第3話 アマーリエ
何を隠そう、私はお酒に強い。
父は止めなかったので、晩餐会ともなれば、騎士たちは楽しそうに私に酒を勧めてきたものだ。しかし、今晩はいささか度を過ぎたようだ。体調は良い日だったので、疲労と怪我の影響かも知れない。日中は、傷の手当と戦死したターラントとウルバンの葬儀を行った。二人とも、新参に類する騎士たちだったが、辺境制覇という無理難題の旅に同行してくれた愛すべき同志だった。葬儀の後の献盃の儀でも盛大に酒盛りがされたが、今晩はマンフリードを打倒し、街を暴君から解放するという命題も果たした祝いの酒盛りだ。騎士たちの羽目の外し様は、まるで、これが彼らの真の目的なのではなかろうか、と訝しむほどにそれはそれは豪快なものだった。流石の私も、今晩ばかりは勧めを断らずに応えた。それ故、今に至る、というやつだ。
もう夜半を過ぎているというのに、騎士たちは勢いを止めない。従者たちも、今晩は徹夜で給餌と片付けに従事する覚悟と見受けられる。食材と酒を提供してくれた市長には、感謝が絶えない。
ふと、部屋の角隅の席で座っている少年に気づく。血色が悪く、無表情でただ、静かにこちらを見ていた。
そう責めなさんな。
彼は、時折現れる亡霊だ。
見えるだけで、話しかける事も無ければ、寝床で首を絞めてくるような事も無い。 それもそのはず、私が一方的に思い出す記憶の影なのだから。ボードワンによれば、彼は、実態の無い、私の頭にだけ存在する過去の残影という話だ。
私が彼を殺したのは、八年前。当時、私はまだ八歳だった。
事故では無い。決闘裁判の結末として、彼は私に殺されたのだ。
その頃の私には、領民である同年配の友だちがいた。父との稽古と、家庭教師による勉学が無い日には、一緒に山野を駆け回り、狩りの真似事などをしたものだ。男の子に負けない、それが子ども時代の私の自負だった。
主に行動を共にしていた友人は、石工と大工、煙突掃除の息子たちと薬草売りに仕立て屋の娘たちだった。
普段、これらの友人たちとは、山の麓にあった廃屋で落ち合う事に決めていた。廃屋は雨漏りを修繕し、穴の空いた床には木板を被せ、毛布や布を敷き直し、きらきらした貝や綺麗な紋様の小石などを飾り立てていた。いわゆる“秘密基地“だ。そこで仲間と食べる昨晩の食べ残しのパンやキッシュ、そして木の実など、質素でパサパサになった食料は、何故か家での食事に負けない“ご馳走“の味がした。
その日、私が秘密基地に着くと、さっそく喧嘩が始まっていた。いつも真っ黒の煙突掃除屋は、石工にいじられていた。喧嘩に発展する事も珍しい事では無かったが、その時はどうしたものか、些か度を越していた。後で聞けば、普段の腹いせに石工が仕立て屋のハンカチを盗んだ事を、煙突掃除屋が暴露したらしい。石工は、仕立て屋に気があったのだ。陥れられたと感じた石工は、強さを誇示する事で面目躍如を図った。“卑しい出“と盛んに罵り、廃屋に転がっていた細い柱の破片を持って叩いたのだ。
私が現れたのは、丁度その時だった。
直ぐさま割って入り、棒を奪うと、石工にこう言ってやった。
「生まれの差を誇示する者は、自分自身の努力によって誇れるものを持たぬ事の証明だ!謝りなさい!三秒だけ待ってあげる!その子に謝って!」
これは、父の受け売りだったのだが、明らかに私の思慮の浅さによる失態だった。
「お前が言うか!」
石工の息子は、顔を真っ赤にして私の顔を殴った。その後の私の行動は、反射的なものだった。毎日の稽古で身体に染み付いた、単純な動作だ。次の一撃を左手で逸らし、右手の角材で脳天を殴った。子どもの力では、大事には至らなかったかも知れない。だが、私は普通の子どもでは無かったのだ。たった、その一撃で石工は動かなくなった。
