第6話 雪中行軍

 年が明けた。

 グラスゴーの街中は、新年の祭事で大賑わいだ。剣の神を祀るそれぞれの神殿が、趣向を凝らした輿を掲げて、街の通りを練り歩く。輿の後には、司祭を先頭に白いフードを被った信者たちの列が続く。聖水と花を撒き、通りをくまなくお清めしてまわるのだ。冬の間は、農業をはじめ、交易船や行商人などの流通も減り、仕事が暇になる者が多い。一年間、コツコツと準備した成果を、神へ捧げ、広く市民にお披露目できるこの一週間が、市民にとってかけがえの無い楽しみなのだそうだ。

 ローズ、クレマチス、プリムラ、ビオラ、アネモネ・・・豊かな色彩が、普段は味気のない石畳を飾り、風に舞い上げられて雪のように踊り回る。

「まるで夢のよう・・・」

 現実味が無い。

 幼い少女たちの一団が、清楚な白いドレスの裾を摘んで挨拶をしてから小走りに通り過ぎる。私は微笑みで礼を返した。

 こうして、領主が一人で街の中を出歩ける治安の回復が、この四ヶ月の成果だと言える。

 今日ばかりは騎士たちも役人たちも休みで、私がこなす公務もない。この一週間が終われば、待ちに待った出兵に向けての最終調整に入る。

 鍛錬と武具の製造の遅れが挽回できず、予定していた一万五千の兵士のうち、訓練中で軍装も整わない三千をこの街に残すことに決めた。山の民たちからも五千、その他、辺境の町や村から三千の市民兵たちが集結する。軍馬の調達と、それを乗りこなす騎兵の確保は、結局のところ大幅な妥協を余儀なくされた。戦で馬に乗って戦うことは、決して容易いことではない。戦場の狂乱と痛みに、調教された軍馬であっても取り乱す。それを乗りこなす人もまた、戦に慣れ、馬の気持ちを理解できる者でなくてはならないが、そもそも、庶民が触れ合えるほどに乗用馬は安価ではない。馬に乗れる人が、稀なのだ。相手の兵馬の構成によっては、会戦は避けねばならない。五百足らずの騎馬では、両翼を回り込み、よしんば後背を突こうとする騎馬を押し止められないからだ。

「姫様、何を描いていらっしゃるの?」

 すみれ色のドレスを着た少女が、話しかけてきた。

 気がつけば、石畳の隅に溜まった砂の上に、ローズの枝で会戦の配置図を描いていた。

「私だけが知る、秘密の魔法陣よ」

「魔法?姫様は魔法使いなの!?その魔法は、どんなことが起こるの?」

「ふふ・・・この街の少女たちが、美しく育つためのおまじないよ」

「わぁ、すごい、ありがとう!剣の姫様!」

「みんなには、内緒なんだからね!」

 さっそく約束を反故にして、母親にでも報告に行ったのだろうか。すごーい!と叫びながら少女は通りを走り去って行った。

 一つ大きく伸びをして、首を左右にストレッチ。

 私がこんなでは、市民たちとの温度差が開くばかりだわ。早めに神殿の挨拶回りを終えて、城でゆっくりしよう。そうだ、女中たちにも暇を出しているのだった。帰りに晩御飯でも買って帰ろう。お祭りの間は、出店には不自由しない。あれ、でもお店があるってことは、働いている人がたくさんいるってことか。ふふ、市民たちも逞しい。私は道ゆく人たちから声をかけられる度に、手を振って返しながら、剣の神の神殿を回った。故郷を奪還する戦も、フラタニティの陰謀も、神格化を巡る対立も、まるで夢だったかのように、街の通りは穏やかな笑みで溢れ、賑やかで、そして退屈だった。


「街の護衛は、三姉妹に務めて貰います」

 それから一週間後に開かれた会議で、私は告げた。

「お言葉ですが、私たちは騎士であり、癒し手です。是非とも従軍したく存じます」

 セヴリーヌを筆頭に、三姉妹は立ち上がって抗議した。

「此度、従軍できる新たな癒し手は、二十名。うち戦闘経験がある者六名は前方に配属、他は後方に配属をしております」

 ロロ=ノアが捕捉する。

「セヴリーヌ司教、人手がどうこうという話だけではありません。アドルフィーナ神を総鎮守として改めた今、その司教を務めるあなたの存在は、街の人々の心の支えとなります。ハイランド王国の出方も不透明な状態で、辺境一の大都市の防衛を任せるのです。ただの司教に務められる事ではありません。貴方がた三姉妹は、この私も敵わぬほどに市民から深く、信頼を勝ち得ていることは周知の事です。ここは、是非にも引き受けて頂きたいのです」

