。
レオノールの背後、丘の影から騎馬が現れた。最初は一頭だったそれは、一頭、また一頭と増えてゆく。そして、追従する軽装備の歩兵たちが現れる。まるで堰を切った洪水のように、続々とその数を増し、ついにレオノールに追いつき、そして彼女を追い越してゆく。距離にして、およそ二百メートル。何をする間もない。すぐにでも、本隊に到達する距離だ。
嗚呼・・・ついに進退極まった。
前方には一万二千の人馬混成部隊、左後方からはパヴァーヌの軽騎兵千五百。そして、新たに出現した右後方からの混成部隊、その数は、三千、いや五千はあるかも知れない。ギレスの千人足らずの歩兵では、もう盾にもなるまい。城からの増援が到着するには、まだ時間がかかる。
両男爵は、兵の増強にはぬかりが無かったというわけね・・・。
私は二人が共に、傭兵隊長で成り上がった武人である事を、どこかで軽んじていたのかも知れない。
人馬の一つがレオノールの側に止まり、彼女の手を取って鞍の前に引っ張り上げた。
・・・あれは?
私は、その騎兵の姿に、衝撃を覚えた。
見覚えのある顔だった。
幼少期から通して、見たこともない甲冑姿ではあったが、彼女の顔は・・・見紛うこともない。
エルフの少女を乗せた騎兵が、随伴兵たちに合図を出すと、ギレスの隊を取り囲むパヴァーヌの軽装騎兵たちを急襲した。
「援軍・・・援軍だ!」
私は思わず、うわずった声で叫んだ。
その騎兵は、私の前まで単騎のまま駆け寄ると、レオノールを下ろしてから、自らも馬を降りて跪いた。
「義勇兵八千名、アマーリエ様の軍に合流いたします。どうぞ、ご下知を!」
私は飛びおるように馬を降り、兜を脱ぎ捨てると、彼女の手を取って抱き合った。
「よくぞ無事で、サンチャ!会いたかった!」
生まれた時から私の世話を焼いてくれた、唯一無二の友にして、侍女のサンチャ。城の寝室で別れた以来、二年ぶりの再会だった。
「アマーリエ様もよくぞ、ご無事で。まぁ、もう。兵の前でそんなに泣かれてはいけませんよ。皆が動揺します」
サンチャの頬は、柔らかくて温かかった。
「良かった、無事で。本当に、心配だったの。ねぇ、どうして、貴方が兵を率いているの?」
彼女は、優しい微笑みで私の涙を拭ってくれた。その表情は、私の知る彼女よりも、だいぶ、やつれていた。その手は、固く荒れ、たこがたくさん出来ていた。きっと、多くの苦労があったに違いない。
「話せば長くなりますので、後ほどゆっくりと」
「再会の感動をお邪魔いたします。ご婦人とお会いするのは、これで二度目ですね。援軍の到来に心よりの感謝を。アマーリエ様、前線で動きがあるようです。騎乗を」
小姓に騎乗を手助けしてもらい、兜を受け取る。
味方の重装歩兵の列の先に、敵兵たちの影が見える。
「良く見えないわ」
「移動しましょう。こちらへ!丘の上は、もう安全です」
サンチャをパヴァーヌ騎兵の対応の指揮に戻らせ、ロロと近衛、伝令たちを連れて足場の悪い丘を登る。指して高くは無い丘だが、自軍の前方の様子と、遠くに煙を上げるハロルド市の姿を視認することができた。
私は目を見張った。それは、黒い一軍だった。男爵軍の後背を黒い肌、黒装束の大集団が襲っている。
「まさか、あれは・・・」
私は訳が解らなかった。
「蛮族たちです。大小合わせて、一万は下るまいかと」
ロロは冷静に答える。
まるで、黒い濁流のようだ。無数の小さな鬼たち。かつて山道で会合した巨大な蛮族の姿もある。剣や槍を振るい、人族の軍隊を呑み込んでいく。仲間が倒されるのも構わず、何かに取り憑かれたかのように、あるいは人族への憎悪を剣に込めるかのように、猛り狂いながら。
私の積年の恨みも、人生を投じても成し遂げようと願った事を、蛮族たちは野蛮な闘争心で、いとも容易く成し遂げようとしている。
私の想いも知らずに。
台無しにしようと言うのか・・・。
私は目眩を覚え、馬越しにロロ=ノアに支えられた。
「蛮族たちが、全てを消し去ってしまうわ。敵の軍勢も、私の兵士たちも・・・」
ロロは何も答えない。
私はここで、ようやく理解した。男爵軍が急いでいたのは、ハロルド市の軍に挟撃される事を避けるためではなく、城市を襲っている蛮族軍が転進してくる事を恐れたためだ。
やがて、伝令が丘を登ってやって来た。
