001:ぱんぱかぱーん
……体が動かない。
暗闇がずっと続いていて、瞬きも喉を震わせることもできない。
身動きが取れない。
なにかに封印されてしまったようだった。
「…………」
僕は、僕は死んでしまったのだろうか。
馬鹿なことを考えて、この数年間自分がしてきたことが徒労だと理解して、トラックに轢かれてしまった。
家族は悲しむだろうか、いとこは悲しむだろうか、親戚は悲しむだろうか、おじいちゃんとおばあちゃんは悲しむだろうか。
きっと悲しむだろう。もしかしたら泣いてしまうかもしれない。
後輩は悲しまないな、クラスメイトは悲しまないな、友達は悲しまないな、先輩は悲しまないな、先生は悲しまないな。
悲しいくらいに、彼らは僕に興味を示さないだろうな。
もしかしたら葬式にすら来ないかもしれない。
しかしまあ。
悪くはない。
こうやって死んでしまえば、誰に気を遣うでもなし、誰に愛想を良くするでもなし、気楽に、十全に思考を続けられる。
僕は人と話すのは嫌いだけれど、自分の中で完結するのは好きなのだ。
自分を責めるのも、褒めるのも自分次第。
殻を被っている瞬間ほど、落ち着くときはない。
ずっとこの時間が続くなんて最高にもほどがある。
きっといつかは怖くなって、恐ろしくなって、発狂してしまうかもしれないけれど。
今はこれが癒しだ。
「ふうん癒しね。癒しなあ?」
人の声。とても可愛げのある、しかし人を小馬鹿にしたような、ある種の愛嬌のある声。
女性――声色から察するにまだ高校生にもならない子供のようだった。
『誰ですか?何か御用ですか』と愛想よく、反射的に答えようとしたが、喉が震えないんじゃ答えることもできない。
まるで無視をしているようで居心地が悪い。
聞こえないふりをしているようで、気持ちが悪い。
こうなったときに取り返すのがどれだけ大変か……!
歯を食いしばって悔しさを表現しようとするが、できなかった。
今は体が動かない。
「じゃあお前に聞くけど、本気で、本意気でそう思ってんのか?人間様の根源たる恐怖の象徴にリアルでマジでリラクゼーション効果があるってんのかァ?」
キシシシシ。
と悪ふざけをするような笑い声を上げて、少女は語った。
『今のは語弊があった。誤解を解きたい。一から説明させてくれ』と要領よく、能動的に答えようとしたが、声が出ないんじゃ弁解も出来ない。
「ん?ああ、そかそか。これじゃあ答えらんねーか」
ふわふわと脳内に直接送らせていたような声は放送をいきなり切ったように、ブツ切りで終わりを告げる。
パチン、と。
代わりに指を鳴らす音が、はっきりと目の前から聞こえてきた。
聞き取るや否や、体につけられていた不動の枷は次々と取れていく。
耳。体。喉――そして目。
明順応も無しに、僕は明るい視界のありようを捉えることが出来た。
捉える、という表現が正しいのかは定かではない。
目の前に現れた部屋――部屋という解釈も首を傾げたくなるが、今は便宜上”部屋”として。
その部屋には何もなかった。
家具も、窓も、扉も、壁も、床も、天井も、照明も。
若干もやのかかった、シャボン玉のような玉虫色の色合いが変化する透明な板が四方を囲っているだけだった。
「それで見えんだろ?
