第8話 ロロ=ノア
「私の体調が優れないのを良い事に、好きなように動いてくれましたね」
「俺が、自分の行動を決めるのに、なぜお前の許可を得なくてはならない」
彼がグラスゴーの街を去る前日、私室に呼びつけた。このまま、彼をただ去らすだけでは、もったいないからだ。彼は、アマーリエの父親の死について、長い時間をかけて少しずつ聞き込みをし、自分なりにその真相について結論に至った様子だった。見かけによらず、彼のもつ慎重さと執念深さには敬服する。その石をも穿つブレの無い突破力は、素直さに由来するのだろう。私は、心底彼に親近感を得ていた。素直さにではない。慎重さと、執念深さにだ。
「ハインツ伯の死について俺が憶測することは、お前にとって不都合なのか?」
刺すような眼光で、私の目を見つめた。彼は一途な人間だ。私の美貌になど、何の気負いもない。
「全く、問題ありません。私もトーナメントの会場から現場に駆け付け、色々と推理をしたものです。いかがですか?ここで一つ、答え合わせなど?」
彼は躊躇した。もとより、私の事を心底信用していない彼のことだ。本来ならば、得るものは無し、と判断したはずだ。だが、今の彼には時間が無い。明日には出立する彼は、遠く離れた北の国で、従者と二人、辺境騎士団での日々を思い返す事くらいしかできなくなるのだから。
「そうだな、何から話すべきか」
私の勧める椅子に腰をかけて、金髪を短く乱切りにした騎士は両手を腿に当てて考え込んだ。
「アマーリエに父の死の真相について、直接聞いたことがある。その時の彼女は、心の内に何かを隠していた。そして、同時に記憶の一部を失っているかのような・・・とにかく、不自然だった。俺が興味を持ったのは、それからだ」
彼の分の紅茶を入れながら、私は先を促した。
「どう考えても腑に落ちないことがある。それは、領地に戻った際の、騎士たちの反応の早さだ。使いの手紙は一通しかなかった。どうして、あれほど早く、城に二十名を超える騎士たちが参集できたのか。その時は、それでも事態への対応としては遅すぎたため、疑うことができなかったが。そして一つ、アマーリエへの宣誓について、反論が出なかったことだ。一つも、出なかった。まるで、示し合わされたかのように。その後の辺境出兵については、議論があった。これは、恐らく彼らの想像にはなかったのだろう。だが、それでもやはり、全員が従った。ハロルドへの援軍をたとえ私兵をかき集めてでも、強行しようとする者がいてもおかしくはないはずだ。どうにも、不自然だ」
「どうぞ。グラスゴーまで来て、ようやく手に入った上等の茶葉です。ルドニア古王国産で、パヴァーヌ、ハイランドを経由した高価な品ですよ」
彼は紅茶を一口啜り、悪くない、という仕草をした。
「俺は、ハインツ伯の死を、騎士たちはすでに知っていたと考えている。その直後か、あるいは、その場に居合わせたと・・・どうだ?」
「私の考えでは、後者の方を支持します。ですが、それは騎士たち全員では無い様です」
「まぁ、そうだろう。お供の騎士たち数名だろうな。ミュラーあたりが知っていたら、口外しないはずはない」
「いえいえ。お供は、三名の使用人だけでした」
私はカップの取っ手を指先で摘み、上等の紅茶の香りをゆっくりと味わいながら答えた。
「後をつけた者たちがいるのか?伯を殺めたのは、その者たちなんだな?」
腰を上げて詰め寄る彼を制し、私はクラーレンシュロス伯ルイーサ・フォン・アマーリエの神格化について、水面下での反目がある事を説明した。
「そんな、馬鹿らしい。臣下たちの勝手な世迷言だろう。いくらなんでも、そう簡単に神を生み出せるものなら、この千年の空白は無いはずだ」
「どうでしょうね。色々と多くの人間が関わっているようですが・・・私には、貴方が信じる神の存在を感じたり、その声を聞いたことがないので、測りかねます」
「・・・結局、伯を殺めたのは、その反対派ってことか?」
「いいえ。この場合、反対派の方が穏健派と言えます。彼らにしてみれば、本来の伝統を踏襲しつつ、アマーリエによる安定した治世と、彼女自身の幸せを心底願っているのですからね。その場に居合わせたのは、推進派の側です」
「邪魔者のいない地で、直談判でもしに行ったのか?」
「私も事実は知りません。あるのは、憶測だけです。ただ、ハインツ伯は、娘の嫁ぎ先をトーナメント会場で探すつもりだったようです。そこで、何らかの進展があった」
北の森の騎士クルトは、むぅと唸った。
話は始まったばかりであったが、残念な事にここで邪魔が入った。
新しく通す水道のため、立ち退きを要請している有力者との提示条件の折り合いがつかず、けんもほろろに揉めているとのことだ。グラスゴーの有力者たちの立場を尊重し、既得権を侵さないよう大きな変革は避けている。すぐにここを立つ予定だからだ。そのために民心を安定させ、普段通りの生活を送ってもらう必要がある。その上で、数々の景気向上、生活改善のための施策も発布し、より良い未来の提示を続けている。税の徴収と兵の調達を効率的に、かつ公平に行うためのいくつかの行政機関も新しく設置した。それらは全て、早期に軍備増強を成すための布石だ。新しく設置したそれらの役人は、経験が無い者ばかりだ。そこには、人材不足の他にも、私なりの狙いがある。新規事業の推進には、過去の成功体験に引きずられない未経験者が役に立つという考えだ。経験の無い彼らは、私の指示に素直に、実によく従い、素早く対応してくれる。前例を知らないだけに、夜遅くまででも働く。ただ、問題を臨機応変に解消できるバランス感覚には、致命的なほどに欠点があった。そうこうして、私はグラスゴー陥落以来、寝る間もろくに無い日々が続いているという訳だ。