 三姉妹は心底、気を落としたように俯いた。

「では、イレスだけでもお連れください」

 次女のミシェルが口を開いた。

「この子は、まだ神官としては未熟で、やんちゃが抜け切れておらず、この街に残してはきっと騒動を起こします」

「姉様・・・」

「私からもお願いします」

 セヴリーヌも頭を下げる。こういう言い方をされては、断り難い。

「わかりました。イレス、貴方の弓の腕前に期待しています」

「ありがとうございます!きっと姉様たちの分まで、活躍してご覧にいれます!」

「ギレスブイグ卿と仲良くするのですよ」

「セヴ姉様・・・諸兄の前で、そこまで子ども扱いしないでください」

 騎士たちが一斉に笑い出した。ギレスはいつものように、特に意に介した様子もなく静かに会議の進行を見守っている。

「出立は予定通り二週間後です。アマーリエ地方への侵入ルートは、検討を重ねた結果、最後に残った二つのうち、どちらとするかを今決めます。ロロ、お願い」

 壁に地図のタペストリーを掲げると、彼女による流暢な説明が始まる。そして、この街で冬を越した六人の行商人たちを情報源として呼び込んだ。彼女は、いつもそつが無い。グラスゴーの土地区画の設定と税額調査という難事を取り仕切りながら、周辺一帯の地勢調査までやり遂げるのだから、益々彼女に頭が上がらない。

 辺境の北限からの侵入ルートは、言ってみればリスクの大きい最短ルートと、比較的踏破が容易な迂回ルートの二種類となる。迂回ルートには、湿地帯をかすめるという重武装の兵馬にはなんとも厄介な壁はあるが、そこさえ越えて仕舞えば、ほとんどが勾配の無い道を辿ることになる。ただし、山岳地帯沿いに広がる湿地帯の中心部を、大きく避けて通らねばならぬため、領地の南端に着くまでに二十日を要する。逆に危険ルートは、危険を迂回しない、という事を意味する。高山を越える道は非常に険しく、この時期にはまだ雪が残る。季節的に大きなリスクがあるのだ。しかし、山さえ越えれば、勾配はあるものの商人たちが開いた道は信頼できる。荷馬車の通行も可能だという。そして何より、十日という短時間で領地の南東に到達できるのだ。十日後のアマーリエ地方は、早春の頃。二十日後は花咲き乱れる春真っ盛りの時期となる。ハロルド市の陥落を狙う男爵たちが、今年こそを決戦の時と目するのならば、春先からの攻勢に出るだろう。すでに物資、食料が絶えて久しい城市は、冬を越えたばかりで憔悴しきっているところだ。攻勢が始まって仕舞えば、ひとたまりもない。