周囲の観察を始めてしまった僕の思考を途切れさせるように、その声は――からかうようなあざとい声は目の前から聞こえた。
目の前に居たのは齢十歳程度の幼女である。
白髪の長髪で、ツリ目。
瞳は紫色、身長は僕よりずっと小さい。
だぼったい、しかし正装らしい服の着る幼女の姿は――さながら悪魔。
「おう?よく分かってんじゃねーか試験体。私の名前はヘリオトロープ、序列六位の十三鬼牢が一人。遊び心のヘリオトロープ様よ」
「ヘリオトロープ様は序列六位で十三鬼牢なんですね。二つ名まで付いてて……さぞご高名な方なのでしょうね」
なんだか変な喋り方になってしまった。
しかし仕方がない、幼女を相手にしたことはあっても、自称悪魔の幼女とは手合わせの経験が一切ないのだ。
いやまあ当然だけど。
けれど変身ごっこが好きな幼稚園児とさほど扱いは変わらないだろう。そっちの扱いは心得ている。
とりあえず保護者を呼んでもらうのが先決だ。
この状況を判断するのに、幼女では力不足――
ヘリオトロープは急に、何を言わず、僕の方へと近づいてくる。
「なんですか?なにか気に障りましたか?」
幼女は無言で僕の目と鼻の先まで来た。
「あ、あの?」
立ち止まった幼女はわなわなと震えて、何かを言おうとしている。
この年頃の女の子は何をするにも、恥ずかしがる子は少なくない。この子はそういうタイプなのだろうか。
だったら根気強く、言いたいことを聞いてあげるのが最適だ。
「…………っじゃねえ」
「はい?」
「よ……って言うんじゃねえ」
「恥ずかしがらずに、もう一回言ってみて」
極力優しく、この子の繊細な心を傷付けないような口調で聞き返した。
すると幼女は息を大きく吸い込んで、叫んだ。
「幼女って言うんじゃねえええええ!!!」
大絶叫。
至近距離での最大音量は、僕の耳を少しの間使い物にならなくした。
キンキンと、痛みを伴って、幼女の意見が浸透していった。
そして幼女は眉をひそめて、いかにも不機嫌って顔をしていた。
まずいな。いやいや状態に入ると話をするにも、要領を得なくなるのだ。
「いやいや期ってなんだよ!?幼女じゃねえよ!?私の言うことが信じられないのか!!せっかくお前を助けてやったのに、そんな仕打ちあんまりじゃないか」
幼女の目には微かに涙が浮かべられていた。
「ああっ!ごめんね!お兄さん勘違いしてた。そうだよねリオちゃんは悪魔だもんね」
「泣いてないし!あとリオちゃんて言うな!私の名前はヘリオトロープっ!」
「そっかー」
「信じてないなこいつ!!」
リオちゃんが小さな手で僕の頬を引っ張ってくる。
「駄目だよ。いくら気に食わないからって人のほっぺた引っ張ったらダメ。めっ!」
「いいから話を聞けよ!!私は悪魔!!さっきからお前の思考を読んでるのに気付いてないのか!?」
「そう言えば……なんだか会話が成立し過ぎているような」
「だろっ!?」
ようやく気付いてくれたか、と言わんばかりに目を輝かせて、ヘリオトロープは満足げに頷いた。
「じゃあ僕の今思い浮かべているのは?」
そう言うと調子に乗った表情で、にこにことヘリオトロープは笑った。
ちなみに今僕が考えているのは、アンゴララビットである。
ふわふわもこもこで、手足がどこにあるのか全く分からない、ついでに言うなら目の位置も分かりずらい、耳と尻尾で前後軸がようやく分かるあの白い兎。
その映像を頭の中で流している。
「あ……いえ?うさぎぃ?けだまぁ?あるえぃ……?」
ヘリオトロープは混乱していた。
「ほらこの動物の名前はなにか言ってみてよヘリオトロープちゃん」
「う、うるさい!い、今思い出すから待ってろ。見たことはある、見たことはあるんだ……ただ名前が出てこないだけで」
もじもじと、たじたじでリオちゃんは困っていた。
「リオちゃん言うな!?」
「言ってないよ」
「あっ。リオちゃん思うな!?」
「そう。そっちの方が正しいね」
えへへー。とかわいらしい笑みを浮かべるリオちゃん。
しかしすぐにハッとして、大声で叫ぶ。
「やっぱり心読めるの分かってんじゃねーかっ!?」
「ばれたか」
「く、くっそお!!馬鹿に、馬鹿にしやがって!!私が誰か分かってんのか!序列六位で!十三鬼牢の!ヘリオトロープ様だぞっ……分かってんのかっ!バーカ!!バー――カッ!!」