すぐに向かうので、私の到着を待つように、と伝達を依頼し、騎士に失礼を詫びた。
「お前も、そのなりでよく身体が持つな・・・」
「お気遣いに感謝しますよ。裏方の仕事は、騎士団では評価され難いですからね。それはともかく、最後に一言。アマーリエは、心が脆い。それは、偏った教育によるものですが・・・正面から反論されると、過度に拒否反応を示します。彼女の人格を矯正するには、まず先に愛を教えねばならない」
「俺には関係が無いだろう。アマーリエの過去は、ほとんど知らないんだ。お前だってそうだろう?」
「私は、知っていますよ。もちろん。そういうあなただって、彼女の気持ちを知らないわけでは無いでしょうに、どうして受け止められないのです?他に想い人がいるわけでもなしに」
「なっ・・・」
「私は行きますが、どうぞゆっくり紅茶を味わってからお戻りください。もうお会いする事も無いでしょう。どうか、ご壮健で。まぁ・・・去らねばならない貴方に、こんな話しは酷でしたでしょうかね?どうか、ご容赦を」
騎士から返される言葉は無かった。予想はしていたが、彼はその後、アマーリエとは会う事なくこの地を去ったようだ。
それからの日々は、散々だった。荒れ狂う精霊を適度になだめ、凍傷に毒された騎士団長の身体を癒し、失った兵馬、物資の勘定をした。そして、例によって精霊たちとの共感阻害。赤い悪魔が発する思念波が、私のそれを歪めてしまう事は、もはや疑う余地もない。原因不明の感覚機能麻痺を、私の身体は体調不良に由来するものと判断した。自己暗示から来る言われもない、ひどい吐き気に襲われながらも、私は目の間に姿勢良く座る、災いのもとに、二つの悪戯を仕掛けることを忘れなかった。アマーリエにとって、その一つは幸いし、その一つは災いとなった。
一つ目について、ここで話しておこう。
私は、赤い悪魔とは同行を遠慮したため、ミュラーからの報告によってその様子を知る。ちなみに、ギレスブイグ男爵も愛想が悪い、という理由で宿営地の守備を任せられた。
赤い悪魔との接触以来、騎士団上層部での不和が続いた。蛮族以上の人族の敵、かも知れないのだから、それも当然。だが、誰もそれを結論づけ出来ない。神の声を聞き、変装した蛮族さえも見分ける事ができるというボードワン司祭ですら、赤い悪魔を分類できずにいた。脅威であり、外敵であるのは確かだ。だが、すでに完全なる未知ではなく、敵意を示さず、共通言語による交流が可能であったからだ。例の青い小瓶はすでに無く、その製法もまだ判らないままであったが、一度勝利したという体験は大きく、戸惑いと警戒を持って対峙し、過敏な拒否反応を示す騎士たちはいなかった。それにしても、ハルトマンの身体を使うとは、偶然にしても出来過ぎだ。アマーリエは待遇保留のまま、ハルトマンがかつて読み漁った冒険譚に記されているという、ドワーフの王国へと向かう事にする。目的は、矢と槍の調達だ。資金の足しにするため、不要となった新中古品とでも言うべき、二万人分の防寒具を伴った。
書物に記載された通り、小さな岩の扉にドワーフ族の守衛が二人いたという。これまた記載の通り合言葉を告げると、来訪の目的を問われ、内部と連絡を果たした守衛は、一行を招き入れた。彼らは、この合言葉が写本として西方諸国に出回っていることを知らないのだろう。何とも滑稽な一族だ。
通路は地下へ延び、先が見えないほど長かった。地下というのはとても冷えるため、ミュラーはアマーリエに毛皮を着込むように告げた。客観的に考えると、この時の進言が後に功を奏したと言える。何はともあれ、守衛から二本の松明だけを渡され、三百人の行商隊は暗闇の階段を降りるのに苦労をしたはずだ。彼らは気づかなかったろうが、階段には多数の罠を仕掛けられていたに違いない。守衛二人だけに王国の防衛を委ねるわけがないからだ。一行は無事に豪華な飾りのある鉄とも銀とも知れない大きな扉に行き着いた。呼び金を叩くと、中から扉が開かれる。かくして、巨大な地下王国の片鱗をのぞかせる、広大な広間が姿を現した。
ミュラーによれば、集会場と応接室を兼ねた感じで、多数のドワーフ族が出迎えたらしい。部屋の天井は二十メートルにも達し、壁には精緻なレリーフが施され、油火によって明るく照らされていた。三百人が入っても、まだ余裕のある広さで、天井へと伸びる数多の柱、無数の階段、整備された水路、いくつかの滝。そして、地下水が流れる地下空間だと言うのに、肌着でも良いくらいの暖房が行き届いていた。一行が言葉を失う様子が、まるで手に取れるようだ。唖然と立ち尽くす彼らを出迎えたのは、ドワーフの王“岩の斧“だった。
ドワーフ族は、地下に住む半妖精の人族だ。半といっても、正確には元、という意味に近い。太古の始祖たちはいざ知らず、今となっては人間と同じく、主物質界に住まう生物の一員だ。これだけの建築技術がありながら、彼らは地下を好む。大地の精霊との関わりが深い、彼らの由来によるものだ。背は人間の半分ほどで、筋骨隆々、男女共に髭を蓄え、力が強く手先が器用。鉱脈を見分ける術をもち、採掘技術と金属加工において、類を見ない適性を持つ。性格は内向的で、且つ負けん気が強く、無礼で尊大と言うのが、私が知る彼らの情報だ。体調不良を理由にしなくても、そんな輩とはなるべく関わりたくない、と言うのが本音だ。