父の態度は静かなもので、驚く事に私を叱り付ける事もなかった。だが、幼い私はそれが逆に恐ろしかった。さぞかし落胆させたのではないか、見放されてしまうのではないか、不安で仕方がなかった。その不安が、言わなくても良い言い訳を口にさせた。
「あの木は、湿って幾分重かったけれど、朽ちかけており脆かったのです。あれだけで、人は死ぬとは思えません。運に見放された末路なのです」
言わんとするところは、自分には非がない、と言う事だ。今なら想像は容易い、父はその卑屈な心を見透かした事だろう。しかし、父の反応は私の予想を超えていた。
「人の死を見るのは初めてだったな。慣れておくが良い」
父の言いつけは、神殿地下に安置された石工の遺体のそばで、一人で一晩過ごせ、というものだった。
部屋は薄暗く、百足が歩く音が聞こえるほど静かだった。遺体は黒い布が巻かれて隠されていた。石工の死顔を見る気にはなれなかったので、足元の布をそっと捲ると、青白くなった足が現れ、その冷たい肌に手の先が触れてしまった。慌てて布を戻す。
表面は柔らかいが、芯は硬い。そんな感触だった。
身体は機能を停止させ、ただ、そこに寝そべっている。いつも元気に威張り散らしていた石工の息子は、今日を境に死んだのだ。
私はふと、死体が動き出す話を思い出して、何か武器になるものを求めた。扉の鍵は空いていたが、そこから出るほどの勇気は無かった。一晩過ごせ、が父の命なのだから。そこで、扉の閂を外すと、それを胸に抱いて蹲った。
不気味で気持ち悪く、心細い。床の石は冷たく、天井付近の灯り窓からは、夜の冷気が降りてくるだけだった。
当然、すぐに眠ることなど出来ず、膝を抱えながら色々な事を思った。
頭を叩かず、腕なり肩なりを狙うべきだった。
最初の一撃を避けていれば、角材で反撃するような真似はしなかったかも知れない。
それとも、不意をついて先に取り押さえていれば、殴られる事も反撃する事も無かったはずだ。
実は、まだ生きていてそのうち、目を覚ますかも知れない。
死体に取り憑く死霊は、目に見えるだろうか。
神殿の中にも、死霊は入って来れるのだろうか。
死霊が取り憑いた死体は、閂で倒すことが出来るのだろうか。
悶々と考えるうちに、遺体から漂う微かな体臭が気になり始めた。天井付近の窓からは一層冷たくなった冷気が降りてくるだけで、風は無く、部屋の空気は停滞していた。気になり始めるとどうにも嫌になり、そのうち嗚咽感が湧いてきた。
その時、部屋の外に複数の気配を感じた。帯剣している事が音で判る。私は、父から見張りを命じられた従者たちだと思い、身を固くした。
「大丈夫か?ルイーサ。ここに、大勢控えておる。気を確かに持つのだ」
それは、叔父のハロルドの声だった。囁き声だが、神殿を管理するボードワンや、同年配のミュラーの声も聞こえた。皆、心配して様子を見に来てくれたのだと判ると、ここで初めて涙が滲んできた。
「ありがとう。でも、一人で一晩明かすのがお勤めだから・・・父に見つからないうちに下がって・・・頂戴」
不思議な事で、気が緩んだ途端、悲しくなる。人の気配を感じた途端に、寂しくなる。どうして、こんな事になってしまったのだろう。私が失敗をした性で、友人を一人失ってしまった。声を殺して啜り泣くうちに、いつの間にか眠っていた。
翌早朝、父に起こされた私は、眠っていた事を詫びたが、眠るなとは言っていない、と返され、何のお咎めもなかった。代わりに妙な問いかけをしてきた。
「被害者と加害者の違いが判るか?」
「言葉のままだと思います。私は・・・加害者だとおっしゃるのですか?」
