第8話 生贄
呼集を掛けたのは、ハルトマンの隊だった。松明の灯りに照らし出された彼らの表情を一眼見ただけで、何か不吉なものが待ち受けている事を察することができた。部屋に近づくに連れて、チーズのような腐臭が鼻を付いた。死後、かなり時間が経った臭いだ。
部屋の床は正方形で、天井は中央部分に向かって狭くなるアーチ状をしていた。古代王朝では信仰はまだ盛んではなかったと、家庭教師に教わったことがある。しかし、ここに祀られていたのは槌矛だった。かの王朝では、魔剣を創り出すことができたという逸話がある。今では魔剣の力を得て、神格化した英雄たちが信仰の主たる対象ではあるが、その昔は魔剣そのものが信仰されていたらしい。レリーフの施された大理石の台座に、槌鉾が自立する形ではめ込まれており、そして、その台座にはもうひとつ、小さな屍がまるで御供物かのように、横たわっていた。
あぁ、剣の神よ。首を裂かれ、腹を開かれたそれは、人間の子どもではないか。
羊飼いの少年の成れの果てであった。
ボードワンが己の神に、冥福を祈る。私もそれに習った。外套を羊飼いの少年の遺体に被せ、ボードワンが唸るように呟く。
「意図が、掴みかねます」
「蛮族の?」
私が応える。
「生贄なのであろう?蛮族どもには、人身御供の習慣があると聞く」
ハルトマンが、忌々しげに吐き出した。彼にして、それは荒々しげな口調だった。
「その対象はご存知ですか?我々の神と敵対する魔神、魔族、族長、自然と様々です」
「何言いたいんだ?」
クルトが事なげに返す。
「この槌鉾は、清浄の神“清めの槌“に属する魔剣のレプリカです。蛮族どもの信仰の対象ではないはず。それに、そもそも人身御供とは、自らの血族を供物とすることで加護を求めるもの。他種族、それもあろう事か、人族を供物とするのは腑に落ちません。加護が期待できないからです。しかしながら、この供えの手法は、以前に見たことがあります。蛮族どもの風習に叶ったものに違いありません」
「信じてもいない神に、供物を供える、か」
ハルトマンは腕を組んで、顎髭を撫でた。その時、クルトがまた何かを見つけた。
「おい、ここ。床石が外されてるぞ」
部屋の隅の石畳が、二メートル四方に渡って取り外され、脇に積み上げられている。そこは、剥き出しの地面が盛り上がっていた。固い地面には、見えない。掘り返して、埋め直した跡だった。
「嫌な予感しかしねぇ」
クルトがいましましげに呟く。
松明が、パチパチと燃える音がした。
「調べるしか、ないでしょうね」
私が剣を抜いて、地面を掘り出すと、慌ててクルトがその場から引き剥がした。
「さっき、ロロが言ってたろう?危ないかも知れないから・・・俺がやる」
そう言って、短剣を抜くと荒々しく土をどけ始めた。これには、流石に他の者も手伝う気にはなれない様子で、苦々しい顔でクルトの作業を見守った。案の定、蛮族の死体が姿を現した。松明を近づけると、顔半分が糸瓜のように崩れていた。
危険だ。
ここに、この遺跡にこれ以上、長居するのは危険だ。
「一旦、合流して外に出ましょう」
そう言って歩き出した途端、余りにも不自然なほどにタイミング良く、まるで襲撃を予感した刹那を推測ったかのようなその瞬間に、闇を切り裂いたのは断末魔の叫びだった。
何か、良からぬ者が、この闇に潜む!それは羊を殺し、蛮族を殺し、次の標的は、 今、私たちだ!私たちは皆、それを確信した。
まるで先を照らしてくれない頼りない松明に苛立ちながら、無我夢中で悲鳴の先を辿る。そこに敵がいるのならば、この目で見てやる。
向かってこようものならば、それこそ、望むところだ!
だが、エルフのように悲鳴の発信源を辿る事は容易では無かった。
出てこい!殺戮者め!