ミュラーだけでなく、皆が覚えた違和感があったという。彼らは、王をはじめとして全員が粗末なボロ布を纏っていた事だ。とは言え、こちらから突然訪問した、初対面の交渉相手に対し服装を正さぬ無礼を指摘するわけにもいかず、妙な空気のまま交渉は始められる。
はじめに、王はわざわざの来訪に感謝の意を告げたという。騎士たちにエールを振る舞い、歓待した。幸先の良い出だしに、ミュラーたちは安堵した。金勘定と在庫管理には、専門の役務があるようで、王は按察官という役職の者を紹介する。財務管理と公共施設の管理を担当する役職らしい。私が言うのもなんだが、少々オーバーワークで権力集中が過ぎるような気もするが、この手の仕事に適性のある人材が乏しいためだと推測する。彼によると、求める矢と槍は、鏃と穂先ではなく、完成品で矢が五万、クォレルというクロスボウ用の矢が二万、槍とポールアックスが合計二千に、投げ槍が千あるというが、どれも在庫品との事だ。何の問題もないとして、値段の交渉に一段落したところで、王は眉間に皺を寄せて言った。
「・・・して、発注のあった長剣三千と盾三千、胸甲千は、いつ受け取るつもりだ?」
この一言に、突如として暗雲が立ち登る。
聞けば、彼らは他国から実に五十年ぶりとなる武具調達の依頼を受け、一族総出で製造に勤しんでいたのだと言う。彼らが一行を招き入れた理由は、依頼主からの使いと勘違いしたためであったのだ。
事態は一変した。
クラーレンシュロス伯爵家とも、かつて交流があったらしいが、この四十年と言うもの、何の発注も無く、在庫品の錆を落とす作業に明け暮れる日々。装飾品の行商隊を諸国に送り出す事で、わずかな外貨を得て凌いでいたという。商売とは、人に頭を下げる事から始まる。職人気質の彼らが、営業を怠った事に起因するとしか思えないが、彼らからすれば、長年にわたり“干された“思いだったのだろう。逆恨みとも取れる彼らの思い込みが、交渉を座礁させた。
ミュラーが必死になって食い下がるが、売らん、の一点張り。押しても動かないと判断したアマーリエは、ここで撤退を偽装する。
「私たちは押し込みじゃないのだから、交渉決裂となれば、素直に帰ります。この大広間を拝めただけでも、素晴らしい体験でした。きっと、西方世界のどこにもこれに勝る建造物は無いことでしょう。それだけに、あなた方が創り出す武具にも期待はあったのだけれど、仕方がないわ。それは見ずに帰りましょう。皆、引き上げます」
騎士たちが負傷不精、立ち上がって踵を返す中、最後に彼女は言ったという。
「それにしても、あなた方の格好ときたら、幻滅させられるわ。私たちが突然来たから、作業着のままだったの?」
王は髭に唾をつくのも構わず、荒々しく返答した。
「衣服など!我々には興味がないことだ!己の技量も碌に誇れぬ輩こそが、為政を張るためのハリボテに過ぎんわ!」
「あぁ、そうね。失礼には詫びるわ。その通り、含蓄のある言葉に私の胸は軽率な言葉を吐いた時間を巻き戻したい気分になったわ。重ねて、お詫びします。でもね、これはお節介と判ってご進言するのだけれど、一つだけ言わせて頂戴、きっと役に立つ情報よ」
「何じゃ、聞くだけはタダじゃ。言うてみい」
「人間たちの王侯貴族というものは、相手の立場を守るためにも、衣服には気を使うの。相手を上質の人物と認めるという、それは意思表示なのよ。だから、見窄らしい格好は無礼に当たるの。そして、王侯貴族たちは、無礼を野蛮と判断するわ。野蛮の意味は・・・判るわよね?格好からして金に困っているに違いない。野蛮な輩だから、きっと金の相場も知るまい・・・とね。私の個人的な意見じゃないわ。人間の王侯貴族の常識。そこは勘違いしないで」
王は按察官から何か耳打ちをされていた。
「はっ。無意味なしきたりじゃが、交渉相手の心情をまるで無視するわけにもいかんという話には、一理ある」
「相手に合わせるわけじゃないわ。相手の特性を利用するのよ。この私の毛皮なんて、どうかしら?貴方にぴったり!すごく威厳が増すわ!」
人には、それぞれ得手不得手がある。苦手分野については、防衛するか、さもなくば狼狽しつつも受け入れるしかない。アマーリエの銀狐の毛皮を纏った王の姿を見て、騎士たちは笑いを堪えるのに苦労したとのことだ。
「儂を馬鹿にしておるのか!?丈が長すぎるではないか!?」
「どうか、そんなに怒らないで。自分の背丈に合わせて調節するのよ。誰だってそうしているわ。余った部分で帽子を作れば、どんな王侯貴族にも負けない出立ちよ?この毛皮はね、いい?とっても、珍しくて高価なの。だから、どんな王侯貴族だって、きっと羨むに違いない」
岩の斧という二つ名を冠する王は、再び按察官に意見を求めた。どうやら中間管理職らしい彼は、空気を読んで、小さく手を叩いて王の威厳が増すと褒めちぎった。
「さっきのご様子だと、取引にはこちらか出向くのでしょう?外はまだ寒いわ。一年中こんな快適な空間にいては、外の寒さはさぞや堪えるでしょう」
「儂らは、そんな軟弱ではないぞ」
「でも、不憫な思いはできるだけしない方が良いでしょう?貴方は良くても、部下には辛いかも。持ってきて」
騎士たちが、自らの豪華な外套や毛皮を王の足元に並べ始める。ついで一般兵たちの防寒服が一着、十着、百着と山と成し始め、遂には二万着もの山で、王の姿が完全に見えなくなった。
「どう?これで足りるかしら?」
衣服の山に問いかけるアマーリエの声に、王は豪快な笑いで答えたという。