「ミュラー卿より伝令!敵軍後方に蛮族襲来!突破した者が我が軍も襲っています!交戦目標を蛮族の駆逐に変更されたし、とのことです」
すぐには言葉が出なかった。蛮族は人族共通の脅威だ。その対抗策のため、諸王、諸侯らも同族間の恨みを忘れ、手を取り合うのが鉄則である。ましてや、今は聖戦が布告されている。答えは明確だった。だが、言葉を喉から発するには、激しく苦痛を伴った。
「伝令・・・全軍に通達。占領軍との交戦を中断し、攻撃目標を・・・蛮族に変更せよ」
苦戦から一転、思わぬ援軍により光明が見えたと思えたのも束の間、決戦の行方は霧の中に沈み、うやむやに終わってしまう。それどころか、蛮族軍を無事撃退できる保証すら無い。
まさか、占領軍と手を取り合っての戦闘になろうとは・・・私の人生を賭けた争いが、こんな結末になろうとは・・・私は唇を噛んだ。
前線に進む気力も失せ、ただ、黒い濁流のうねりを丘の上から見守っていた。
「姫、あそこに。騎士の姿があります」
ロロが指を差した先に、一騎だけ人族の黒い騎士の姿があった。
ハルトマンだ!
やはり・・・彼が率いているのだ。この蛮族たちを。この一万を越える野蛮の民を。首を切らねば復活してくる、不死の軍勢を彼が、彼の身体に巣食う赤い悪魔が。
彼は、丘の上の私の姿を認め、ハルトマンがかつてそうしたように、貴族的なお辞儀をしてみせた。
「撤退するようです」
黒い騎士は馬の腹を蹴り、北へ走り出す。黒いうねりの半数がそれに追従し、まるでパンを引きちぎるように、分裂した。
何処へ行こうと言うの?ハルトマンの身体を、何処へ連れ出そうとしているの?
あぁ、行ってしまう・・・きっと、もう会えまい。
彼は何も告げずに、丘陵の影に消えて行った。
戦闘に猛り、ハルトマンの制御から離れた、残り半数の蛮族たちの掃討は、夜になるまで続けられた。
男爵側の損害は、半数以上を失う壊滅状態だった。近くで彼らを見れば、会戦開始時にすでに多くの者が負傷し、損耗していた事が知れた。装備も乏しく、糧食も個人携帯分しか持ち合わせていなかった。我が軍と対峙した時には、いよいよ進退極まれり、の心境だったに違いない。
彼らは降伏を申し出、保護を求めた。傭兵団の指揮官たちを集め、占領軍の状況を聞き出す。すると、彼らの口から出た内容をつぶさに受け止めることが出来ず、私は夜空の星々を見つめながら、ゆっくりをその言葉を心で反芻し、自分に言い聞かせねばならなかった。
ランゴバルト男爵とクリューニ男爵は、ハロルド市包囲戦の最中、突如として後背を襲った蛮族軍によって、共に戦死したという。両男爵軍は瞬く間に崩壊。南東から襲われ、城壁を避けるように二分した蛮族軍は北西で再び合流。その後は、街を襲い始めたという。各傭兵隊長たちは、その隙に生き残った者たちを集結させ、東へと脱出したのだそうだ。
捕虜たちは、五千人に達した。私は彼らに、仲間たちの戦死者を弔い、次に蛮族たちの死体の首を刎ね、火葬をする役目を言いつけた。火葬と言えば聞こえは良いが、剣の民の葬儀は土葬だ。疫病の死者や、重罪人など、不純な穢れを消滅させる意図がある時のみ、火葬とされる。辺境騎士団の兵士たちとランゴバルト、クリューニ両男爵軍の兵士たちは、私が登った丘の上に埋葬され、蛮族たちは丘の下に穴が掘られ、そこで浄化の炎に焼かれる。
「翌朝のうちに、重装歩兵と騎兵を同行し、ハロルド市に入ります」
私は暗がりの草原に腰を下ろしたままの、満身創痍の騎士たちにそう告げた。
戦死者たちへの告別の儀を早朝に実施し、埋葬には立ち会わない。今は一刻も早くハロルドに向かう必要があるからだ。
「城市には、相当数の蛮族たちが未だ跋扈している事が予想されます。まだ戦いは終わりではありません。一同、明日の戦に備えるよう」
ギレスブイグが挙手した。
「ジャンロベールを捕縛しました。彼の処分はどのように?」
「なかなか、しぶといわね。パヴァーヌの共闘は、かの地の騎兵の存在により明らかですが、二年間の占領の手際の早さを解明するために、後で詳しく話を聞きましょう。軍師に預けます」
ロロ=ノアが軽く会釈する。
「その件について、つまり、ジャンロベールの転身に誰も付いて行かなかった理由について、私も知らぬ事があるようです。この機会に、ご教授賜りたく」