ようやく辿り着いた部屋で、しかし、殺戮者の姿は無かった。あるのは、オランジェとノイマン、シュルトの三人の騎士たちの痛ましい姿だった。
ボードワンが状況を調べるが、ゆっくりとかぶりを振った。彼には剣の神に乞うことで傷を止血する奇跡を行うことはできても、死者を蘇らせる力はない。再び、沈黙が訪れ、男達の呼吸音と松明の音だけが部屋を支配した。
「死因がわかりません。甲冑に損傷は無く、ただ、大量の血が流れています。甲冑を脱がして調べないと、これ以上は・・・」
中でもオランジェの顔は、恐怖に怯えながら絶命した者のそれだった。失血死の場合、眠るような表情になることが多い。
背筋に、悪寒が走る。
「足音が聞こえる」
クルトがつぶやいた後、振り返りざまに言葉にならない叫びをあげて、剣を抜き放つ。
「くそっ!なんだ、こいつ」
震えた声で、松明を投げつけた。
そこに照らし出されたものは、水柱だった。天井から降りる水ではない。石畳の間から“せりあがった“ねっとりとした水柱だった。松明の光のためか、赤く光るソレは、意思があるかのように向きを変えて、驚く速さでクルトに先端を突きつけてきた。
クルトの切先がソレを横薙ぎにし、分離した部分が壁に当たって落ちた。そして、石畳の隙間に吸い込まれて消える。本体の方は、すぐに元の姿に戻った。
「だめだ、効いてねぇ!」
得体の知れない生物に、全身に鳥肌が沸き立つのを感じた。誰が言うまでもなく、一斉に部屋から逃げ出した。振り返ると、まるで足跡を辿るかのように、次から次へと床から水柱が突き出し、その針山のような攻撃は、すぐにも足元まで迫ってこようとしていた。
「アマーリエ、逃げろ!」
クルトの叫びに突き動かされ、無我夢中で通路を走った。気持ちだけがはやり、サバトンのつま先が石畳に引っ掛かり、思うように制御できない。湿気を帯びた床が方向転換の度に、足を掬おうとしているかのようだ。誰かが、転んだ。振り返るが、闇しか見えない。部屋に忘れて来たのか松明を持っているのは、私だけだったのだ。なんてことだ。皆は暗闇の中、走っているのか!?
「止まるな!走れ!」
闇から飛び出したクルトが、私の脇を抱え、先を促す。誰かの悲鳴が聞こえた。
「・・・だめだ。もう、限界だ・・・」
どれだけ走ったろうか。クルトが崩れ落ちた。どんなに戦意があっても、どれほど恐怖に駆られても、体力の限界はやってくる。もう、これ以上、動くことも考えることすらできない限界点で、人は抗う事を諦め、死を観念する時が訪れるのだ。精神論では負けないと言い切れるが、現実の心は身体と繋がっているのだ。
次々と倒れ込んだ私たちの元へ、しかしそれは襲いかかっては来なかった。少なくとも、今しばらくは襲って来る様子は無かった。だがそれで無事に済む、と思えるほどには、私は楽観主義者ではなかった。
「点呼を」
床にうつ伏せながら、ようやく、それだけを発した。
ここにいるのは、ハルトマン、クルト、ボードワン、ボルドー、パンノニール、ルキウス。ひとり、欠けていた。転倒したのは、先に亡くなったグリッティ卿の甥っ子にあたる、カルロという若者だった。クルトとは一つしか違わない、短く揃えた金髪と白い肌、綺麗に並んだ前歯が印象的な、爽やかで純粋な若者だった。彼は誰が疑うこともない、立派な騎士に成長する事を期待される高潔な若者だった。
まだ、グリッティ卿との経緯について、彼には話しそびれたままだった。
「・・・ここは、何処?」
言った後に気づいた。先頭を走っていたのは、私だった。誰もその問いには答えられまい。力を振り絞り、自力で立ち上がる。
「もう少し、横になってろ」
クルトが気遣う。
「大丈夫です」
そうか、とだけ応えるクルトは、まだ息が整っていない。この旅路でしばしば、自分の疲労の回復の早さを感じている。父から仕込まれた、呼吸法のおかげだろうか。
次から次へと、汗が噴き出し、髪が頬に張り付いた。
自分に冷静さが戻ってきている事が判る。さて、ここは男性のように状況を把握して整理しておくべきだろう。
敵の正体は不明。
剣では切れない。私の剣ならば、どうだろう?魔剣ならば、効果はあるかも知れない。
