猫の名はシェヘラザード

天野つばめ

第1話 一夜の恋物語

 彼女の前世は猫だったのだと思う。アラベスク模様のソファーに腰掛けて、彼女を膝に乗せる架空の裕福な老紳士に無性に嫉妬した。



 「知ってた?猫って人間の3000倍オッドアイになりやすいんだって」


 大学生活最後の夏合宿へと向かうバスの中で、千尋が唐突に話しかけてきた。SNSのタイムラインに雑学が流れてきたらしい。

 動揺して、千尋の顔を直視できなかった。視線を落とした先にiPhoneの画面をスクロールする千尋の指先があった。長い爪には綺麗なラインストーンが並んでいて、思わず見とれた。


 「オッドアイ」という言葉の意味を知ったのは、6歳の夏だった。正式名称を虹彩異色症。左右の瞳の色が違うこと。

 幼い僕は「そんなの普通じゃないのか?」と思った。僕には、すべての人の目の色が左右で異なって見えていた。幼稚園の先生の右目は緑色。母の左目はピンク色。父の右目は赤色。鏡を見れば、僕の左目は青、右目は黒だった。

 でも、周りの人にはそうは見えていないのだ。「オッドアイ」が「特別」であることを知るとともに、僕が「普通」でないことを知った。


 僕はいわゆる「共感覚者」だった。普通の人には見えないものが見えた。何万人に一人かの割合で“見えてしまう”らしい。僕の場合は、人間の持つオーラの色が見えた。オーラといっても、もやもやした煙のようなものではない。片方の瞳が、その人の魂を表したような色に見えていた。


 僕は、異端であることに敏感だった。子供の世界は排他的だ。

 たとえば、母がつけた亜漣(アレン)という名前は変な名前だと笑われた。目立たないように顔を隠そうと髪を伸ばせば、余計に目立ってしまった。せめて内面だけでも、僕は普通になりたかった。だから、振る舞いには人一倍気を遣った。苦手な教科の勉強をがんばったのも全部、「普通」に近づくためだった。

 そんな僕が、共感覚者であることをひた隠しにして生きるのは、至極当然のことだった。


 幼い子供の世界に比べて、大学という空間は異端者に寛容だ。

 全国各地から集まった生徒が方言を話す。留学生やだいぶ年上の生徒も少なくない。たとえ髪を緑色や紫色に染めたって迫害されない。

 僕のサークルは特に、世間では変わり者扱いされる人間の集まりだった。共感覚者であることは打ち明けなかったが、気を張らずに生活できた。とても居心地がよかった。


 でも、いつまでも桃源郷にはいられない。色とりどりの蝶たちも、やがて黒いスーツをまとって働き蟻へと擬態する。僕たちは、ネバーランドの夢の世界からさめる前の最後の夏を謳歌していた。



 僕は千尋が好きだった。最後だからと勇気を出して、千尋の隣の座席を選んだ。千尋から気まぐれに話しかけられるだけで心が踊った。しゃぼん玉のようにとりとめのない会話が楽しかった。


 千尋の右目は青かった。魔法の絨毯に乗って空から見下ろした大海原のような色をしていた。22年間生きてきて、魂の色が青く見えたのは千尋だけだ。美しい瞳を持つ少女との出逢いは大きな衝撃だった。それが、千尋を目で追うようになったきっかけだった。


 彼女は一言で言うならば破天荒だった。河原でバーベキューをすれば、服のまま川に飛び込んだ。唐突に、大学がある路線の終点から終点まで歩いてみようと提案してみんなを驚かせた。雑貨屋で一目惚れしたと言って名前も知らないどこかの国の民族楽器を買ってきては、部室で綺麗な音色を奏でた。

 けれども、優しい一面もあった。ある日、みんなで遊園地に行ったときに、部員1人が体調を崩した。千尋はずっと彼女の介抱をしていた。誰よりも気遣いができる彼女は、決して誰かを置いてけぼりにしたりしない。

 白いペルシャ猫のような気高さが千尋にはあった。千尋は日常の所作が美しかった。老舗の呉服屋令嬢と聞いて、妙に納得した。気まぐれで自由気ままに生きているように見えて、やるべきことはやっていた。いち早く一流企業の内定を獲得したうえで、4年生の前期で単位を取り終えた。同期で1番優秀だった。


