伸ばされた腕

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【旅の記憶】


 暗闇の中、耳元で囁く声で目が覚めた。

「ディラン」

「ん……」

 目をこする。まだ冴えない視界。感じる温もり。

 伸ばされた腕が首に絡む。常盤色のその瞳と目が合った。

「てぃり……す?」

 夢だろうか。ぼやけた視界の中の彼女は目を細めて微笑んだ。腕の中にいる彼女の服は薄く、触れた腕に肌の柔らかさが伝わってきて思わずひっこめると、その手を彼女の細い指が絡み取った。陶器のような手がひどく白く見える。

「なにし、て」

「……ダメ?」

 鈴のような彼女の声は魅力的で煽情的だ。近づいた唇はしっとりとしていて、薄紅色のそれを受け入れると彼女の手が柔らかに僕の顔に触れた。

 なにかがおかしい、彼女の長い睫毛も、宝石のように美しい瞳も、潤った唇も、優しく囁く声も、髪からするせっけんの香りも彼女そのものであるはずなのに、ティリスがティリスである何かが足りないような気がしていた。ぼんやりとした思考はまだ定まらない。

「ディラン?」

 彼女のうるんだ瞳がこちらを見上げる。違和感。ティリスはこんな表情をしたことがあっただろうか。

 沈黙。今すぐ抱き取ってしまいたいその衝動を押さえながら僕は思考を巡らせた。

 魔力の気配がない。あれ、魔物除け。つけてなかったっけ。

 彼女を見つめると不思議そうな顔で首を傾げていた。

 そうか、砂漠の魔物。一人旅をしている者を襲うという魔物の噂を聞いたことがあった。その者の好みの異性に変身して近づいてくるそれは心を許した瞬間、元の姿となって獲物を食らうのだ。

 彼女を引き寄せる。縛っていない髪は絹のようにしなやかで丁寧に紡がれた糸のようだ。こちらを見上げた彼女は何かを期待しているように見えた。

「ティリス」

「なあに?」

「愛してるよ」

 彼女が微笑んだ。そして次の瞬間、それは苦痛の表情に変わる。背中に刺さったナイフ。寝床にいつも置いているものだ。

「ッ……え?」

「何かが違うと思ったんだ。君はティリスじゃない」

 白い服に広がっていく赤。傷口を押さえて愛しい人を騙ったその魔物は笑った。

「残念だわ。普通の男ならすぐに抱いてくれるのに。こん、な……愛する者に変化したほうが簡単だと思ったのだけれど、とんだ誤算ね」

「そうだね。僕の愛する人には到底及ばない」

「ふふ、悔しいわ。じゃあ最後に呪いをかけてあげる。この子はね、あなたが殺すの。あなたはこの子を助けられないのよ」

 魔物は血に塗れた手で僕の顔に触れる。その手が離れると同時に指の先から黒い煙となって消えていく。満足そうな笑顔。


 魔物が絶命した時の嫌なにおいだけが、その場に残っていた。


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【手記】


D.1353 落翠の月12

ペペ砂漠途中のオアシスにて


 好みの異性に変身する魔物に襲われた。

 ティリスが死ぬ姿を見るのはこれで何回目だろうか。


──ああそうか、デュラムが心配していたのは僕のことか。




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