彼らの心情は、豪胆、誠実、そして快楽だった。誠心誠意交渉し、豪快で愉快な出来事を提供したアマーリエに対し、王は無愛想な仮面を捨てて、親密に接するようになった。広間の一族郎党たちもこれには安堵し、近隣領主との交流の再開を祝して、盛大な酒盛りが始まった。アマーリエは、これを祝して、伯爵領内に特区を設けることを約束した。そこに住まい、日常的に商売を行わせるのだ。武具の他に、彼らの金属細工はどれも一級品だった。特区に限り関税は優遇されるが、高価な品だけに税収は見込める。それを目当てに、行商たちも増えることだろう。王は返礼にと、騎士団に百本の剣を贈った。取引用に新造したものではないが、それに勝る品質だという。
「だが、条件が一つある」
王の問いかけに、アマーリエは即答したという。
「勝つことね?」
「その通り!負けた場合は、ドワーフの剣を使ったなどとは、決して口外してはならぬぞ!」
岩の斧は、そう言って豪快に笑うと、巨大なジョッキに注いだエールを一度に飲み干した。
騎士団がハルトマンの姿が消えていることに気がついたのは、帰路についてからのことだった。赤い悪魔は、騎士団に貢献した。それは、彼の願いである騎士団に同行するための条件である信頼を得る、ための行為のはずである。ここで姿を消す理由が判らず、一行は首を捻った。
宿営地に到着した後、連日のように軍議が開れた。クラーレンシュロス城を経由し、ハロルド市へ進軍する経路が決定した。地の利はあるが、すでに敵地となって久しい。進軍経路は、待ち伏せにも警戒しなければならないため、慎重に選ばれた。その頃になって、斥候隊の指揮を執るレオノールから、再び一大事との報を受ける。
蛮族の一団が城を襲撃したのち、ハロルド市へ進路を取ったとのことだ。
アマーリエの顔から、血の気が失せるのを見た。
その日の午後に、騎馬だけの先遣隊を連れて、アマーリエは宿営地を出立した。
先遣隊には、私も同行した。アマーリエの守護にミュラー、イレスが付き、騎馬兵の指揮はスタンリーが務める。後続となる本隊の指揮はギレスブイグに一任された。城までの道に敵影は無く、途中の集落では煙が燻り、無惨にも破壊と略奪の傷跡が残されていた。住民の姿は無く、すでに戦果を逃れて租界した後なのかも知れない。裸足の足跡が多数、確認された。人間の足跡では無かった。無人の家々を荒らし廻り、破壊し、火をつけた経緯が、その痕跡から推測できる。足跡の向かう先は、クラーレンシュロス城だ。丘陵を越えると、かつては光の館と謳われ、しかし今となっては変わり果てたその姿があった。
アマーリエは、私とレオノールの目を頼る。気が動転してすぐに突撃しないところが、彼女の成長の証と言えよう。何をするにも、まずは情報収集なのだから。
「煙は上がっていますが、大きな火災というほどではないようです。壁の黒いくすみは、恐らく二年前の略奪と破壊の跡でしょう。金属の鎧の光が見えます。数は少ない・・・見える範囲では十程度。旗印は、クリューニ男爵のものです」
「守りを固めている様子ではない?」
アマーリエの質問には、レオノールに答えさせる。
「は、はい。物見に立つ姿はありません。跳ね橋も降りています。ですが、走る姿が・・・まだ蛮族と戦闘中なのかも知れません・・・」
「ありがとう。スタンリー!横一列陣形!城を奪還します!レオノールは広域警戒を」
騎馬兵の突撃というのは、迎える側にとっては絶大な威圧感がある。馬の進路上に立つなど、自殺行為でしかないからだ。密集陣形で槍と盾を並べたなら、今度は逆に馬の方が飛び越えて避けようとするが、集団戦闘は秩序ある指揮系統あっての事だ。敵性勢力の出現に気がついた男爵軍の兵士たちは、反対側の架橋から散り散りに逃げてゆく。
なんとも、呆気のない入城だった。逃げていった兵たちの数も、百に満たない。
「なんという・・・」
アマーリエをはじめ、スタンリーら城を知る者たちは、この惨状を見て言葉も出ないほどに落胆した。オークやゴブリンといった蛮族たちの死体と折り重なるように、松明を握りしめたまま、なぶり殺された男爵軍の兵士たち。倒れた篝火が延焼し、未だ燻り続ける跡。恐る恐る城の内部に入ったアマーリエは、あまりの変わりように立ち尽くした。
「姫、さがって!」
イレスが、踊り場から狙いをつけていた蛮族を射倒す。なかなかどうして、絶不調の私とは言え、先に気づくとは彼女の感覚は素晴らしい。神の声とやらでも、聞いたのだろうか。部屋の中から扉を蹴って奇襲を仕掛けて来た蛮族たちを、騎士たちが蹴散らす様を見ても、アマーリエは立ち尽くしたままだった。
「しばらく、一人にして」
彼女は一人、奥へと歩き出す。寝室へ向かうつもりだ。追いすがろうとするミュラーを制して、私は彼女の安全確保の為にも、城内の敵掃討を指揮するように指示した。
「残った蛮族は、蘇生した可能性があります。丁寧に首を切り落としてください。先程のように、連携を仕掛けてくる事もあるでしょう。ただの蛮族ではないので、気を抜かないように」
ミュラーは二十人毎の二十五隊を編成し、城内に散開した。
「中途半端な事しかできぬ赤子め」
誰もいない中、憎々しげな蛮族の死体を踏み躙る。首には、城に残されていたものか、あるいは兵士たちが略奪した城の財宝を奪い取ったものか、珍しい真珠の首飾りと、指には、いくつかの金銀の指輪がはめられていた。こいつの中で、まだ悪魔の片鱗は蠢いていることだろう。宿主の蘇生が不可能と悟り、慌てふためいているのか?身体から抜け出して、土に染み込み、粘菌の類に戻るのか?あるいは、私の中の仲間に助けを求めるか?