 騎士たちは、商人たちを質問攻めにする。あやふやな答え方をすれば、徹底的に深掘りされた。聞くことが無くなった頃あいをみて、ロロは彼らを退室させた。

「私の意見は控えておきます。では、挙手により結を取ります!」

 圧倒的多数で、山越えが支持された。

「防寒着の手配は、誰がやっていた?ちゃんと揃ったのか?とんでもない数だぞ」

 オラースの声に、ミュラーが挙手する。

「名前からして、お前が相応しいなんて押し付けたのは、貴方ですよ!?コホン。つつがなく、手配は完了しております。どうか、ご安心を」

 オラースは素晴らしい、と拍手で讃えた。なんとも、面の皮が厚いものだ。

 私のジャンロベールとオラースへの疑念の種は、日を経るごとに育っていった。ジャンロベールが数字に強い事は周知のため、彼に公の食糧調達と管理を任せ、その補佐にオラースを付けた。汚職をするならば、もってこいの部署だ。しかし、神経質な性格のジャンロベールは帳簿の完成度を高めるだけで、職務を完璧にこなした。少々、あからさまだったかも知れない。オラースはというと、上手く帳簿を誤魔化す手段を思いつかなかったのか、職務はもっぱらサボりがちで、代わりにクルト指揮の兵卒訓練に連日のように顔を出していた。彼の仕事に本来、暇はない。持て余したのは時間ではなく、体力だったのだろう。クルトの話では、泊まりの行軍訓練まで兵卒と同じ装備で着いて来たらしい。彼にしてみれば、自分の職能を活かした働き場所を求めたのかも知れない。ただ、野次と下品な所作が彼の欠点だ。それによって、彼は何処にいても雰囲気を悪くしてしまう。クルトはついに、口を挟むなら帰れと怒鳴りつけたらしい。若年であっても、クルトは訓練兵たちから見えれば、教官だ。その教官に野次を飛ばされては、兵士たちも困惑し、規律を守る精神が育たない。

 もしかしたら、私は敵を求めているのかも知れない。戦いの場では命を狙ってくる相手を、平和になれば、些細な反抗心の芽を摘み取って、底知れぬ闘争本能と優越感を満たし、自分の立ち位置を再認識しているだけなのかも知れない。彼ら二人は、実はちょっと悪びれただけの、同郷故の友人同士なだけなのかも知れない。判らなくなってきた。ジャンロベールは、新しい騎士だが、それでも父の代から仕えている。名門の家柄で、地味だが着実に実績を重ねている。オラースは、武勇において抜きん出ている。確たる証拠もなく、彼らを不遇な扱いには出来ない。

 かくして、ロロとも協議の上、陣容は次の通りとした。

 軍師ロロ=ノア

 参謀ギレスブイグ、ミュラー

 従軍司祭ボードワン 彼には神官戦士たちを総てもらう

 虎の子とも言える弩兵部隊千名をイネス

 野戦において重要な存在となる騎馬兵五百騎をスタンリー

 ジャンロベールに主力となる重装歩兵五千名

 ワルフリード、オラース、ケレンには軽装歩兵三千名ずつ

 イーサンには、物資を抱える工兵たちと補給部隊の合計五千名を託した。

 この他に、斥候と潜入工作を受け持つ、ロロ=ノア配下の野伏部隊、私の直掩に近衛隊を含む重装歩兵三百名と伝令たちがいる。

「イーサン卿、補給は全軍の士気を左右する軍の要です。それに貴方の指揮する人員は、ジャンロベール卿にも劣らぬ規模です。良く考え、機を図り、くれぐれも軽挙妄動は慎むように」

「はい!一命に変えても任を全ういたします!」

 最年少の彼は、勢いよく立ち上がり、緊張した面持ちで応えた。

 私は一同の顔を見渡す。辺境南端の任についている二人を除いて、もう一人の姿はここには無かった。

 北の森からやってきた、若くして勇猛果敢な騎士クルト・フォン・ヴィルドランゲと、彼の従者ル=シエルとは、去年の暮れに袂を分かった。


 出立から五日後、山越えがはじまった。

 しかし、この日、季節外れの寒波に見舞われる。

 雪が硬くなっているから、表面を砕いて藁を敷いて荷馬車を通せ。そう商人たちから教わっていた。最初はそれで良かった。だが、突如として襲いかかった吹雪は、瞬く間に道を覆い隠し、どこを進めば良いかさえ定かではなくなってしまった。

 風が体温を急激に奪った。ミュラーが用意してくれた厚手のサーコートや毛皮の外套も、もはや意味を成さない。身を貫く寒さ、と言うが、その表現はまだ生やさしい。あまりの辛さに、一時さえ居ても立っても居られない、そんな状況がずっと続いている。

「引き返しましょう!」

 風に仰がれながら、私に追いついたボードワンが進言する。

「どちらが近いと思う?」

「今、なんと!?」

 口から発した声が、一瞬でどこか遠くへ飛ばされる。声を張り上げようと息を吸うと、冷気で喉と肺が痛んだ。

「山を登って二日目なの!前と後ろと、どっちが近いの!?」

 ボードワンは、顔のしわをさらに深くした。

「わかりませぬ!剣は、何か語ってはくださらぬか?」

 剣・・・?私はハッとして魔法の甲冑に心の中で、語りかけた。

『かの山の包囲戦を忘れたか?踏破したことのない場所を知る由もないのは、我も其方と同じことよ』

 雪山で埋もれて、新たな迷宮を作る羽目になりそうなのよ?何か、解る事はないの?なんでもいいから!