「穿つな。よいか?君主はどのような時にも、加害者の立場で無くてはならん。被害者となった瞬間が、お前の存在の死と言えよう。それと、これも覚えておけ。加害者はその行いを容易く忘れるが、被害者は死ぬまで忘れん。こやつの親族が謁見を求めて来ている。お前も同席せよ。顔を洗って、着替えるのだ」
石工の父親は息子を連れて参内した。話したとは無いが、見たことはある。死んだ息子の兄だ。親子揃って立派な体躯をしており、気性もまた同様に激しかった。父とは旧知だったようで、領民の度を超えた剣幕で謝罪を求め、息子を生き返らせろと迫る。蘇生術は確かに存在していた。だが、その奇跡は高位の司祭が複数の神官の助力を得て行う高難度の儀式によるもので、この地方の神殿にはそこまでの高位の神官は存在しない。また、蘇生術によって蘇った者には死霊の穢れが残るとされ、蘇生術そのものが禁忌でもあり、術式に失敗すれば、冥界へは旅立てず、現世を永劫に彷徨う死霊そのものとなるという。
「一族の血に、呪いを刻みたいのか?」
父は落ち着いた態度で諭し、その一句で断念させた。だが、石工の父親は、次にはしきりと“責任“と“謝罪“の言葉を繰り返し、父を叱咤しはじめた。
私は領民である石工の不遜な態度を責める騎士たちの罵声、大音響による執拗なまでの石工の反論、父の静かに怒気を込めた難しい言葉使いなど、大人たちの剣幕に当てたれ、目眩がしていた。
やめて!みんな怒鳴らないで!
私がやったことで、大人たちが怒鳴り合うなんて。悪いのは私なのだから、私に言えばいいでしょう。
長く続く口論に耐えかね、ついに私は口に出してしまった。
「もう怒鳴らないで!原因は私にあります。私が責を負います!」
目眩いと耳鳴りに心を乱した私は、後で聞くとそんな事を口走ったらしい。騎士たちは、慌てて子どもの言った事だと、私の発言を有耶無耶にしようとした。それが、私の自尊心を幾らか傷つけた。
「決闘裁判だ」
石工の発言に、騎士たちは怒りを露わに一斉に剣を抜き放った。父は騎士たちを制すると、静まり返った謁見の間によく響く低い声で告げた。
「我が娘が、言った事だ」
決闘という言葉で、およその意味は悟った。私が八歳の子どもという事で、石工の息子が相手をすることとなった。正確な歳は判らないが、少なくとも五歳は年上の男の子だった。
父は年齢も性別も有利だが、剣は素人なのだから訓練期間が必要だろうと述べ、試合は二週間後の早朝と定めた。騎士たちの猛反対を他所に、父はその日の予定を全て断り、私を稽古場に連れ出した。
そこでの父の言葉は、たった一言だった。
私は、その言葉の真意を理解し、決闘までの二週間を最初の踏み出しの速度と距離を向上させるための下半身の強化だけに費やした。城の大庭で練習する私の事を騎士たちは、父から話しかける事を禁じられでもしたのか、遠巻きに見守るだけだった。単純な動作を繰り返す訓練だけに、二週間は長かった。その間に、謁見の間で見た男の子と対峙した際の事を何度も考えた。
前口上は必要なのだろうか。
神官のボードワンが立ち会う、神聖な試合だと聞いたので、最初に儀式はあるのだろうか。
相手はどんな手で来るだろうか。
袈裟か?素人には、間合いが難しいから、遠くから攻撃できる突きで来るだろうか。
間合いを詰める練習をしている私にとって、突きは厄介と言える。それでも剣先の向きと挙動を読めば、素人の突きを交わす事は難しいことではない。方向転換が難しく、攻撃範囲も一点のみの突きは、正確さと速さが肝となるからだ。体重の乗った袈裟と違い、突きは少ない力で、その軌道を逸らすことも可能だ。でも、まぐれという事もある。偶然にも私の中心を捉えた時、突進する私は自ら串刺しになりに行くようなものだ。
そこまで考えて、首を振って思考をやめた。
