望郷②

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【旅の記憶】


 その後、陛下に呼ばれていた僕はいつもの部屋──陛下の書斎を訪れていた。

 書斎にはまだ誰もおらず、山のように集められた本が所狭しと並んでいる。

 ここに始めてきたのはまだ僕の両親が生きていた頃だ。まだ幼かった僕が王立図書館で本を読んでいた時に陛下が声をかけてくれたことがきっかけだった。


「そなたは街の子供か?」

「うん! おじさんはだぁれ?」

「本を読むのが好きなおじさんだよ。私はクラウディウス。そなたは?」

「僕はディラン! それじゃあおじさんと僕は本が好きなお友達になれるね!」

「ははは。そんなに本が好きならとっておきの場所を見せてあげよう」

 そういって彼はこの書庫まで連れてきてくれた。穏やかに微笑んだ陛下の笑顔はとても優しかったことを覚えている。

 初め陛下がこの国の王であるということを知らなかった僕は何も考えず書庫に出入りしていた。お城にあるなんてすごいなぁぐらいにしか思っていなかったが、ある日騎士団業務で城にいた両親と鉢合わせた。その慌てようをみて、ようやく彼がこの国を治めている人だということを知ったのだった。

 それからは人目を盗むように彼の書斎に行っては本を読んだり、陛下の時間があるときは彼に魔法を教えてもらったりしたのだった。

 その時間は幼い僕にとってなによりも心を躍らせてくれるものだった。

 両親が亡くなった後も、陛下は僕のことを見捨てたりはしなかった。彼自身にとっても両親は大事な部下だということもあったのだろう。

 フィリスさんに引き取られた僕はロナウドが落ち着いている時間は陛下の書斎で過ごすことが多かった。ここは、僕にとって数少ない心休まる場所だ。



「なにか、思い詰めているようじゃな」

 不意に、包み込むような優しい声が聞こえた。

 紫色のその瞳はいつも僕の心を簡単に見透かしてしまう。

「お前の話を聞いてやりたいが、その前にお前を呼んだ理由を聞いてほしい」

「はい、陛下」

「この国は大きな国じゃ。この大陸中探してもここまで大きな国はない。そんな国には民を束ね、導いていくものが必要だ。私には世継ぎがいない。それは知っておろう。おぬしが察する通り、一国を束ねる者の世継ぎがいないということは国にとっては深刻な問題じゃ」

 そこでだ。と、彼が僕の目を見つめた。

この目は彼が大事なことを伝える時の目だ。


 両親が死んだときも、彼はこの目で僕を見つめ、そのことを伝えてくれた。

「そなたは昔から私とよく会話し、騎士となってからは良く従ってくれた。そなたも私を慕ってくれていると思っている」

「もちろんです陛下」

「……うむ。そして、私はそなたに私の世継ぎになって欲しいと思っている」

世継ぎ……。陛下の発した言葉が無意識に頭の中を駆け巡る。

「私の息子となり、婚姻の儀が近い彼女と結ばれ、子を授かり、ゆくゆくは私の玉座に座り、国を統べる王となる。ディラン・クラウディウス・スターリン・フォン・ディクライットとして、誰もが慕う立派な王に」

「陛下……」

「どうかね? 悪い話しだとは思わない。私はそなたなら立派にこの国を治めてくれると信じている。それに遠縁ではあるが、お主にも私と同じ王家の血が流れている。そしてこれは私的な欲というものだが、私はそなたの、父となりたいのだ」

 父、という言葉に、僕は揺らぐものを感じた。

 両親が亡くなってからというもの、心の支えとなった人の一人は彼だった。しかし……。

「大変身に余る光栄なお話でございます」

「そうか、なら……」

「しかし、私にはその申し出をお受けすることはできません」

 陛下の穏やかだった表情が少し曇る。僕は彼の言葉を待った。

「……それは何か理由があってのことか? たった一人の肉親、そなたの弟のことが心配なら、彼のことは大丈夫だ。お前が名を変えた後は彼も私の家族としてその地位は保証しよう」

「弟のことまで……ありがとうございます。確かに、弟のことは気にかけてはおりますが、彼はシェーン教の教会に入れる予定です」

「そうか、それはそなたがこの申し出を受けられない理由と関係があるのだな」

「はい、陛下。申し上げます」


 そして僕は自分が愛する人を助けるため、旅に出なければならないこと、そのために陛下の申し出は受けられないということを告げた。

彼は僕が旅に出、そして戻ってくることを待ってもいいと言ってくれたが、そんな甘えたことはできないというと、首を縦に振ってくれたのだった。


「一つ、話をしてもよいだろうか。私が昔、いや今でも、唯一愛した人の話だ」

「亡くなった王妃様の話ですね」

「ああ、我が妻、リアナはディクライットのはずれにあるラインフェルデン家という貴族の娘だった。燃えるような赤い髪に、青い瞳。とても美しい女性だった。私は一人息子で、その当時血脈が当たり前のように重要視されていた時のことだ。いくら貴族とはいえ彼女は王家の分家ではなく、王の血は引いていなかった。しかし私は一目彼女を見た瞬間、彼女に心を奪われてしまったのだ。その時私はまだ王子だったが、彼女と密かに恋文を交わし、自らが王となるその時を待った。彼女にほかの貴族の男からの縁談の話を持ち掛けられたときはまるで心臓がとまる思いだったよ。しかし彼女も強情な人でね、自分を一生幸せにすると今この場で誓えるか? と相手に詰め寄ったそうだ。自らになびかない女などいないと思っている大抵の男はそこで怯んでしまう。大した覚悟のない人ばかりね、と彼女が悪戯そうに笑っていたのをよく覚えている。かくして彼女の気の強さと私の忍耐により、私たちは結ばれることとなった。もちろん血筋を気にする様々なものが反対した。が、皆の心配をよそに、彼女との生活はこれ以上ないほどに幸せなものだった。しかし、幸福とはそう長く続くものではない。間もなく彼女は重い病気にかかった。子も授かっていない時期だった。ありがとうと言った彼女の幸せそうな笑顔が、最後に見た彼女の表情だった。私の手を固く握ったまま」

 彼の表情が、今は亡きその人を見つめているような柔らかいものになっていた。

「諸侯らは、私が十分に喪に服した後、すぐに新しい妃を迎えられるようにと準備していた。王家には世継ぎが必要だ、それはわかっていた。しかし、私には彼女以外の女性を愛することはできなかった。愛さずともいいというものもいたが、私にはそれも難しいことであった」

「陛下、私は……」

「これだとおぬしを責めているように聞こえてしまうな。決してそのようなことはない。私もおぬしと同じなのだ。愛する者のことを諦められないところが。だから私にはおぬしが旅に出ることを止める権利はない。おぬしが愛した女性を守るため、全力を尽くせ。そしてどうか無事に戻ってきてほしい。ディラン。たとえ名の繋がりを持つことができなくとも、お前は、私の息子であると思っている」

 陛下の言葉の途中から、僕は返す言葉を失っていた。この人はこんなに僕のことを思ってくれていたのだ。もしこんなことにならなかったら、僕は彼の息子としてこの国を導いていく立場になったのだろうか。

「ぼくは……必ず、必ずここに戻ってきます。そしてその時には貴方の役に立つことをしたい。そう思っていても良いでしょうか」

「もちろんだ、ありがとう。……気をつけて行ってきなさい」

 陛下の手がゆっくりと伸ばされ、僕はその手を固く握りしめた。思ったよりもシワが刻まれたその手に目頭が熱くなる。


 そうして僕は彼にも長い長い別れを告げたのだった。

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