城の奪還は本来、困難を極める難題であるはずだった。弓と槍の調達程度なら、大勢に大きな影響は無い。だが、ぽっと出の役者が負う役としては、これは些か度を越していると言わねばなるまい。
アマーリエが泣き止んだら、すぐにでもハロルド市へ向かわせねば。せっかくのイレギュラーなのだから、呼応して動かねばもったいない。風が吹いているのならば、風があるうちに、それを有効に活用するべきだ。時間をおけば、男爵軍も体勢を立て直し、我らと蛮族との関連性という疑念を抱かなくなる。好機が仇と転じる、そんな瞬間もおつなものだ。
おっと、意外に早く立ち直ったようだ。私を呼んでいる。
彼女の寝室にお邪魔するのは、これで二度目だった。一度目は、貴族の娘の寝室にしては、ひどく質素ながらも、高価なカーテンやレースの天蓋など、それなりの品格はあった。だが、今はまるで引っ越し後の空き部屋のような有様で、寝台の綿さえ抜き取られ木枠だけになっていた。
「質実剛健の家訓に相応しい、設えですね」
私の放った金槌のような言葉に、彼女の心が反響する。
苛立ち、侮蔑、諦め、戒め。二年前とは、心の硬度がまるで変わっていた。
「これは、吉兆なのかしら?それとも、凶兆なの?」
「吉兆ですよ、もちろん。城を男爵軍が守っていたとなれば、多くの人的損害と時間を浪費したはずです。それらを一足跳びに越えて、今や後背の憂いなくハロルド市へ進軍できるのです。私は神を信じませんが、天佑といっても良いでしょう」
彼女の心には響かない。悲観的で陰気臭いところは、二年前より滑車がかかっている。
「あなたは、二年前、ここで私に約束してくれました。あなたはその約束を果たしてくれたのですね」
まだ、途中だが。
「多くの死も予言通りです」
これには、流石に胃を縮めたようだ。だが、その死を活用して生きるのが、この娘だ。
「そうですね・・・その通り。その死を無駄にせぬように、これから迅速に動かねばなりません」
「では、ご意向のままに」
まったく、御し易い。素直で良い子だ。自己憐憫に浸りながらも、それに罪悪を感じ、己を殺して、状況を優先する心の傾き様は、ハインツ伯の教育の賜物だろう。齢十七にして、このような人物に育て上げるのだから、定命故の焦りというのも侮り難しだ。
「城に補給部隊を駐屯させ、全軍の到着と同時に進撃を開始します」
「騎兵を斥候に飛ばしましょう。野伏だけでは手が足りません」
「任せます。私は、これからアッシュに例の話をしてきます」
「私も同席した方が良いのでは?」
「いえ・・・別にもう一つ、ハルトマンの件も、まだちゃんと話していないので、それも彼に打ち明けるつもりです」
「彼ならば、もう知っていますよ。遠目からですが、ハルトマンの事を見ていましたから」
「・・・人は、全て貴方のようではないのですよ、ロロ=ノア。見て、知ったからと言って、気持ちはそう簡単に整理できるものではないの」
そう言い残すと、彼女は兜を小脇に、一人で出ていった。掃討中とはいえ、まだ蛮族や敵兵が潜んでいるかも知れないというのに、彼女の度胸は戦の度に増すばかりだ。慣れによる危機感の喪失、というだけかも知れないが。いずれ足元を掬われないよう、私が注視すべきところだろう。このロロ=ノアが手塩にかけているのだ。一本の流れ矢で倒れるような、そんなつまらない真似だけは、されて欲しくない。
掃討隊が二十五隊に分かれたといっても、城の敷地は広く、部屋数は数多ある。隠れんぼには最適だ。本隊の到着は、一刻後。次の指示を伝えるまで、しばらく時間が空いた。私は城の上階へ進み、ハロルド伯の居室にあるベランダに出た。
爽快な眺めだ。覇者たちが高い場所からの眺めを好むのは、何も防衛の必然性に限ったことではあるまい。ハロルド市の影と、立ち登る煙が見えた。ハルトマンの気質に影響を受けた赤い悪魔は、やはり蛮族の気質をも消しきれないであろう事は自明だ。蛮族軍が戦いの最中に統制が利かなくなる事は、想像に容易い。
「気持ちなど、感傷にふける余裕がある者だけに許された、ただの自己陶酔だ。貴方も、自分の心を甘やかすだけの麻薬だと、すでに気づいているはず。思考を止め、心を理由に持ち出した途端、人は堕落するのですよ?」
彼女はやはり、私のパートナーにはなり得ない。定命の者だから当然ではある。しかし、もしも神になったとしたならば、どうだろう?現世から消え失せるのだろうか?だとしても、私も現世には未練はない。だが、神の存在とやらを認識した事のない私にとって、それは未知の事柄だけに、実証が先んじる事になる。その為に、私は彼女と行動を共にしているのだから。
ベランダの手すりに腰掛け、少々眠る事にする。
精霊界のほとりに半身を置き、その波動に魂を晒すと、昔ほどではないにしろ、英気が戻り始める。心は夢現つ。過去の記憶が蘇り始める・・・。
足元に、うさぎ型の種族が大の字になって眠っていた。
かつて山の民を水攻めにした晩に、崖の上から川の様子を眺めていた時の記憶だ。
あの時は、日の出にはまだしばらくの時間がある夜明け前だった。
その景色を人間あたりが表現するならば、森は夜の闇に沈み、木々や動物たちもまだ深い眠りから覚めやらず・・・などと、するのかも知れない。だが、私はエルフ族だ。それも、人族の街で見かけるエルフもどきではない。私にとっての睡眠とは、沐浴に似ている。精霊界へ潜り、霊力を回復させることを意味する。月の影響は受けるが、昼だからといって効果が期待できない訳ではない。だから、私にとっての夜とは、ただの光の加減の差でしかないのだ。だからといって、うさぎによく似た生き物が大の字になって寝ている理由は、就寝のためではなかった。山の王の部屋から脱出する際、山頂付近から飛び降りたのだが、落下速度はかなりのもので、その時のショックで気を失ったのだ。顎を上げて気道は確保したため、大事には至らなかった。