結局のところ、防御を前提にしては攻撃は成り立たないのだ。手傷を与える程度では、戦局はむしろ難しくなる。相手よりも先に、相手の中心を捉える。私が父から習い続けている剣技は、そういうものなのだ。
私は土が抉れるまで、最初の踏み出しの練習をひたすらに繰り返した。
かしくして二週間後、城の大庭で、決闘裁判は行われた。
日の出と共に、というしきたりがあるらしく、朝靄の涼しさと小鳥たちの囀りが印象的で、今でもその光景は鮮やかに記憶している。
畑の仕事はどうしたのか、領民たちが多く集まり、いつもは寝坊している子どもたちの姿もあった。その中に、煙突掃除と仕立て屋の子どももいた。私と目が合ったが、まるで他人のように目を逸らされた。この空気に呑まれて、どう振舞っていいのか判らないのだろう。
珍しく司祭着を纏ったボードワンが、決闘の理由を述べ、決闘の結果が神の下した採択であると告げる。決闘なんて、戦う人同士の技比べなのに・・・と違和感を覚えた。私はどうやら、信仰心が希薄であると自覚した、その瞬間だった。
相手の男の子は、大金をはたいたのだろう、鎖帷子の胴着と鉄の兜という出立ちだった。背丈は、私よりも二十センチ以上大きい。この時、私は初めて、年上のこの相手をずっと“男の子“と認識していた事に気づいた。何故だろう。自分は尊大なのか。 否、私の周りにはいつも大人しかいなかったからだ。だから、同年代の友だちは全員、子どもに見えていたのだ。彼は、私よりも五歳も年上の“少年“なのだ。
甘く考えていけない。全力で行こう。
だが、その少年の顔は蒼白だった。震えてもいる。緊張も甚だしい。それでも気を引き締めて、しっかりと私の顔を見返し、直立していた。
その姿勢に、潔いと私は敬意を抱いた。
ボードワンが、決着は降参か、死のどちらかである、と告げた時、少年は心なしか肩を硬らせた。
そうか。降参もありなんだ。降参してくれないかな・・・。
世事を知らない私は、単純にそう思った。今、思えば領主の一人娘を決闘裁判に引き摺り出した領民にとって、降参など死も同然の結末しかない事を当時の私は考え及ばなかった。今なら解る。彼らがこれほどまでに父に争ったのは、意趣返しなどではなく、辺境のほとりに暮らす我々、民族の誇りによるものだ。どの道、決闘に勝ったところで、彼ら家族に未来の希望など生まれはしないのだから。父が決闘に応じたのも、それを汲んでの事に違いない。
開始を告げる号令の後、一礼して剣を抜く。少年が両手に構えた長剣は、五歳下の私のそれよりも数段大きく、長かった。
だがしかし、降参しない以上、私のやる事は一つと決まっていた。
剣を身体の左後ろに構えて、歩み寄る。
父からの言いつけは、たった一言だった。
「二の太刀は許さん」
素人が迷うのは、最初の一撃だ。互いの死に直面する状況で追いつかない感情。
相手を殺す覚悟と、間合いや挙動を掴む経験則。
私には、それがあるのだろうか・・・彼を殺せるのか?
一足跳びに、間合いを詰めた。
「ひっ」
少年は身構え、身体を硬くした。
地面を削ぐほどに低い位置から股間を切り上げた一撃は、防具の無い太ももの内側をえぐった。
倒れ込んだ少年の表情は、高揚し、汗ばみ、必死の形相だった。戦意を失っていないと見た私は、大きく沈んだ体勢から身体を起こして上段に構え直す。
だめだ・・・二の太刀は、無いのだった。
だが、見下ろす私の視線からは、すぐに状況が知れた。
ズボンの色がどす黒く染まり、地面まで濡らし始めている。出血の量は凄まじかった。
本人がそれに気づいたのは、落とした剣を弄りあて、立ち上がろうとした時だった。力が入らず、目眩がしたのだろう。再び倒れ込むと、傷の具合を確かめ、更に白くした顔で私の顔を見上げた。
どうしよう?ねぇ、どうしたらいい?