『我の力で其方を温められるのなら、すでにそうしておる。我は鎧ぞ、叡智を望むならば、諸国を旅した不死の輩がおろうに』

 長く存在するだけで、まるで役に立たない!

「ロロ!側にいるでしょ?どこ?」

 顔が痛い・・・氷混じりの雪で目もろくに開けられない。

「・・・失礼します。レオノールが代わりに申し上げます」

 吹雪の白い壁の中から、金髪を靡かせながらエルフの女性が姿を現した。ロロ=ノアの補佐をしている野伏部隊の長だ。体が軽いためか、風に飛ばされないよう、地面に手をついて報告する。

「紋章官殿は、すでに対処にあたられております。この吹雪の原因は狂った精霊によるものとのこと。しかしながら、語り掛けには応答せず、折衝は難航のご様子」

 折衝?精霊と交渉しているの?

「その精霊は、どこかに追い払えないの?ずっと、ここにいるつもり?」

「申し訳ありません。狂った精霊の動向は、私には測りかねます」

「分かったわ、ロロには、折衝を続けさせて。それと、貴方の考えを聞かせて頂戴。先に進むのと、戻るのとどちらが短時間でこの吹雪を抜けられると思う?」

「それについても、言付かっております。元凶は戦闘集団より後方、補給部隊の列にあり。このまま前進されたし、とのことです。私の意見ですが、後方の道も最早、来た道とは様変わりしております故、戻るにしても困難かと」

「分かったわ、前進を続けます。貴方は、戻る道すがらその旨を兵たちに伝えて頂戴」

「御意」

 彼女は一礼して、姿を消した。少し離れただけで、あっという間に吹雪で見えなくなってしまうのだ。気をつけて、の声も間に合わなかった。エルフの彼女には、道が見えているのだろうか。何はともあれ、その元凶とやらが取り除かれるか、自然消滅するまでは、この吹雪は止まないのだろう。風を凌げる場所でも見つかれば良いが、それも二万人分となると望むべくもない。

「前進せよ!休まず進め!」

 私は肺の痛みに堪えながら、声を張り上げて進んだ。

 白い空と、白い道。相当な高さがある崖沿いを進む道であるはずだが、何も見えないためか、不思議と恐怖はなかった。あるのは、疲労と絶望感。埋まってしまう脚を引き抜きながら、わずかな距離を進むにも体力が削られていく。手足の先はまるでどこかに消えてしまったかのように感覚が失せ、顔は小さな氷柱と積もった雪で覆われていく。

「ご報告!荷馬車が数台、滑落した模様・・・」

 伝令が私の隣に倒れ込むように駆け込み、それだけ言うと、血を吹き出して咳き込み始めた。私は慌てて彼を抱き上げて、治療を求める。それに気づいた兵たちが、後ろの者たちに伝言を告げる。

「ごっ・・・神官たちは、手一杯・・・ぶっ」

 伝令は口から血の泡を吐きながら、目を広げてもがき・・・口を大きくあけて・・・やがて息絶えた。

 彼の目を瞑らせ、雪の上に横たえる。

「下に落とします。ここに置いては、つまづいた者が滑落してしまいます」

 ギレスが伝令の身体を持ち上げ、下に投げ落とした。その姿は、すぐに吹雪の中に消え失せる。

 あぁ・・・。

「ギレス、今まで何処にいたの?」

「ずっと、お側におりましたぞ。それを言うならば、ミュラーの姿が見えませんが」

「前を歩いているわ」

 その時、前を歩く近衛の兵の姿がさっと消え失せた。まるで、白い絵の具で上塗りしたかのような。

「雪崩です。これは厄介なことに」

 厄介は、今に始まったことではない!

「ミュラー!?無事?」

 雪を掻き分けて、埋もれた人の身体をまさぐりあてる。

「姫、危険です!雪がまた動いたら・・・」

 危険は、今に始まったことではない!