軍師の知らぬところで、対応策を講じていたことについて、彼女なりに思うところがあるのだろうか?いや、無いだろう。彼女は、そう言う考え方をしない。皆の前で、説明をする必要があるからだ。私は、経緯を説明した。それは、山の民の軍師デジレとの会見に遡る。
辺境南部を制覇する役をパンノニール伯に命じた際、軍師デジレは参謀として同行する事を願い出た。辺境騎士団に遺恨の無い証明と、自らの才を活かす機会を与えて欲しいというのだ。だが、流石に山の民の一軍が同行する本隊にいては、まだ兵士たちの感情がそれを危険視し、受け入れ難い部分があるだろうと言う。それで、別働隊を希望したのだそうだ。私は両手を失った彼の身体を気遣ったが、軍師が剣を振るう事があれば、それは軍師の無能さの証明だと、返された。彼の願いを聞き入れた。その際に、彼はかつての包囲戦の際の話を持ち出してきた。是非とも耳に入れておいて欲しい、と言う。
『水場を魔剣の砦で塞がれた際には、世界が暗転する思いでしたぞ。よもや、このような奇想天外な出来事が起きようとは・・・。敵地である山の周囲を少数の兵で散策したあの奇行は、水の供給源を探るためだったのでしょう。もっと早く、追い払うべきでした。覚えておいででしょうか?その際に、ルイーサ殿下は山の民に襲われたはずです。我々はその様子も監視していました。後に、返り討ちにあったその者たちを検証したのですが、胸には、山の神を表す、大きな刺青がありました。山の民には、家門の象徴を刺青にする風習があります。だが、魔剣信仰を排したばかりの民が、山の神の象徴を身体に彫るなぞ、正直、目を疑いました。狂信者かとは思いましたが、戦の後に改めて調べると、刺青は色をつけただけの即席のもの。その下に、小さく別の彫り物を見つけたのです』
私はその図柄を土に描いて、松明で照らした。
「魔術学会、フラタニティの紋章だ」
ミュラーが言う。
「デジレは、フラタニティを知っていたわ。ウジェヌ王の妃が先王であった時、何度も接触して来たらしいの。フラタニティの本拠がパヴァーヌにあるという事と、直前のジャンロベールの放浪に関係があるのでは無いかと、どうしてもその懸念を払拭しきれない。でも、彼はそれ以降、何の素振りも見せはしない。私も濡れ衣をおわせたくはない。だから確実な証拠を掴むために、彼の行動を誘発させる状態を作ろうと思った。でも、私や騎士たちが動くと、どうしても目立ってしまう。特にロロ=ノアの動きは、注視されているはず。そこで、兵たちと普段から交流を持つアッシュに頼んだの」
「ジャンロベールに大軍を指揮させて、今がチャンスと思わせる。裏切った際の保険として、アッシュが重装歩兵の隊にいたのか?」
「ギレス、その通りよ。ジャンロベールは、敵への潜入工作の為、転身を装うから邪魔をしないようにと、重装歩兵たちに言い含んでおいたの。作戦は秘匿とし、ジャンロベール本人の耳に露見が知れれば、彼はその者を重罪に課すだろうともね」
ロロが大袈裟に驚いてみせた。
「リスクが大きすぎる!私が知れば、許可しないでしょうね」
「姫の旦那になるやつは、浮気をする際には死を覚悟せねばならんな」
ワルフリードの言葉に、重苦しい空気だった騎士たちに、初めて笑いが起こった。
ミュラーが挙手した。
「長年の付き合いだった我らに気づかなかった彼の裏切りを、アマーリエ様が看破なされた事には、敬服いたします。父君からの代から諜報活動をしていたのでしょう。詳しい解明は、軍師殿にお任せするとして・・・アマーリエ様は、この状況をどのようにお考えですか?」
私は騎士たちを見渡した。腹心の裏切り行為についての言及では無さそうだ。胸のうちでは、私も判っている。彼が何を言い出そうとしているのか、薄々勘づいてはいる。だが、それは言葉には出したくはない。
「圧倒的に不利だった状態でも戦い抜いてくれた皆への感謝。そして、蛮族たちに私たちの復讐戦を邪魔された怒りです」
「労いに感謝いたします。両男爵の首級を挙げられなかったわだかまりは、我らの胸にもございます。誠に悔しい限り・・・。ですが、私はもっと重要な、新たな問題を感じています」
「ミュラー、貴方は参謀です。忌憚なく意見を述べなさい」
「は。恐れ多くも申し上げます。我々は・・・蛮族と共闘したのでは無いでしょうか?」
馬鹿な・・・。