彼の表情が語っていた。
私はボードワンに治療を訴えながら、剣を捨て袖をむしり、脚の付け根に巻きつけた。
だが事もあろうに彼は駆け寄ると、少年に戦闘続行の意思があるか問うた。
無意味な事を、と私は時間を無駄にする大人の行動を訝しんだ。少年は、慌てて首を振る。然もありなん。
年配の神官騎士は、それでも臨機応変な対応を見せた。決闘の結果を告げる前に、治療のための奇跡を神に祈り始めたのだ。私は手を血に染めながら、止血するためきつく縛ろうとする。当時八歳にして握力は相当にあったはずだが、絹が血で滑って思うように絞り込めなかった。習ってはいたけれど、実技に乏しかった性もある。あたふたしているうちに、ボードワンの手が、私の作業を制した。
「彼は戦神の御許へ逝く定めです」
私は反論した。
「なんで?諦めたの?誰が治療を止めていいと言いました!?」
「母さん・・・」
虚な目で、少年が私の手を力なく握っていた。慌てて周囲を見渡す。すぐに分かった。一人、地面に崩れ痛めしく涙を流しながら少年を見つめる女性。
「呼んでいます!こちらに」
父が割って叫んだ。
「まだだ!決闘裁判が終結するまで余人は聖域に入ってはならん!神への冒涜となる!」
ボードワンはすぐに立ち上がると、決闘裁判の結果、クラーレンシュロス伯ルイーサ・フォン・アマーリエの正当性が認められた旨を宣言した。私は自分の名前の長さを呪った。
駆けつけた騎士たちが私を掴み上げ、真紅に染まった止血帯を握る手が滑り、少年の手も引き剥がされた。私が父のもとへ連れ戻されるのを待って、少年の両親が今際の際にある息子の元へ駆け寄って行く。
そのまま抱えられるように城まで連れて行かれる道中、私は領民たちからは悪者になってしまった気がして居た堪れなかった。
騎士たちはしきりに、立派な剣さばきだったと持て囃したが、父は私を褒めなかった。きっと最後の私の振る舞いが貴族らしからぬ、慌てぶりで無様だったと機嫌を損ねたに違いない。この時ばかりは、私は自分の行動の最適解を見出せず仕舞いだった。
この日を境に、私の環境は変化した。
領民の子どもたちは、私と遊ぶことを避け始め、代わりに話しかけてくる騎士たちが増えた。私はより一層、剣技に明け暮れ、道場での休憩時に門下生たちと過ごし、稽古無い時間を家庭教師の授業で費やした。
それから、時折少年の亡霊を見始める事になるが、ボードワンによるところ、これは本物の霊ではなく、私の妄想の産物だという見解だった。
いつの日か、マンフリードも現れるのだろうか。それは、ちょっと嫌だな。こんな調子で増えて行けば、視界は亡霊でいっぱいに埋まってしまいますよ。これから、私はもっと、もっと沢山の敵と戦い、それを毎度、毎度勝ち進んで行かねばならないのだから。
今晩は、流石に酔いすぎた。
頭が痛み、嘔吐感もある。
ここらで、お暇して寝台で横になろう。
そう思った時、視界が後退し始めた。誰かが、私の両脇を抱き抱えて運んでいた。
「誰?ハルトマン?」
「俺だ、クルトだ」
「クルトかぁ。ロロはどこに行ったの?」
「体調不良で寝ている。誰だ、こんな呑ませたのは!全く、次から呑む前は甲冑を脱いでおけ」
「甲冑は騎士の誇りです!」
「そうかよ。さぁ、着いたぜ。今、甲冑を脱がしてやる。あー、手を上に挙げてろ。これが終われば、女の従者を探してくるから、そしたら服を着替えさせてもらえ」
私は子どものように寝台に寄りかかって座ったまま、クルトが悪戦苦闘しながら甲冑を脱がしてくれるままでいた。
「こう見えても、魔法の鎧なんだからね。大事に扱いなさい。砦一つ分の価値があるんだから」
「そうだったな。でも、俺にはこんな鉄の塊よりも、中身の方がよほど大事だけどな」
たわい無いいつものやりとりだ。けれど、この時、不意にこの気ままなくせに献身的な北の森から来た騎士に愛しさを覚え、気がつくと接吻をしていた。
私が口を離すのを待ってから、クルトが混乱した様子で言った。
「なぁ、これは・・・どういう意味なんだ?」
子どもっぽいくせに、理屈っぽい。どうもこうもない。
「ご褒美よ」
「・・・これだけか?」
何よ?期待・・・しているの?