実のところ私は、この奇妙な者に共感していた。
誰もこの者の種族を知らず、この者もまた、自らを知らない。この世界の構成員でありながら、永遠に孤独であり続ける者。
私もまた、同じであった。
夢は、さらに昔の記憶へと私を誘う。
それは、故郷の記憶に辿り着く。
その森は精霊力が溢れんばかりに満ち、精神体と物質体の融合も偏りが無く、双方の世界から無限の活力を絶え間なく受け取ることができた。同族たちの魂は共鳴し合い、思考を共有することなど、言葉を口から音声として発するよりも容易いことだった。数多の精霊たちが飛び交い、地を這い、木々や草花に宿っていた。精霊たちは生物の思念に影響を受け易く、獰猛な獣や魔物、蛮族たちの起伏の激しい心を嫌い、気質が穏やかで平穏な生活を好み、自然との共存共栄を尊ぶエルフたちをたいへん好んでいた。
あの頃のどこまでも広がっていく認識力と、健全な精神と力みなぎる肉体の一体感が懐かしい。
今では、精霊界の門は、ほんの隙間程度しか開かれておらず、そこから吸収できる恩恵は、私の魂と身体が求める供給量を永遠と満たすことはない・・・この西方世界に来てからは、ただの一度も魂の渇きが満たされることは無かった。
故郷の森を、一言で表せと求められたとすれば、こう答えるだろう。
「生命だ」と。
今の私は、流石に大概の部分、自分自身というものを理解しているが、まだ若かった私は、自分がどれほど見栄っ張りなのかを知らなかった。全ての事において、女であってもその能力を研鑽することで、男に負けるものは無いと信じていた。根拠の無いない虚栄ではない。共感力こそが、故郷の森では人生を左右する力であり、私はそれに秀でていたのだ。だが、猫がその優れた好奇心と集中力により身を滅ぼすに似て、私も自負するところの力に溺れ、自身の身を・・・否、故郷の森そのものを失う事になった。
古エルフの集落の事を、人族の社会に例えて説明するのは難しい。森とそこに生きるものたち、そして同じ血族の者たちは太さと密集度には大きな差はあれど、皆、共感の糸で繋がっている。それは個人レベルでも認識できるが、常には集合的な見識として知覚する。何か特別な問題が生じれば、皆の頭で同時に考える、という感じだ。人族が聞けば、気持ち悪いと思うだろうか。だが、それが我々の日常だ。だから、人族の王が治める国のように、コミュニティの規律を制定し、正義と悪、罪と罰を明文化する必要がない。創生から続く集合知が、我らの判断基準だった。
だが、どんな生物であろうと、その成長過程において、ある種の試みを成す。社会に対する反抗心だ。自分がグラスの中を泳ぐ魚だとすれば、グラスの強度を計るために叩いてみる、そんな試みだ。今思えば、きっと多くの者たちが火遊びに夢中になる、若気の至りを注視していたのかも知れない。私は印章を幾つ手にれても、達人たちの仲間入りを果たしたは思えなかった。思念の連環の輪に潜り、探り泳いでも見つけることが出来ない、達人たちの閉ざされた記憶や叙情がある事に私は気づいていた。やがて私は、彼らが心の奥に隠すそれが何であるかを暴くことに夢中になっていた。またそれを可能にする手段として、自らの思念を周囲に悟られずに隠し通す術を身につける事も練習した。
思念を送信するという事は、一方通行ではなく、相互通信となる。例えるならば、鏡と言うよりも、グラスの水に、二色のインクを落とすのに似ている。それ故、特定の目標に対して思念を送ることは“共振“と呼ばれていた。相手の心を覗こうとすれば、必ずこちらの心も覗かれるのだ。互いに深く、長く共振すると、やがて自分と相手との境界が解らなくなるほどに。相手が若いエルフならば、誰に好意を抱いているのかなどもすぐに知れる。それ故、共振が未熟な若者には隠し事は成立しない。感情の起伏も若者の方が大きい。故に心の揺らぎにより、村全体の意識にノイズを与え無い様に、心の平静を保つ訓練を受ける。この訓練に長けた者たちの心は、読み取ることが出来なくなる。その最たるものは、達人たちの心、とりわけ村長の心だった。それを思念を共有しないズルさ、と私は感じたのだ。
若さ故の潔癖さだろうか、私を躍起にさせた理由は、正義感にも似た熱狂だった。
共振は、獣の心とも可能だ。同年配の者同士で、よく狩りに出かけたが、獲物は共振を使えば、難なく見つけることができる。慣れれば、位置情報の取得はおろか、視覚の共有までも可能なのだ。反対に、獣はこちらの思念を受け取ると混乱して、動きを止めた。そこへ、風の精霊の力を借りて、矢を当てる。痛覚も共有してしまうため、最初のうちはオン・オフに苦労したものだ。仲間内でも特に私はこれを得意としており、狩の印章を得た。
印章とは、分野ごとに腕前、知識、思考力などが一人前である事を村長が認めた証だ。定命を持たない私たちは、時間に対する共通の概念を持っていなかった。つまり、子どもの成長を歳で勝手に決めつけるのではなく、技能ごとに一定の上達具合を評価するのだ。印章を持たない、あるいは少ない者は未熟者とは呼ばずに、若者と言われた。逆に、多くの印章を持つ者を達人と呼ぶ。たとえ達人であっても、不得意な分野では印章を得ていない者もいる。だが、それで村の中での評価が分かれるものではない。競争意識を育てるためのものではなく、自身の適性を正しく認識し、村全体のために効率良く分業の役目を果たすためである。とは言っても、先に述べた通り、私には他の者よりも幾分か虚栄心が強かったようで、印章を多く得る事にも精を出していたのだが。