では、防御方法はどうだ。甲冑を貫くとは、常識的に思えない。今までの犠牲者らの甲冑に、穴が空いているような痕跡は見られなかった。恐らく、隙間から入り込んで皮膚を裂くか、溶かすかだろう。だが、それに対し、有効な防御方法は思い浮かばない。
何のために?・・・きっと捕食だ。だから、食事にありついている間は、他を襲わなかった。
出口の方向は?・・・不明。
ロロとミュラーは?・・・そう言えば、クルトが足音が聞こえる、と言っていた。私たちと同じく、悲鳴を聞いて駆けつけたところだったのかも知れない。あの時までは無事だったということだ。だがしかし、現状のところ、状況は不明。私たちと同じように、逃げ延びてくれている事を願うしかない。対抗策があるとすれば、私が魔剣で斬りつけて勝利するか、あの攻撃を躱しながら出口を探すかの二択しか思いつかない。だとすると、その選択は自明だった。
「出口を探します」
「・・・だな」
「同意。だが、ロロ殿とミュラー卿の安否が気がかりですな」
私の言葉に、クルトとハルトマンが応える。
「残念ですが、合流を念頭におけるほど、状況は易しくないように思えます。あの怪物は、腕力でどうにかできる様子ではありませんし。ですが、逆にそこが彼女らには有利かも知れません。他らなぬロロ=ノアと、賢いミュラーのこと。上手く切り抜けてくれると信じます」
そう、思うしかなかった。ここにいる七人だって、どうなるか知れないのだ。来た道を戻ってまた遭遇した時、今度も無事走り抜けられるとは限らない。そもそも、暗闇の中で闇雲に走ったせいで、完全に道を見失っている。暗中模索、このまま、もう少し先に進んでみよう。ここは迷路ではなく、回廊のような造りで、出口までは一本道しかない訳ではないはずだから、怪物を迂回しつつ出口を探すしかない。それでも、避けきれずにあの赤い水の悪魔のような敵に遭遇したら、その時こそは一か八か、私がこの魔剣で斬りつけてやるのだ。
松明を二つに分けて、服を切り裂き再び束ね直す。明るさは大して変わらないが、燃焼時間は落ちるだろう。灯りが消える前に、出口を見つけねばならない。小さくなった松明は、持ってあと二刻程度。
暗闇の通路を密集し、前後を警戒しながら進む。
湿気が増しているような気がした。
通路はくねくねと曲がりながら先へ伸びている。その道すがらにある扉も一つひとつ開いて確認していく。半刻ほど過ぎたところで、通路は“終点“へと行き着いた。
掘り広げられた空間は土がむき出しになり、中央に穴が空いている。穴の周りには柵が設けられている。誤って転落しないためだろうか。穴の底は柵の外からは見えないが、うっすらと赤い光が漏れている。湿気と熱気も充満していた。
直感で解る。ここは最深部だ。そして他に道はなかった。
貧血に似た、絶望感が訪れる。
皆、言葉を無くして立ち尽くした。
私たちは、逃げ延びたと思った時、すでに追い詰められていたのだ。
「蛮族の死体があるぞ」
クルトが見つけたそれらは、もはや死体ではなく、抜け殻だった。身体のほとんどが失われ、錆びた短刀や棍棒、ボロ布とゴミのような装備品だけが残されていた。これが、追い詰められた獲物の末路かと思うと、目眩がしてくる。間も無く、ここに高価な甲冑や剣の山が、加わることだろう。
私はため息をついた。
意外にも皆、冷静だった。最早慌てることすら諦めたという気持ちだろうか。
お目溢しは、無かった。
土の中から、ゆっくりと、そして大量の水柱が音もなく立ち上がり始める。ソレらは、松明の光を浴び、動くたびに反射して、ぬめぬめと光る。
喉が、ヒリヒリと乾いた。
私の中にある何かが、悪寒でもって危険を知らせてくる。
役に立たない第六感とやらに、私は思わず鼻で笑った。
「さぁ、いよいよね。円になって。まず私が斬りつけてみる」
「頼りにしてるぜ。こんなところで墓をこしらえても、誰にも見舞いに来てもらえそうにない」
クルトはこんな時でも、いつもの軽口を叩けるのか。できれば、主従関係ではなく好意で力を貸してくれたクルトとハルトマンには、私に付き合わずに生き延びてもらいたい。
彼らのためにも、最期の時まで精一杯、足掻こう。
駆け引きなどもなく、余興もなく、前口上すらない、ソレらはまるで単純作業をこなすかのように、近くから出現した柱から順繰りに襲いかかってきた。
父さん、力を貸して!