「その通り!私たちの旅は先が長いのよ。もっと、もーと、私にご奉仕したら考える」
「そうかい。じゃぁま、このまま無償奉仕に終わらないよう、もうしばらくは付き合うぜ、姫さん。次はしらふの時に頼むぜ、酒臭くて堪らん」
そう言うと私の鼻先をちょんと突いて、クルトは侍女を探しに出て行った。
「物分かりの良いことで」
そうだ。まだまだ先は長いのだ。まだ、目的は何も成し遂げてはいない。今このような制覇行を行なっているのかさえ、実のところ夢なのではないか、と思えるほどに成そうとする旅路は長く険しい。父亡き今、私は初めて自分の意思で大業に挑んでいるのだ。
今晩くらいは、こんな“ご褒美“があっても良いよね。
腰の魔剣が、微かに震えていた。
それはまるで、嫉妬しているかのようだった。
「目が覚めましたか?」
軽やかなビオラの旋律のような、美しい声で私は覚醒した。
随分、長く寝ていた気がする。
・・・ここは、どこだろう?
ひどく、頭が痛む。
「三姉妹が改築中の神殿です。執務中に、突然倒れたらしいですよ。覚えておいでか?」
「いえ、よく思い出せないわ・・・」
私は、優しげに微笑むロロ=ノアの顔を見た。彼女は私が倒れている間に、村から戻ってきたのだろう。
「看病してくれたの?ありがとう。良かったわ、顔色を見るにそう悪くはないのでは?」
言いながら、部屋の様子を見ようとして、はたと視線が釘付けになった。
いつぞやの少年がまた、部屋の片隅に座っていた。
「私の心配とは、痛み入りますね。どうしたのです?目が・・・見えないのですか?」
「いえ、見えているわ。今、目線の先に少年がいるの」
「・・・ほぉ」
「亡霊じゃないわ。ボードワンに相談したことがあるのだけれど、彼は悪霊や亡霊などの憑き物の気配はない、と言っていたわ。司祭の言うことを疑うわけじゃないけれど、でもやっぱり時折、死んだ人・・・私が殺した人の姿がこうして見える時があるのよ」
「貴方がそう言うのならば、そうなのでしょうね。私には神の存在を認知できませんが、彼が言うのならば、それもやはり事実なのでしょう」
「やっぱり、私はおかしいのかしら?」
「この世は、一つの世界で成り立っているわけではありません。精霊界、冥界、妖精界など、さまざまな世界が折り重なって、今の世があるのです。推測ですが、霊は貴方のそばにいるのかも知れません。ですが、彼らは冥界にあって、なんら干渉の手段を持たない。だから、悪霊としてボードワンは認知できないのでしょう。もしかすると、見える、と言うことは貴方の方から、霊界に近づいているのかも知れませんよ」
「・・・どう言うこと?私、死ぬの?」
「近づいている、という状況です。私の到着があと三日遅くなれば、そうなっていたかも知れませんね」
ロロはそう言って微笑むと、香草を湯に浮かべ、ゆっくり時間をかけて、かき混ぜはじめた。
「どうやら、熱病にかかっているようです。この地に特有のものかも知れません。でも、ご安心を。神の力とやらに頼らずとも、エルフの紋章官は、森の薬学と精霊魔術で貴方を癒してご覧にいれましょう」
彼女の湯で温められた手のひらが、私の額に当てられる。それは、とても心安らぐ温度だった。割れるような頭の痛みが、ほんのひと時、スーッと和らいだ。それを繰り返しているうちに、いつの間にか少年の姿は消え、まどろむような眠気がやってきた。