毎日の暮らしは、穏やかであり、また適度に忙しかった。樹木の精霊の力を借り、住まいの補修をする者。火の精霊を用い、料理をする者。服を編む者。心のあり方を教える者。詩を歌う者。楽器を奏でる者。それぞれが印章に見合った仕事をし、村に貢献をする。貨幣は存在しなかった。できる事を行い、できない事は別の者が行う。それぞれの働きの具合に、不平や損得を訴える者はいなかった。沢山の仕事を質良くこなす事が、誉だったからだ。印章を多く得れば、それだけお声がかかる事柄が多くなる。それが満足ではあるのだが、他にも多くの訓練をしたい私には弊害だと知った。印章を多く得たいという虚栄心と、達人たちの秘密を暴くという冒険心を胸に宿しながら、多くの人々に貢献を果たす、幸せな日々を送っていた。
ついに禁忌を犯してしまう、その時までは。
精霊力が満ち、エルフによって守られる森の中は、一年を通じて同じ季節であった。故に、季節という概念を当時は知らなかったのだが、この事は森の外に住む者たちからはまるで楽園であるかの様に感じられたに違いない。木の実は絶えず実り、生命の終焉を迎える木々は、エルフによって世代交代が管理された。その恩恵で、獣たちも飢える事がない。増しては、乾くことも凍える事も無いのだ。精霊術により、人避けが施されていたが、それでもごく稀に、間違って侵入する者たちがいた。獰猛な獣や魔獣、魔物の類であれば、退治するまでだ。厄介なのは、蛮族と人族たちであった。彼らに間違って共振してしまえば、群れを成して来襲されかねない。勝手に共感の連環に入ってくる事は無かったが、こちらから探りを入れる事は禁忌とされていた。高い知能と社会性を持つ“群れ“としての彼らの存在は、最も恐れるべき脅威だったのだ。
一人で狩りに出かけていたその時、私は単独で迷い込んで来た小さな蛮族を見つけた。意識の連環を探しても、蛮族の侵入を感知している者はいなかった。この村の危機を知っているのは、私だけだった。私の虚栄心が、そこで鎌首をもたげた。
私は思念を遮断すると風の精霊たちを集め、百発百中の弓矢で小さな蛮族を串刺しにした。近くで見ると、およそこの世の物と思えぬほどに、醜い肌と汚らわしい外見だった。狩猟の民と聞いていたが、それにしては不可解なほどに臭った。これでは獣たちに存在を周知して回る様なものだ。首元に刺さった矢は、気道を塞ぎ、大量の出血を促している。間もなく、この名も知れない蛮族は死に絶えるはずだ。
私は、深く深呼吸をすると、意を決した。
自信があった。友の心でよく練習していたのだ。共振を働きかけ、同時に逆流する思考を遮断する術を。その方法は、頭の中に悪口を流し込み、それを誰が言っているのか悟られない、というやり方だ。仕掛けられた相手は、すぐに振り返るが誰の思考か分からず、首を捻る。この方法で、蛮族の情報を得ることができる。迷い込んだ者なのか、集団が放った斥候なのか。その場合、どれほどの規模か、その目的は何であるのかという具合に。
緊張した。速い鼓動が鳴り止まなかった。自分が危険を犯そうとしている認識はある。だが、それ故に、昂るのだ。私はきっと、危険に飢えていたのだろう。そして同時に、誰も成し得ぬであろう栄光も夢見ていたのかも知れない。周囲の精霊たちが、私の心のゆらめきに反応し、不快の意を告げているのにも構わなかった。
鎮まれ、精霊たち。邪魔をするな!
痙攣する蛮族の額に手を当て、ほんの少しずつ、慎重に精神の壁を解放させた。
瞬時に得たのは、衝撃と絶望だった。
私の心は激流の滝壺に、なす術も無く飲まれる一葉の如く、連環の輪に吸い出され、その集結するところへ引き込まれる!まるで抗う事もできず、崖から落下する小石の如く、抗えない力で吸い出された。私は、瞬間的に悟った。蛮族の古い種族は、古エルフと近しい存在である事を。しかし真逆の道を辿った彼らは、エルフの様な神秘の血を得ることで、その神秘性の劣化を補っているのだ!彼らの目的は、エルフの生き血だったのだ。目の前の蛮族は、共振の糸で自由意志すら奪われた操り人形でしかない小物だった。蛮族の導き手は、眼前で成す術も無く恐怖で平伏す私の目を見た。精神体が泥濘で汚される様な、感じたことのない嫌悪と恐怖で慄いた。気絶する間際に放たれた私の無言の叫びは、瞬時に村全体に広がり、両者を共振させる掛橋となる。互いにその目するところ、群体の全容を知る事となった両者は、雷の様な速度で全面戦争へと突入してゆく。
長い悪夢にうなされた。
永劫を生きるが故に、新たな子を得る機会は稀であり、その成長は村全体の希望として、全ての達人たちから暖かく見守られていた私たち。病を知らず、全ての精霊と同期し、精霊界と物質界を行き来する術を持った創生から世界と共にあった天の子である私たち。その営みが、業火に包まれ、今まさに潰えようとしていた。
「目が覚めたか?あのよ、この際言っておくけど・・・お前が俺に色々試していたのは知ってたさ。なかなかいい腕前だとも思った。だから、俺がお前なら、同じ事をしていたと思う。あまり気負うなよ。どのみち、遅かれ、早かれというやつさ」
私は狩り仲間の思念で目覚めた。悪夢から逃れられるように、私の心を覚醒へと誘導してくれたのかも知れない。だが、聴覚が捉えた周囲の音、共感の思念は、この世が悪夢の延長である事を語っていた。
はたまた、これも悪夢なのか?
