第2話 千夜の夢物語

 千尋は語り出す。夢だった企業の内定を親に辞退させられたこと。卒業後に政略結婚させられること。サークルの会長にだけ、「内定先の企業に呼び出しをくらった」と嘘をついて、明日の早朝みんなが起きる前に帰ると伝えてあること。二度と家に戻るつもりはないこと。合宿所を出たら、その足で空港に向かうこと。


 彼女は、そういう家庭で育った。少女のままで自由になれないのならば、一人で生きるしかない。大人になる決意をした彼女は一足早く夏休みを終える。

 飼い殺しにされた少女は、「自由」に向けて必死に手を伸ばしていたのだ。幼い僕が「普通」を渇望していたように。

 彼女には時間がないのだから、仕方がないとは分かっていた。現代のお姫様と僕は住む世界が違うのだから。理不尽な境遇へあらがいたくなる気持ちも理解できた。でも、むなしくてしょうがなかった。


「誰でも、よかったのかよ」


 恋人ごっこの相手は僕じゃなくてもよかったのだ。絡めた指があんなにも愛おしかったのに。夢中になってキスをしていた僕は滑稽な道化師だ。一人で舞い上がって恥ずかしかった。

 あれほど「普通」を望んでいた僕が、彼女の「特別」になりたいだなんてとんだ矛盾だけれども。


「僕は、本気で千尋のことがずっと好きだったのに」


 泣きそうになる。目に潮風がしみる。顔を見られたくなくて、千尋に背を向けた。後ろから、鈴のような千尋の声がする。


「千夜一夜物語って知ってる?」


「アラビアン・ナイトのこと?」


 王妃シェヘラザードがアラビアの王様に毎晩物語を語る。千夜の果てに、王様は愛を知る。そんな話だったと思う。

 結局僕は、どんなに弄ばれても、気まぐれなお姫様を嫌いになれない。このシリアスな状況で突然、ふざけたおとぎ話の話題をふられたって怒れない。


「シェヘラザードは政略結婚だったけど、私は物語を伝える相手は自分で選ぶよ」


 それは、僕を意図的に選んでくれたということだろうか。そんなことを言われたら、僕は単純だから、きっと何度だって勘違いしてしまう。もう一度、期待してもいいのだろうか。


「あるところに、女の子がいました。女の子は青い右目と、黒い左目をしていました」


 季節をフライングした鈴虫の声が遠くでかすかに聞こえた。最後の夏が僕たちの手からこぼれ落ちる音をBGMに千尋は語り続ける。彼女の語りに、寄り添うような音だった。


「女の子は、自分と同じ色の目をした男の子を見つけました。その人を運命の人だと思ったのです」


 千尋が僕の両手を包みこむように握った。


「千尋、君は・・・・・・」


「そうだよ。私“も”あるんだ。共感覚」


 千尋は無邪気に笑う。


「どうして、僕が共感覚者だって分かったんだ?」


「だって私たちはとても似ているから。同じ目の色なんだもん。だから、亜漣のことが気になって、ずっと見てた。でも、亜漣は他の人と比べて、気持ちが読めなかったの。亜漣は人の感情に敏感で、人の目をよく見てたから、もしかしてって思って。確信したのは今日だけど。オッドアイって言葉に過敏に反応してたから。青って、共感覚者の目の色なのかな。それとも、自由の色なのかな」


 千尋は自分の大きな青い瞳を指さした。猫のような大きな瞳に月の光が反射して、このうえなく幻想的だった。


「誰でもよかったわけじゃないよ。亜漣だから、一夜だけでも恋人になりたいって思ったの」


 僕は、千尋を強く抱きしめた。腕の中の千尋に何度も「好きだ」と言った。詩的な少女の耳元で、気の利いた愛の言葉をささやきたかったけれどそんな余裕なんてなかった。僕たちには、もうほとんど時間が残されていない。


「恋人同士が次にすること、私はもう、駆け落ちか心中しか知らない」


 箱庭のお姫様は、普通の恋を知らない。親に許されない恋物語は続きのページを破られる。


「物語の続きは明日の夜に話すね。もし聞きたかったら、一緒に来て」


 僕の腕をすり抜けた千尋が、逃避行を提案する。一足早い鈴虫の求愛のかすかな声はやまない。


「来てくれるよね?だって私たち、同じ色だから」


 千尋が僕の手を握った。猫のようなお姫様は、何度でも僕を振り回す。



「あと千夜、恋人でいて」



 違う。同じじゃない。僕は千尋のように自由には生きられない。パスポートは?預金は?僕は何も準備してきていない。二人でどうやって生きていく?何の罪もない僕の家族を捨てられるか?僕が失踪したら心配や迷惑をかけてしまう人がいるのでは?