「もちろん、そのような意図はありませんでしたが。ハルトマン卿の姿をした赤い悪魔の件、余人には理解が及ばないものと思われます。騎士の一人が蛮族を率いて、男爵軍を襲ったのです。他の者からは、そのように・・・」
「黙りなさい!」
私はミュラーの言葉を制した。ミュラーは膝をついて敬服する。
「剣の子が、無暗に恐ろしい言葉を口に出してはなりません!蛮族は同胞も襲い、城市も襲っている!占領軍と手を取り合って、私たちはこれを撃退したのです!共闘した事実など、何処にもありません!そうでしょう!?」
「失言でした。撤回いたします」
「・・・そういう誤解が生じる懸念がある、という話は理解しました。それを挽回するためにも、明日は城市の蛮族たちを根絶やしにします。一同も肝に銘じよ!解散!」
騎士たちは、重い足取りで持ち場の部隊に戻っていく。負傷した者、足を引きずる者もいるが、彼らの足取りは、負傷や疲労によるものばかりでも無いように感じた。
「捕虜の兵たちが、騎士団の兵たちに、蛮族の仲間だと罵声を浴びせていたようです」
ロロが小声で私に告げる。
「そんな事実はありません。ですが・・・対応を考えておいて頂戴」
「御意に」
私は近衛たちが警護する自分の天蓋に戻った。アッシュとサンチャが、食事と湯浴みの支度をして待っていた。
「アッシュ、初めての指揮はどうだった?」
「どうもこうも、特に何もできませんでした。不甲斐が無い限りです。あの・・・ハルトマン卿は、何か言っておりましたか?」
「ごめんなさい。私も何も・・・言葉を交わすいとますら無かったわ。アッシュ、辛いだろうけれど、彼は行ってしまった。もう彼は、記憶だけの存在・・・なの」
アッシュは弱々しく笑い、逆に私を気遣った。
「その事については、理解しています。お心遣い、ありがとうございます。私は、大丈夫です。ハルトマン卿の事は、敬愛しておりましたが、私と彼の間は、もともと他の騎士と従者とは違う関係でしたので。むしろ友を失う切なさはありますが・・・」
「そう。逞しいのね。落ち着いたら、彼の話を聞かせて頂戴。彼のために献杯したいわ」
「ええ、是非。お食事と湯浴みの支度ができていますが?」
まず湯浴みをしたいと告げると、アッシュはサンチャと共に甲冑を脱がし始める。サンチャは、私の身の回りの世話をする気、満々の様子で、すでに汚れた衣服を着替え終えていた。
「久しぶりにご奉仕できて、嬉しい限りです」
「私もよ、これからもお願いね」
彼女の知らない甲冑であるはずだが、それでも手際の良さはアッシュに秀でていた。
「では、私は外に待機しております。ごゆっくり」
アッシュが退室し、天蓋のフードをしっかりと閉じる。
サンチャは、私の服を脱がしながら、いくつかの新しい傷跡を確認し、左手の指先を認めたようだ。その指遣いで、彼女の心が伝わってくるほどに、私は彼女の事を良く知っていた。
「すっかり、利発になられて、見違えましたわ」
「切り刻まれて、の間違いじゃない?」
「確かに!嫁入り前の身体をこんなにするなんて、奥方様が生きておいでなら、大変な大目玉ですよ?」
サンチャは、私の心をケアしたいのだろう。殺伐とした騎士団の運営から一時、心を離して、昔話を誘っているのだ。私が生まれた時に死んだという母の話を、彼女から振るのは初めての事だった。私を大人になったと、見込んでの事か。
「母は、どんな方だったの?その語りだと、猪か熊をイメージしちゃうわ」
「とんでもございません。聡明で、物静かな方でした。親方様とも仲睦まじく、貴方の誕生をとても心待ちにしていらっしゃいました」
私は、自分の中にずっと根付いていた罪の意識の芽があることに、気がついた。
「ルイーサという名は、親方様が名付けたのですよ。でも、勇ましすぎると奥方様は反対しておられましたのに。心配された通り、今では騎士たちを率いる立派な騎士団長になられたのですね。名前とは恐ろしいものですわ」
「名前と肩書きだけよ。私は今でも成長していないわ。周りの人たちが立派なだけ」
戦では沢山の人を殺し、山越えでは多くの人を遭難させた。気がつけば、騎士たちの姿は辺境にやって来てから半減している。思えば私は、殺してばかりだ。母を殺し、多分・・・父までも。ねぇ、サンチャ。私は、父を・・・殺したのかも知れないのよ!