「・・・私の死が近づいていると、亡霊が見えるの?」
「亡霊ではありません。単なる死者です。特異体質なのかも知れませんね。そのような体質を西方世界では、剣の加護と呼ぶようです。アッシュのように、人の役に立つものでは、なさそうですが・・・」
「ほんと、ね」
それは、何とも残念な特権だ。
「しかし、死を告げる警告と捉えれば、有意義かも知れませよ?」
「待って・・・今、思い出していたのだけれど、おかしいわ。マンフリードを倒した後の宴でも、私は死者を見ている」
「あの時は、呑みすぎていましたからね。お酒で死ぬこともあります」
「・・・いえ。確かに酔っていたけど、それほどではないわ」
「そうですか・・・気になるますか?では、その時の様子をよく思い出してください」
すると、どうだろう。宴で盛り上がる喧騒と共に、ベーコンの焼ける匂い、騎士たちのむせるような体臭まで、当時の様子が鮮明に蘇ってきた。目を開ければ、まるでロロの背後で今まさに、あの時の宴が催されているかのように思えた。
何、これ?夢?
「ロロが見えるのに、夢も見えるわ」
「夢ではありません。貴方の記憶、ですよ」
「貴方の魔術というわけ?」
「私は意思や記憶といったものを操るのが得意なんですよ。言っていませんでしたか?あ、勘違いしないでくださいよ。迷わせたり、改ざんしたりとか、そういう意味ではありません。“共感“の力です。こうやって・・・直接触れて、増してや相手が弱っていたりすれば、働きかけるのは容易になります」
とんでもない力だ・・・そうとは思いつつも、目の前に存在しているかのような質感と音、匂い、騎士たちの笑い声、肉を齧る咀嚼音・・・この情景に引き込まれずにはいられない。
「やっぱり、いるわ」
「私には、貴方の過去を直接視認できません。貴方が見るのです。今、この中に不審な者はいますか?」
これが、本当に過去の記憶なのだろうか。まるで皆、この部屋にいるようにしか感じられない。
「まるで、夢の中にいるよう・・・凄いわ・・・」
「貴方の記憶を、呼び起こしているだけですよ。記憶しているのは、貴方自身です」
「騎士のうち、二人の目が険しいわ。何か、目くばせをしているみたい」
私はあえて口には出さずに、心の中で確認した。そうか・・・ジャンロベールと、オラース。二人とも父に仕える騎士の中では、新参だった。珍しいことではないが、口調はパヴァーヌの訛りがある。人口が多く、騎士大国であるだけにかの地の出身者であることは、珍しいことではないのだが・・・。
「・・・病中の身ですから、この程度にしておきましょう。何か、お気づきのようですので、念のために言っておきますよ。あくまで、推測に過ぎません。沙汰を下す場合、それが身内の事ならば尚更に、はっきりとした証拠を得なければ、後あと面倒な事になりかねませんよ」
「そうね。それこそ、決闘裁判なんて真似は避けたいわ」
薬湯で濡れたロロの温かい手が、頬を優しく撫でる心地良さに誘導されたのか、そう言い終わるが早いか、急激にやってきた睡魔に足元を掬われ、私は眠りの井戸に落ちていった。
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