私は踏み出さずに、その場で袈裟斬りにする。
手応えを例えるならば、それはカブ程度のものだった。切り落とした先は、地面に落ちると光を失って水のように染みを作った。クルトが切った時とは、明らかに違っていた。あの時は、ゼリーのような立体感を保ったまま、床の隙間に吸い込まれたのだ。
「良し、いける!」
だが、水の柱の襲来は止め度が無かった。力を込めずに素早く、何遍も刃を振るうも猛攻が止むことはなく、気付けば大穴の淵まで押されていた。このままでは、穴に飛び込むしか道がない。騎士たちも、相手を無力化はできないまでも、液体の形状を崩すことで攻撃を凌いでいた。
ふと、その猛攻が止んだ。
反撃に必死で、いつの間にか松明は失っていたが、穴の底から発せられる不気味な赤い光の照り返しで、味方の無事を確認できた。
身体中が痛む。気づかないうちに、水の攻撃を幾度か喰らっていた。身体中に滴る赤い液体は、敵の身体の一部なのか、あるいは私の血液なのか・・・。
水柱は襲って来ない。まるで、完全に包囲し、後一押しで穴に落とし込めるぞと、舌なめずりでもしているかのように感じた。
「なんだ、インターバルか?」
束の間の休憩を生かし、騎士たちは力んだ腕や肩をほぐし、疲労の回復に勤しむ。
水柱が減っているように思えた。・・・突破するかッ!?
そう思った刹那、絶望的な光景が広がった。ほんの一瞬の間だけ置いて、先ほどよりも増して、大量の水柱が姿を現し、広間を埋め尽くしたのだ。目の前が暗くなる思いだ。
「いよいよ本気を出したってとこか?」
騎士たちが武器を構えて私の横に並び立った。
「ごめんなさい。こんな地の底で、名誉も意味もない戦いに巻き込んでしまって」
騎士たちは声を揃えて返してきた。
『名誉と意味なら、ある!』
私の騎士たちは戦意に満ちた表情で、武器を並べた。
私は胸の奥が、満ち足りた想いで熱くなるのを感じた。私の最期の瞬間がこの場だとしても、孤独と恐怖と絶望に怯えながら死ぬのでは無い。私は、私の騎士たちと共に戦い抜いて、力尽きるまで剣を振って死ぬのだ。
そうか。いよいよ、死が訪れる。
まだ、何も成し得てはいないけれど、普通の女ならば、辺境までたどり着く前にとっくに両手を上げていただろう。長年の剣の稽古は、無駄では無かった。騎士たちの献身と、稽古の成果。それだけでも、充分だ。
それに、私にはこれがある。
アインスクリンゲの陶器のような白い刀身を見つめる。
主人を失った魔剣が新たな所有者を求めて迷宮を造り、やがて冒険家が挑みにやって来る。そして、いつの世か、私たちの生きた証を見つける事だろう。それは何十年、何百年先の話となるにしても。この魔剣が人を呼んでくれるのだ。寂しくは、ない。
水柱が静かに、しかし強烈な殺意を込めて、一斉に襲い来る。
大きく振りかぶった騎士たちの剣先が、それらを叩き切る直前に、赤い水に大きな裂け目が生まれた。まるでダンスを踊るかのように、同じタイミングで左右に半円形の形に変化し、トンネル状の空間を作ったのだ。そこから、騎士と男装の麗人が飛び出して来る。
「穴に飛び込んで!」
「ロロ!」
私と騎士たちは、後先考える事もなく、通り過ぎる彼女らに続いて、大穴に身を投げ出した。続いて浮遊感と、激しい痺れと痛み。甲冑の小山が出来上がった。
「がぁッ。足を挫いた」
ボルドーが呻いた。
見上げると、赤い光に照らされた天井に、ぽっかりと空いた黒い空洞。五メートル近く落下したようだ。
「今は、動揺しているはずですが、すぐにでも襲って来ます。奥に移動しましょう」
美しいエルフの女性は、私の手を引上げながらそう告げた。ほっそりとした体躯からは想像できない力強さを感じた。他の騎士たちも互いに助け合いながら、起き上がっていた。