「立派な人たちが、そうでない者に剣を捧げる事はありません。人の生き死には、それぞれの運命にも寄るところです。貴方は、全ての人に対して加害者では無いのです。全ての死が、貴方の責任に寄るところではありません」
支配者は、どんな時も加害者であり続けなくてはならない・・・父の言葉だ。
「そうね。サンチャの言う通りかも知れない。私は、神ではないのだから、ね」
涙が沸いてきた。湯に浸した温かい布が背中を拭うたび、泥で固められた私の心の鎧が、一つひとつ、脱げ落ちてゆくようだ。
ありがとう、サンチャ。
大きく鼻を啜り、話題を変えた。
「貴方が、馬に乗れるなんて知らなかったわ」
「そうでしたか。無理もありません。私が親方様から手ほどきを受けていたのは、アマーリエ様が生まれる前の話ですから。身辺警護のため、一緒に狩りに出かけたりもしたのです」
「父の身辺警護?貴方が?」
「ふふ。可笑しいですか?こう見えても、免許皆伝なんですよ。驚きですか?」
なんという事だ!所作に抜かりの無い、姿勢が良く、上品な大人の女性の代名詞だと思っていたが、まさか同門の先輩だったとは・・・。いや、それどころか・・・もしかすると、愛人関係だったのかも知れない・・・けども、これは流石に聞けない!む、むしろ・・・知りたくもない!
「それで、義勇兵のまとめ役を・・・それにしても、全く気がつかなかったわ。私も人を見る目が無いわね」
「もともと、義勇兵を組織し、指揮をしていたのは、二人の騎士でした。でも、度重なる戦闘でお二人とも戦死なされた為、腕前を買われて、私が後任を指名されたのです。現役の頃の私の専門は、潜入工作だったのでゲリラ戦に向いていたのでしょう」
元潜入工作員のメイド・・・。
「湯浴みが終わりましたら、一足先に市内に侵入し、ハロルド卿にアマーリエ様の来訪を告げて参る所存です」
「そんな、危ないわ。占領軍の残党や、蛮族たちだって徘徊しているのよ」
「あら、私だって、アマーリエ様に劣らぬ腕前なのですよ?この二年でブランクも克服済みです。今すこし、お役に立てさせてください。この地は、私の故郷でもあるのですから」
「じゃぁ、騎士たちをつけるわ」
「いえ、私の専門は、潜入だと申し上げましたでしょ。単独でハロルド市に潜入する道は、いくつか心当たりがあるのです。身体の重い同伴者がいると、返って迷惑です」
振り返ると、サンチャは笑顔で返した。
「ふぅ・・・先輩の意志を尊重するわ。お願いします。でも、出立は食事の後に、ね。久しぶりの再会なのだから、それくらい付き合って頂戴」
「御意に・・・」
君主と騎士の会話の真似事がまるで板につかず、二人して笑い合った。
アッシュを交えた三人の食事は、私の人生の中でも指折りの幸福の時間だった。
だが、楽しいひと時とは、儚いものだ。
物心がついた時から側にあり、なんでも話せる唯一の存在であった優しいサンチャ。
実は剣術の達人で、父の懐刀でもあったメイドのサンチャ。
彼女との会話は、この時が最期となった。
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