からかい過ぎてしまったのか、ヘリオトロープの目にはたっぷりと涙が蓄えられていて、今にも噴き出しそうに、泣き喚きそうになっていた。
「ごめんね。からかい過ぎたね。嫌だったね、お兄さんリオちゃんが可愛くて意地悪しちゃった」
ヘリオトロープは無言で、僕の服の裾を掴んで、その場に座らせ、だっこをさせてきた。
涙を僕の肩で拭い続け、嗚咽を漏らし続けた。
背中を一定のリズムで叩いてやると、嗚咽は次第に小さくなり、落ち着いてきた。
「ごめんね」
「ゆるさん」
「ごめんなさい」
「ぜったいゆるさん」
「ほんとに?」
「…………」
「ほんとにゆるしてくれないの?」
「……ちょっとだけ、いちみりだけゆるしてやる」
「そっか。ありがとう」
ぎゅっと抱きしめてやると、小さな腕で抱きしめ返してくれた。
「それじゃあ説明できる?僕がなんでここにいるのか、できそう?」
ヘリオトロープはこくりと、無言で頷いて、僕から離れる。
「お前が凄い可哀そうな死に方してたから、助けてやった」
「助けた?」
「ん。悪魔は死神との契約により、全死者の五パーセントまでの死者の魂を自由に使っていいっていうルールがある。それで私は実験対象の、試験体を探してて、ちょうどあんまりな死に方をしてる奴を見つけたから、連れてきた」
「そっかあ。ありがとねヘリオトロープ」
「んん。私だって試験体探してたまたま見つけただけだし」
ヘリオトロープは照れていた。
そう思うと、「照れてねえ!」とリオちゃんが噛みついてきた。
「それで実験っていうのは?」
「万物に生命を宿す力の実験」
「Oh……」
すっかり忘れていたけれど、この子は悪魔なんだったな。
それにしても『万物に生命を宿す力』か、どう考えても一般人が扱える力じゃないよな。
悪魔が使ってそうな、禁忌の術。禁断の術。
そこそこの代償の果てに行使できる魔法って感じだ。
「それで実験の試験体が僕って事か?でも僕は生きてるし、悪いけど生命力はみなぎってるから他をあたってほしいな」
「いや。実験は成功したぜ」
「え?」
「試験体がそうやって、体が動かせて、心が動いているのが何よりの証拠」
…………オーケー落ち着け僕。
つまりあれだな、僕は一度死んだ。トラックにはねられて無残な死体になってしまった。
そこで意識も神経系も途絶えてしまっている。
そこでヘリオトロープの『万物に生命を宿す力』によって、僕は生き返った。
けれどよくある話――空想科学やSFに過ぎない話になるけれど――様々な障害が待ち受けているはずだ。
一度死んだ人が生き返ったら性格に違和感が生じているとか。
死ぬまでの人と生き返った人を同一視できるのかとか。
……そもそも本人が、死ぬまでの自分と全く同じだと判断できないとか。
いろいろな、散々たる話を僕は知っている。
このまま社会に、現実世界に復帰したところで馴染めるのだろうか……
「試験体」
「なにリオちゃん。今僕は人生の節目を、文字通り不死目を迎えてしまって困惑中なんだけど」
「困惑してるとこ悪いんだけど、根本が間違ってんな」
「……聞こうじゃないか」
「試験体は社会復帰はしねえ。だからそこまで悩む必要はねえよ」
「おいおい。リオちゃん、可愛い顔して随分な言い草じゃないか。僕が社会復帰をせずに、高校生としての残り一年半を過ごさずにどうやって生きて行けと?あいにくだが、コネでどこかへ進学できるほど僕の家庭は裕福じゃねーぜ」
「っだーかーらーそこが違うんだっつーの」
リオちゃんはいつもの調子を取り戻して、僕の頬を引っ張った。
「試験体には異世界に――私の生まれた世界に飛んでもらう」
「え!?」
「お前にはまだ実験に付き合ってもらうって言ってんだ。『万物に生命を宿す力』を持った人間がどこまで世界を変えられるかっつー馬鹿デケー実証実験にな」
リオちゃんは――否、序列六位、十三鬼牢が一人、遊び心のヘリオトロープはにやりと笑った。
さながら悪魔のように、残酷で飄々として可愛げたっぷりの笑みを浮かべた。
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