 手にはすでに感覚が無かったが、何かに当たって引っかかった。雪を掻き分けると、近衛兵の顔が姿を現した。彼は息を大きく吸って、むせ込むと、笑顔を見せた。名前を聞くと、オラルドだと返した。特に痛むところもないと言う。

「アマーリエ、ご無事で!」

 ミュラーが戻ってきて、近衛を引き出すのを手伝ってくれた。雪崩は、小さな規模だったようだ。ミュラーは、槍を刺して盾を並べて埋めるように指示する。気休めだろうが、同じことが起こらないように、対策をしないわけにはいかない。槍の石突きで雪崩のあった雪を突いて回るが、他に人は見つからなかった。何人か、落ちたのかも知れない。だが、ここで隊列の進行をいつまでも止めておくわけにはいかなかった。

 その時、突然、吹雪の中でゆったりと泳ぐ裸の女性の姿を見た。

 まるでグラスゴーの街で見た花吹雪のように、キラキラと光る雪を無数に纏いながら、その美しい女性は死と隣り合わせの白い世界に漂う。

 心臓が締め付けられ、全身に鳥肌が立った。

 半透明のその姿は、白いようで赤く、赤いようで青い。

 それは、私の周りをゆっくり一周すると、微笑みながら吹雪の中に消えていった。

 自分が、息を止めていたことに気がついた。周りを見渡すが、誰も慌てる様子もない。私だけが、見たのだろうか?今のは、なんだ?亡霊か?いや、もっと悪質な力と意思を感じた。私が時折見る亡霊とは、意思を感じる点で異質だった。

 今のが、精霊だろうか?

 見渡しても、もうその姿を見つけることは無かった。

 恐ろしい眼差し・・・憎しみでもなく、怒りでもなく、ただ、悪意だけを感じた。見たこともない、心のない指向性の無い純粋な悪意。

 ここで私を釘付けにして、凍らせるつもりだろうか。そうはさせない。こんな山で死ぬために、この二年間を生き抜いたのではないのだ!

「前進を続けよ!止まるな!歩き続けよ!」

 恐怖心をかき消すように、がむしゃらに怒鳴った。

 兵士たちは、夢遊病者のように歩き続けた。

 ゆっくりと、無心に。ただ、ひたすらに。

 足が抜け切らず前のめりに倒れ、崖の切れ目に気づかずに片足を落とし込みながらも、私たちは、ただひたすらに歩き続けた。ふらふらになりながらも、ただ、ひたすらに。足を抜き、足を沈め、また足を抜く。それだけしか生き残る道はなかった。

 暗くなり始めた頃、雪が止んでいることに気がついた。いつ、止んでいたのかも定かではない。依然として吹き荒れる風は体温を奪い、まるで心臓まで氷りそうだ。だが、足元の雪は以前よりも浅く、固くなり、前後に連なる人の列を視認することができた。

「姫、一旦、お休みになられては?」

 ギレスが髪の毛から下がった、たくさんの氷柱を払いながら言う。氷柱は癖の強い彼の黒髪に埋まり、いくら払ってもその数を減らさない。

「後続たちがまだ吹雪の中かも知れない。少なくともまだ・・・そうね、半日は歩かないと」

「では、歩きながらでも、何か口にしてください。体温が戻ります。アッシュ!いるか?姫に何か消化の良いものを」

 アッシュは巨大な背負い袋を一旦、道に置くと、ゴソゴソと中身を漁り出した。よくここまで、その荷物を捨てずに歩いてきたものだ。私の従者は三人いるが、誰一人として私の荷物を捨てずにいてくれた。アッシュは、震える手を息で温めながら、パンに固くなった蜂蜜を擦りつけて差し出してくれた。手に取ろうとしたが、私も指が動かない。仕方がないので、鼻水を拭ってから口をあんぐりと開く。

「あん」

 失礼します、と口に放り込まれたパンを噛み締める。

 じゃりっと、粒子状の蜂蜜が歯にあたった。

 ・・・どうだろう?これは、まさに花園の味!

 蜂さんたち、ありがとう!

「貴方も食べて」

「じゃぁ、舐めるだけ、で」

 手についた蜂蜜を舐めて、すぐに荷物をまとめ直す。他の人の目を気にしたのだろう。私ももっと欲しかったが、他の者たちの心が折れるかも知れない。一人ふたりが止まったり歩いたりは、すぐにできるが、大人数となると何十倍も時間がかかる。ここで、隊列を止めるわけにはいかない。私は、アッシュに礼を言うと再び歩き出した。

「そろそろ、頃合いかと」

 まるで夢遊病者のように、無心で歩いていた私に、ギレスが声をかけた。パンを食べたのは、さっきの事のようだが・・・。

「そうして」

「御意」

 ギレスが休息の旨を隊に告げに行く。私は、アッシュたちに誘導されて、行き着いた先で倒れ込んだ。口に何かを入れられ、何かを注がれた。溺れそになり吐き出そうとするが、口を押さえられる。仕方なく、それを咀嚼して胃に流し込むと、葡萄酒とパンの香りがした。