「骨を折った者は?」
痛みに呻きながら、問題なし、と皆が返す。今さら、多少の怪我はどうでも良い。
「どう言うこと?動揺って?水が?」
「歩きながら説明します。奥へ進みましょう」
ロロとミュラーは文献を調べ、わずかな断片情報から推測した。そのあらましは、こうだ。
古代王朝時代、未知の巨大生物が人々を襲った。討伐隊がその住処である地下に向かったが、成果得られず、ここに退治を目的とした研究施設を作ったらしい。そして、完成したのが青く光る小瓶。先ほどは、この中身をぶちまけたのだという。
「謎の巨大生物ってか!揚がるな!」
いつもよりも輪をかけて、頭の悪そうな事を大声で言うクルト。死を確信した直後で、興奮しているのね。
「それがあれば、あの水を倒せるのだな?」
しかし、ハルトマンの希望的観測をミュラーがへし折った。
「絶対数が足らないようです。量産を始めた記録を最後に、手記は途絶えていました」
「結局、出口を探すしかない訳ですな」
ボードワンは自らの神の名を唱えながら、そう呟いた。
「いや、残念ですが、相手はそう甘くはありません。すでに研究施設は水の怪物で溢れ返っていて、ミュラーと二人、進める道はここへ続くものだけでした」
「それって、つまりは・・・」
「相手の意思により、我々も追い込まれたのです」
「つまりは、進む先は死地って事か。これ以上、歩く意味あるのか?」
クルトの痛烈な指摘。
「まぁ、落ち着いて。私に考えがあります。一度、この目で見れば、その考えを裏付けできるでしょう」
「見るって、何を?」
「早速、見えてきましたよ。アレです」
巨大な地下空間全体を照らすほど、その光は満ち、満ち満ちていた。
それはまるで、巨大な地底湖を思わせた。ただし、揺蕩う水は、地層によって浄化された清らかな湧き水ではない。赤く仄かに光を発するゼリーのような粘体の巨大な塊だった。私たちの敵は、その古代から生き続けているらしい殺戮者の全容は、大海を悠然と泳ぐという巨大生物の鯨など、まったく比べようにもならないくらい、むしろそれらが群れを成して泳げるほどの、果てしない質量だった。
「詰みだろ、これ」
チェスの例えとは、意外にクルトも語彙が豊富なご様子だ。だが、流石に、私も思考がもう及ばない。これは、人の限界を超えている。
ロロは、意識を集中してその赤く巨大な地底湖を見つめた。
「・・・直情的で、悪意の無い純粋な生存本能と、しかし、それと同時に高位の思考能力・・・不思議な感じですね。頭は大人なのに、心は子どもといったとこでしょうか」
彼女には、視覚だけではない、何かを見て取れる力があるに違いない。精霊を見る、と以前話していた。しかし、彼女の顔は血の気を失い、青ざめていた。
私は地底湖の淵まで進み、ハッとした。湖の底には、より強く光を発する円形の物体が沈んでいた。まるでそれは目か、脳を連想させた。距離感が判らないので判然としない。手のひら程度の玉にも見えるし、三階建ての屋敷くらいにも見える。
ロロが言った。
「あそこに向かいます」
「・・・はぁ?」
思わず、私がそう答えたのが最後となった。
まるで、ロロの声を聞き取ったかのように、地底湖の水面がざわめき出したかと思うと、集団ダンスを踊るかのように大きな波を起こし、次に一斉に伸び上がり、やがてそれは尖った触手となって頭上より襲い掛かって来た。
あれらが、落ちてくるのか?
「後ろからも来ているぞ!盾を構えろ!」
クルトの叫びが、轟音と水圧に押しつぶされる。
板金を貫通できないと言っても、埋もれてしまえば何もできない!