「残念ながら、現実さ。互いの敵意と憎悪と恐怖やらがまるで荒波の様で、連環の輪は機能していない。お前は、俺と一緒に森の外に逃げる事に決まった。村長の命だ」
理由は彼の思念からすぐに理解することができた。
戦いは絶望的で、種の存続を図るため・・・。
「解った。すぐに出発しましょう」
「・・・お前は強いな。目が覚めた途端、私が悪かったと泣き出すんじゃ無いかと思ってた。いや、それでいい。頼りになるよ。正直、俺の方がびびっちまってる」
「精霊たちがひどい状態・・・変容してしまっている者たちもいるわ」
「あぁ、だが、まともな奴らを捕まえて、運んでもらおう。極限まで精霊界に入り込めば、彼らの力で一気に移動できる。危険、だがな。それでも足で走るよりは、安全でかつ、遠くへ行ける」
意味消失して、精霊界で漂う魂魄となるか、蛮族たちに捕まり、切り刻まれて血を抜かれ、腸で消化された後に糞尿となり土に還るか、そのどちらの危険を選ぶか、という話だ。魂の在り方に重きをおく我らの答えは、血族の生まれ故郷である前者での死を選ぶ。
健全なあり様を維持している風の精霊たちを選りすぐり、協力を乞う。彼らもまた、エルフの村同様に危機に瀕していた。生き物の心に影響を受けやすいため、蛮族の狂気に晒され、別の何かに変容をきたすよりも、エルフと共にあることで健全な姿を保つ道を彼らは選択した。
「村の事は無視しろ。物質界の出来事を忘れ、精霊界に浸透してゆくんだ」
それは、達人たちでも難しいことであった。さらに、戦火の悲鳴と蛮族たちの狂気が蔓延る、その只中での試みである。だが、村全体の意識は、私たちの心に告げている。二人の旅立ちに最後の希望を託したのだと。何としても成功させねばならない。皆、死を覚悟し、最後の希望のため、時間を稼いでくれている。
なんという悲しみ。なんという自責の念。
互いの身体が物質界での認識の呪縛から解かれ、うっすら透け始めた時、私たちのいる部屋が急に傾いた。木の上に設けられた部屋は、その根本を断たれて崩壊したのだ。
半ば精神体と化した私の体は、地面に叩きつけられ、粉々に砕けた家屋の破片と共に投げ出される。物質の理から乖離していた為に、怪我を負う事は無かったが、痛みは感じた。その痛みが、再び物質界へと私の存在を連れ戻されてしまった。
私と共にいた彼の身体を探す。精神化が遅れていたのだろうか、彼の身体は家屋の柱の下敷きとなり、半ば潰れていた。
「残念・・・無念・・・失敗・・・誰も逃さない」
悪意のみに彩られた不快な思念が流れ込んで来て、頭の中で底無し沼の渦のように回り始めた。私は村の最後の希望なのだ。だが、それは蛮族にも共振され、かの者の知るところでもあった。私の心を引き摺り出した者の気配を、再び間近で感じながらも、私は顔を上げることが出来なかった。あの瞳で覗き込まれる事を、その恐怖を、身体が拒否して強直する。
全てを否定し、破壊し、呑み込む事だけを望む意思。それはただの狂気だ。同族である蛮族社会の繁栄すらも望んではいない。純粋な破壊衝動と、それを実現させるための神秘性の維持。なぜ、そのような者がこの地上に存在を許されているのかさえ、全く理解できなかった。他者に利益をもたらすことのない、純然たる存在悪が、なぜ自然界での営みが許されるのか。この世界にとって、何の存在意義があるというのか。自らのあり様を振り返る時、かの者は何を想うのだろう。疑問だった。異議を唱えたかった。到底、納得ができなかった。私たちは、なぜ死滅させられなければならぬのか?それとも、消し去る行為そのものに世界の意思が介在しているとでもいうのだろうか。
「それを知るためには、先ず、生き残らねばならぬ」
村長がいた。精霊界からの恩恵を最大限に得て、途方もない魔力を発するその姿は、もはや人型であるとも言い難い、取り返しのつかない変容を遂げていたが、私に対して深い慈愛の念を抱く、もはや世界でただ一人の私の味方であった。だが、しかし・・・ああ、何たる事だろう。その胸からは、背後に聳える、かの者の片手が生え出しているではないか!
村長の蜃気楼のように揺らめく手から、一振りの剣が放られ、私の目の前の地面に突き刺さる。
それを掴もうと、かの者が蠅の大群であるかのような黒い靄の手を伸ばしてくる。
「生き続け、知り尽くすのだ。それがお前の星ぞ」
私は剣を握らねばならない。村長の意思が私の身体を支配し、そうさせた。そして、私の身体を風の精霊で覆い、彼方へと吹き飛ばした。
精神世界に引き摺り込まれ、夜空の彼方へと飛ばされた私は、自分の存在が薄く引き伸ばされ世界に溶けていく感覚を覚え、自我の消失を覚悟した。どれほどの距離と時間を越えたのかは判らなかった。気絶と同じで、西方諸国と言われる地方の一角で目覚めた時、時間の経過を感じなかったのだ。ただ、目覚めと同時に強烈な不快感に襲われた。
例えるならば、それはまるで硫黄のようだった。微弱な毒素を帯びながら、鼻腔を刺激する臭い空気。ヤギの乳を大量の水で薄めたかのような、稀薄な精霊力。不快に混線し、泥濘のように重たい意識の糸。
瞬時に嘔吐し、また気を失った。
吐瀉物で死に至らなかったのは、私を介抱してくれる者がいたからだ。耳が短く、神秘性の欠片も持たない獣のような存在だったが、知能は高く、言葉を操り、高度な物質文明を持っていた。その代わりに、精神世界の往来や共振による念話などは失った種族。集団で生活しながらも、個々は孤独な生き物たちだった。
今思えば、その時の私は大変に幸運だった。
体調を崩している少女に対し、介抱を優先するだけの良心を持つ男に拾われたのだから。村長から託された剣も、寝台の側に立て掛けられていた。随分と野心の無い男だった。最も私の肉体には内心、興味津々ではあったのだが。
その男が初めて私にかけた言葉は、当時の私には判らなかった。しかし、その意思は読み取る事が出来た。
「名を言えるか?」
そう問うたのだ。私は推察した。どうやら、この種族は個体ごとに違う名称を付けて呼び合う文化を持っているらしい。何ということだろうか、一千人いたら、一千の違う名を用意し、かつ全てを覚えるということだろうか。その時には、そんな事を思ったものだ。
兎に角、何か自分の呼称を誂える必要がありそうだった。そこで仕方なく、森の言葉を発音して聞かせた。それには、自分の過ちに対する自虐を込めた。
「知識の魔物」
それに、こんな見知らぬ居心地の悪い世界で、私ただ一人、すぐに野垂れ死ぬと思っていた。名前というものを、これほど長く使う羽目になるとも、その時の私は想像だにしていなかったのだ。森の言葉を理解する者は、誰一人としてこの西の世界には存在しない。私だけが、その意味を理解しながら発する、それは私があり続ける限り共にある、呪いの言葉となった。
冷たい風が髪を揺らし、私は覚醒した。稀薄な精霊力のこの世界では、睡眠による回復も乏しい。私はいつまでこの世界にいるのだろうか。私もまた、あのうさぎと同じなのだ。同郷の同族に出会う事もなく、元の世界に戻る術も無い。うさぎが去って行ったように、私もまた、この狂乱が収まった後、騎士団から姿を消すだろう。私の好奇心が満たされる結果になるかどうかは、まだ分からない。だが、どんな結果になるとしても、私の知識欲は永遠と続くのだ。この不完全で無秩序で、暴力と死に満ちた世界にただ一人、生き続けるための意欲を養う娯楽を、求め続けねばならない。
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