 その夜、私が覚えているのはそれだけだった。

 朝は最悪な目覚めだった。頭の芯まで氷を詰め込まれたようだ。身体が冷え切り、頭痛がひどい。吐息も冷たいためか、吐く息は昨日ほど白くない。夢は覚めても、悪夢は続いている、そんな気持ちだ。それに、指先に物が触れると激痛が走る。熱もあるように感じた。

 何も考えられず、ぼぅっとしていると、ギレスがアッシュを伴いやってきた。

「生きておられますな?雲は晴れませんが、雪は降っていません。今日歩けば、今晩のうちに山を降りられましょう。下に降りれば、風も暖かくなります。さぁ、希望を捨てずに今日も歩くのです。まずは、朝食を。アッシュ、嫌がっても喰わせるのだ。蜂蜜とパンだけでもいい」

 座ったまま、アッシュが口に詰め込むモノを咀嚼した。

 しばらくすると、頭痛が和らぎ、少しずつ思考が蘇る。

「昨夜、死んだ人は?」

「数は分かりませんが、相当数いるようです。具合を崩しているのは、半分ほどです」

 ・・・。

「損害の規模は判らない?」

「損害・・・ですか?今は、なんとも」

 ・・・。

「ロロは?」

 アッシュはかぶりを振る。後続部隊との連絡は、復旧していないのだろう。

 午後になって、再び風が出てきた。寒さも全く和らいだ感覚はない。そして、頭痛と手足の痛みは、一日中私を苦しませ続けた。

 また、いつ寝たのかも覚えていない。

 ただ、夜中に目を覚ました時、澄んだ夜空に、満天の星が光り揺らめいていた。まるで、手が届きそうな、そんな気がした。

 次に目が覚めた時、とても気持ちが悪く、頭が割れるほど痛く、視界はぐるぐると歪んだ。これは、一大事だと自分でも気づく。だが、身を起すこともできずに、ただ耐えているしかない。言葉を発する気力も起こらなかった。

 目を覚ますと、毛皮のフードを着込んだエルフの美女と、灰色の髪の少年がいた。

「目を覚ましました!アマーリエ様、すみません。私がついていながら・・・」

 肩口に泣きつく彼の頭を撫でる。相変わらず指の感覚は無かったが、ガントレットが外されていることに気づくほどには、頭痛はやわらいでいた。

「大丈夫よ。だいぶ良くなった。二人のおかげよね」

 空は見えなかった。いつの間にか、小さな天蓋の中に納められたみたいだ。香が炊かれて、幾分、暖かい気がする。

「なんとか火を起こし、湯を沸かしました。湯で手足を揉みましたが、左手は手遅れです」

 それで暖かいのか・・・何?・・・手遅れ?

 自分の左手を見ると、ところどころ赤く腫れ、特に左の小指と薬指の爪が、赤黒い色に染まっていた。

「そちらの指先は重度の凍傷にかかっています。温めてから再び冷えると、さらに酷くなりますので今は処置ができません」

 ロロが淡々と説明を続ける。

「下山した後に改めて手当を行い、最悪の場合は、切断しなければならない可能性もあります。お覚悟ください」

 そんな・・・ロロを見つめた。

「最悪の場合、という話です。その場合でも、指先だけで済むかも知れません。不自由はあるでしょうが、きっと剣は握れますよ」

 アッシュは肩に抱きついて泣いていた。その頭を撫でながら、私は告げた。

「もう動いて平気ならば、進軍を開始します」

「左手は布で包みます。擦れてはいけないので。右手と両足はなんとか行けそうです。血液から毒素を抜きましたので、きっともう歩けますよ」

 彼女の魔術に救われたのは、これで何度目になるのだろう。

「・・・貴方がいなかったら、死んでいたのかもね」

「何、今に始まったことじゃありませんよ。出会ってからずっと、貴方は死にかけてばかりです」


 降雪地帯を抜けて、大規模な野営を行える平地に辿り着いた時になって、私はようやく兵の損害状況を知る。失った人員は二千名におよび、多くの物資が谷底に消えていた。あれほど必死に工面した軍馬も百頭を失い、騎士たちの愛馬もそれに含まれていた。失ったものは、まだあった。私の左手の薬指と小指の中ほどから先は、鋭利に研いだ短剣で切り落とされた。捨てるように言ったが、アッシュはそれを絹で包んで仕舞い込んだ。