粘りのある重い濁流が、足を掬おうとする。
両足がまるで酸に触れたように、激しく痛んだ。
最早、視界に映るものは全て、真紅の光の渦だった。ボルドーが水に足を掬われ倒れ込み、続いてルキウスまでも、たちまち赤い水に全身を呑み込まれる。ロロとミュラーが小瓶の中身を巻くと、水蒸気を上げながら、赤い水は一斉に後退するが、二人の姿は、まるで洪水の流れに呑まれていくかのように引き離され、たちまち見えなくなってしまった。
倒れたら、最後だ。口から、目から、鼻から、耳から、身体を溶かす死の水は、私を殺す。だが・・・もう無理だ。
「ロロ=ノアよ!瓶を全て俺によこせ!」
ハルトマンが叫んだ。水の動きが一瞬、止まる。
ロロの元へ駆け寄ったハルトマンが、小瓶の入った革袋をひったくると、その一つの栓を口で抜き、弧を描くように撒いた。青い水には、よほど耐え難い何かがあるのだろう。赤い水が一斉に後退し、地面が露出した。刹那、騎士は走り出した。いや、半ば水に飛び込む、といった方が正解か。私たちは、すぐに水の輪に囲まれて彼を見失った。
しかし、水は包囲するだけで襲ってこない。
この時、ようやく理解した。
この大量の液体は、すべてまとめて一つの生命体だ。最も危険な脅威のみを、最優先に対応しようとしている。ハルトマンの援護をしなければ!私は包囲する水の壁に、何度も斬りつけた。意味があるのかどうかは、判らない。ただ、必死に何度も斬りつけた。
その水の壁から、ハルトマンの絶叫が、小さな波動となって伝わってきた。
「我亡き後は、我の従者を頼みますぞ!」
周囲を覆っていた赤い粘体は、一斉に形を保つ力を失い、膨大な質量の水の濁流へと、姿を変えた。唸るような濁流に放浪されながら、私は未知の生命体の最期を悟った。
雲ひとつない空に、ひばりが天高く囀っている。
あんなに高くては、会いに行く恋人も大変だろうに。
最後に私たちを襲った脅威は、甲冑を纏ったままの水没だった。その間抜けな死に際を、エルフの魔法が救ってくれた。それは、不思議な経験だった。水の中で、呼吸ができたのだ。水から上がったあと、肺に入った赤い水を吐き出すのに死ぬ思いではあったが。
ハルトマンは、一命を取り留めた。水の中で左の眼球を溶かされていたが、全身に受けた切り傷と火傷のような痕は、彼の従者がもつ治癒の力と、ボードワンによる奇跡の行使によって回復し、峠を越えることができた。治癒に全力を使い果たしたボードワンが、その隣で気を失ったように眠っている。
全員が、満身創痍だった。
それぞれの従者たちが、主の帰りを出迎え、傷の手当てをしていた。
この戦いで、オランジェ、ノイマン、シュルト、ボルドー、ルキウスの五人の騎士が姿を消していた。私はその従者たちに主の死に際を語り、今後の身の振りをそれぞれに訊ねてまわらねばならなかった。しかし、国を追われて来たのは、彼らも同様だ。単身、敵地と化した領内に戻ろうという者はいなかった。私は、彼らを直属とした。
それから二週間ほど村に滞在し、傷を癒しつつ、村長と数人の有力者たちとの間で、統治についての取り決めを交わした。驚いたことに、村の名前は存在せず、便宜上、命名する必要性から、私は“ハルトニア“と名付けた。これを提案したのは、意外にもロロ=ノアだった。
ボードワンは、騎士たちの墓を拵え、葬儀を取り仕切り、それらがひと段落すると村の神殿に出向き、内装を改築し、信者を集めて教義を始めていた。何でも、長く辺境として独自の生活を送って来た彼らの“剣の神への信仰“は、枝葉が育ちすぎて、神への祈りが届きにくい教義へと変貌していたという。私にはよく分からないが、もつれた糸をほぐす事により、効率的に神の心と繋がれるようになる、といったニュアンスだった。
そしてさらに二週間後、この地方に古くから人々を悩ませていた風土病を退治した“白の剣姫“の話は一帯に広まり、噂を聞きつけた近隣の集落から使いがやって来るようになった。
中でも、近隣で一番大きな街からやって来た、という代表団の話は強く興味を惹かれた。
前領主を殺め、正統な後継者を僭称する豪族によって横暴な振る舞いや、重税を科され苦しむ街を解放し、秩序と安寧をもたらす新たな領主としてお迎えしたい、という嘆願だった。
果たして、私は秩序と安寧をもたらせるのだろうか?私の辺境制覇の目的を知れば、彼らも内心穏やかでは無くなるであろう。私は、能力の許す限り、不条理や苦痛から人々を救い出し、共に豊かな日々を送れるための努力を惜しまないつもりだ。
だが、それは先の話だ。当面の安定した統治については、この村同様、代表者たちと、私とロロ=ノアを中心に案を出し合い、実施については彼女の超人的な手際が再び生かされるだろう。しかし、そのすぐ先には、大いなる戦乱が待ち受けている。
私がそれを望んでいるからだ。私と私の騎士たちは、この地を基盤として新たな軍勢を立ち上げねばならない。それからしばらくして、私たちは人々から、“辺境騎士団“と呼ばれるようになる。私はその団長というわけだ。
辺境騎士団の団長は、果たして、秩序と安寧をもたらす統治者なのか・・・。
魔剣を抱きながら、私は寝台で自問した。
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