 ずっと好きだった女の子からの愛の告白を前にして、僕は常識という首輪を外すことができない。

 僕と千尋は同じではない。千尋は一つ、大きな誤解をしている。僕は、千尋の手を離した。

 

「青い方が、僕の本当の目の色なんだ」


 僕は、日本人の父とイギリス人の母との間に生まれた。日本で生まれて、日本で暮らすのだから、日本人らしい名前をつけてほしかった。一目で外国人と分かってしまう青い目が嫌いだった。色素の薄い髪を何度黒く染めたいと思ったか分からない。平均点がとれない国語の授業が苦痛だった。個性を殺して、周りに溶け込もうと必死だった。


 黒い瞳は、僕の中の異端の部分を塗りつぶしたいという願望の表れだ。大海原を求め、自由を選んだ青い瞳の千尋とは、生きていく世界が違う。普通であろうとする僕といる限り、きっと千尋は真の意味で自由にはなれない。


「僕の心は、真っ黒だ。だから、一緒には行けない」


 僕は千尋を引き留められない。束縛を嫌う千尋は、人の行動を縛らない。だから、僕を無理矢理連れて行くことはない。

 僕は可哀想な猫を飼い殺す王様にも、道端の猫を無邪気に追いかける少年にもなれない。


「じゃあ、亜漣の心の色は思い出の色だね。私たちが恋人同士だった夜の色」

 

僕たちは一夜かぎりの恋を過去形にする。現代のシェヘラザードの語る物語の続きを聞くことは、永遠にない。


「たくさん人の目を見てきたけど、私は亜漣の本当の瞳の色が一番好きだよ」


 誰よりも美しい瞳を持つ恋人が、僕の両目の色を肯定してくれた。それだけで僕は生きていける。


「私のこと、忘れないでね」


 千尋は振り返らずに歩いてゆく。僕たちは確かに恋人だった。でも、猫は人間に執着しない。僕がいなくても、千尋は幸せになれる。それでも、お姫様気質の君は、君を忘れることを決して許してはくれない。僕はきっと、千尋の面影に執着し続けるのだろう。



 夏の朝は早い。空が明るみ始めた。浜辺の足跡は消えない。僕の心に残された足跡も永遠に消えないのだと思う。

 昨日の鈴虫の声は幻だったとでも言うように、蝉が求愛の合唱をする。一人きりで合宿所へと歩いた。道中のカーブミラーに映った僕の顔を見る。千尋と僕の瞳の色は、同じではなくて鏡映しだったのだと今更ながら気づいた。



 あれから1年、僕は「普通」の社会人をしている。ハーフというステータスは女性受けが良いらしく、時々好意を向けられる。けれども、千尋以外の女性と恋人になる気はさらさらなかった。

 千尋は今、どこにいるのだろう。僕の母の生まれ故郷のロンドンだろうか。千夜一夜物語の舞台である中東だろうか。いずれにせよ、千尋とはもう逢えないのだと思う。

 それでも、千尋と過ごしたあの夜の色の右目と、愛した千尋の魂の色をした左目とともに、僕は何千夜も何万夜も生きていく。大嫌いだった僕の瞳の青を好きだと言ってくれた千尋。黒を平凡な色から僕だけの特別な色に変えてくれた千尋。僕の瞳に物語をくれたシェヘラザード。



 彼女は来世、猫に生まれ変わるのだと思う。それならば僕は、君の鈴に生まれ変わりたいと願った。



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猫の名はシェヘラザード 天野つばめ @tsubameamano

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