 腐るわよ・・・気持ちが悪い・・・。

 止血帯を巻いたまま、すぐに剣を構えてみる。両手持ちの私にとって、違和感は計り知れない。左手の小指がどれほど役に立っていたのか、改めて思い知った。

「イーサン卿がお見えです」

 番兵の報告に通して、と答える。

 最年少の新米騎士は、すっかり憔悴した様子で物資と補助兵たちの状況を報告した。

「・・・以上が、人的損害です。物資の方ですが、槍と、矢を積んだ荷車をそれぞれ失いました。それに、食糧、七日分を失いました。ご信頼をいただいたご期待にお応えできず、誠に申し開きする術もございません。如何なる処罰もお受けいたします!」

 彼は俯いたまま顔を上げず、毛皮の敷物に涙を垂らした。

「イーサン・・・あの時期にかような大雪が降るなんて、誰も予想だにしていませんでした。多くの荷車を人馬一体となって運び切ってくれた働きに、感謝こそあれ、どうして責められましょう。貴公は兵たちを激励し続け、責務を最後まで果たしてくれました。顔をお上げなさい。誇って良いのですよ」

「もったい・・・なき、お言葉です・・・必ず、挽回します。精進を誓います!」

 イーサンが退出するのを見計らって、神官騎士イネスが来訪した。彼の姿が遠のくのを待ってから、彼女は告げた。

「槍は無くても戦いにはなりますが、矢がなければ弓兵は役に立ちません。増して、クォレルが無ければ、せっかくの弩部隊も無力です」

「まるで、無いの?」

「個人が携帯していた分はありますが、一回の戦闘で終わりです。攻城戦ともなれば・・・」

 弓兵たちに剣を持たせれば、補助兵として役に立つか、といえば否だ。傭兵たちならいざ知らず、我が軍の兵たちは市民兵が主体だ。生計を立てるために仕事がある者を、順番に時間を作らせ、教導した。弓も剣も人並み以上に、とはいかない。人には向き不向きがあるから、どちらも会得できる者は、元来一部の人間に限られる。特に弓矢の扱いには、適正のある者を選抜して訓練させた。剣があっても矢が無ければ、まともな戦力にはならないのだ。

「判ったわ。矢については、優先して対応を考えるわ」

「クォレルも、です。よろしくお願いします」

 イレスは、頭を下げて退出した。やれやれ、だ。まさかここで鉄を精製して、鏃を加工できる訳でも無い。敵軍から物資を奪うしか、方法はないだろう。

 凶兆はそれだけではなかった。斥候に出ていたレオノールが、潜入した集落から持ち帰った情報が、私たちの心を打ち砕く。

 まさか、これほどの逆境があろうとは、思いも至らなかったほどに。

 彼女は、金髪を床に垂らしたまま、歯を噛み締めるようにゆっくりと話した。

「蛮族の集団が大架橋を突破し、ハイランドの東の平野を荒らしているとの事でございます。その規模は五万とも十万とも・・・これに対し、皇帝が“聖戦“を発布しました。西方諸国は直ちに争いを止め、共同戦線を形成せねばなりませぬ」

 私の天蓋に集まった騎士たちは、ましてやロロ=ノアでさえ、この報告には沈黙した。

「事態の進展が早すぎます。蛮族の侵攻はいつから・・・」

「七日ほど前の事のようです」

 何が、どれほどまでに、私の行き手を妨げようとするのか。

 剣の憲章に記された聖戦の掟は、クラーレンシュロス伯領の軍隊としてではなく、辺境騎士団としても同じ効力を発揮する。その掟は、西方諸国に生を受けた、剣の神の子ら皆に発するものなのだ。

 沈黙の中で、指の傷だけが脈を打つように疼いた。

「申し上げます」

 伝令の声が、一同の注目を促した。

「ハルトマン卿が・・・ご帰還なされました!」

「何を・・・」

 一同が言いかけて、再び沈黙した。

 伝令の後ろから姿を現したその騎士は、青白い顔に赤い左目をもつ、しかし見間違いすることもない、明らかに彼の立ち姿であった。

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