 共感覚者の僕は、人の気持ちには敏感だ。人の望む行動をとるように心がけた。年齢が進むにつれて異端扱いされなくなってからは、周囲の人間には好かれる方だった。そのおかげか、それなりの上場企業の内定をとれた。でも、ほかの人たちと違って、千尋の心だけはどうも読めなかった。



 合宿所につくと、海に行くために水着に着替えた。男子は脱いで履いて終わりだが、女子はそうはいかない。ビーチバレーボールや浮き輪に空気を入れながら、女子たちの着替えを待った。女子たちは念入りに日焼け止めを塗るものらしい。

 千尋も例に漏れなかった。千尋の日焼け止めは香料が入っていたのか、ほんのりキウイフルーツの香りがした。


「白い猫って4匹に1匹がオッドアイなんだって」


千尋の白い肌を見ると、バスの中の彼女の声がリフレインした。海辺ではしゃぐ高い声と、脳内に響く甘い声が混ざって、音の波に酔いそうになった。



 合宿の夜といえば大宴会だ。千尋はカルーアミルクをなめる程度に飲んでいた。がやがやとうるさい中で、千尋が僕にささやいた。


「ちょっと、外の風に当たらない?」


突然の誘いに、心臓が壊れそうになった。心なしか猫なで声に聞こえた。好きな女の子から飲み会を2人きりで抜け出す誘いを受けて、断る男がいるだろうか。僕たちはこっそりと星空の下へと向かった。



「私と一夜だけ恋人になって」



 夜風に髪をなびかせながら、千尋が言った。官能的な言葉の響きに、眩暈がした。僕の青い目も黒い目もチカチカした。


「女の子が、そういうこと言うものじゃないよ」


 ドギマギとする僕を見て、千尋はくすりと笑った。


「変な意味じゃないよ。亜漣も男の子なんだねぇ」


 僕をからかう千尋は魔性のペルシャ猫に見えた。こんな熱帯夜にお酒を飲んでいる僕に、千尋から与えられる熱は劇薬のようなものだ。

 千尋が僕と手をつないで歩き出す。滝のような手汗は夏の暑さのせいにしようとしたけれど、言い訳の言葉ひとつ出てこなかった。


「恋人同士っぽいことその1。手をつないでみました」


 いたずらっぽく笑う千尋と対照的に、僕は柔らかい手の感触に脳の領域のすべてを支配されていた。昼間に僕を釘づけにしたあの細い指を絡めてくる。

 周りの景色なんて見る余裕がなかった僕は、浜辺まで来てようやく、宿からだいぶ歩いてきたことに気づいた。


「僕のこと、からかってる?」


「冗談でこんなことするほど軽い女じゃないよ」


 お酒を飲み過ぎて幻想でも見ているのではないのかと思った。想い人と恋人になる夢ならば、永遠にさめたくないと願った。ふいに、千尋が僕の頬にキスをした。頭の中に稲妻が走った。


「亜漣はキス、初めて?」


「まさか・・・・・・こんなの挨拶だよ・・・・・・」


 女の子に主導権を握られるのが悔しくて、僕は虚勢を張った。少なくとも千尋とするキスは絶対に挨拶なんかじゃないのに。誘惑するように目を閉じる千尋と唇を重ねた。


「恋人同士っぽいことその2。キスしちゃったね」


 秘めた想いを千尋に伝える千載一遇のチャンスだというのに、「好きだ」の一言も言えない。代わりに何度もキスをした。「一夜だけ」の意味なんて知りたくなくて、彼女の唇をふさいだ。


 彼女の吐息が、泣いているようにも聞こえた。キスした後、見つめ合うたびに、彼女は何かを言おうとしてはやめた。いつもくっきりと上がっている目尻が、悲しそうに下がって見えた。話す間も与えずに彼女の唇をむさぼっておいて都合のいい話だけれど、このまま曖昧にすることは僕の良心がとがめた。


「やっぱり、恋人同士だったら、本音で話さないと」


 どうして、2人で抜け出そうなんて言ったのか。どうして、一夜だけなのか。よせばいいのに、彼女に問うてしまう。パンドラの箱から飛び出すのは、決まって残酷な真実なのに。千尋の柔らかい唇が言葉をつむいだ。



「少女でいられる最後の日に恋をしたかったから」

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