死霊との契約

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【手記】

D.1356 新雪の月2

集落から遠く離れた場所で


僕は、禁忌を犯した。

死霊との契約。それは禁じられた魔法だ。

最後の希望だった。しかし、死霊は契約を結んでくれなかった。

僕を含めて、九九九人の命など、僕に奪う権利などない。

僕は、自分自身の力で、彼女のことを救って見せる。

彼女の父が彼女を深く愛していたように、僕も彼女を愛しているのだから。


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【旅の記憶】


 その時の僕は焦っていた。

 その後、幾度かエスラティオスの助けがあり、アルベルティーネの痕跡を追いかける日々だったが、一向に彼女の尻尾を掴めそうになかった。

 アルベルティーネはエスラティオスがリタの魔道士の野望を阻止すべく動いていることを知らないようで、彼に話した情報がいくつかあった。その中にティリスにかけた呪いのことが入っていたが、なんと九年の月日が経たないと発動しないものだという。

 それは紫水晶とはなんら関係ないものだが、僕の行動と照らし合わせてもっともらしい理由をつけたのだろうとエスラティオスは言っていた。

 九という数字は魔法を学ぶものの中では最大数字と呼ばれている。それほど長い年月を経て魔力を蓄積させなければならないほどアルベルティーネが人を殺す力は弱いのだという。

 未来を見る力がある彼女だが、未来を見る度に彼女の視力は悪くなり、長い時の間何度もダンケルヘルト復活の手がかりを得るためにその力を使い続けた。今はほとんど盲目に近い状態だという。ましてや正面から剣聖になるほどのティリスに挑んだところで負けるのはわかっていたため、このような回りくどいやり方をしたのだろうという。と、いうことはだ。僕は九年のうちにティリスを助け出さねばならない。

 およそ九年前、ティリスの髪色が紫色を帯びたのは、新雪の月が終わるころだった。長くとも、彼女の命はあと一月も経たずに尽きる。

これだけは使わないようにしよう、と思っていた選択肢が僕には一つだけあった。

 死霊との契約。それは魔導士たちの中でも禁忌とされるものの一つ。


──願いを叶えてもらう代わりに、恐ろしい代償を支払う。


 その方法を知ったのは陛下の書庫でのことだった。

 王立図書館で禁書とされている物のいくつかは陛下自身が保有するものもあり、死霊について記された書物もまた、その中の一つだった。それを閲覧した時には陛下にかなり厳しく叱られてしまったが、当時の僕の好奇心を止めることはできなかった。陛下に隠れて隅々まで読んだその本の中身はきっちりこの頭の中に入っている。

 材料を手に入れるだけ。それだけで僕は死霊を呼び出す儀式ができる。




 かくして、儀式の準備は整った。

 実はこの魔法の準備をするだけなら、それほど難しくない。揃えた材料で描いた魔法陣の中央に立ち、左手の甲にナイフで印を刻む。血潮が手に滴るが、そのまま魔法陣の中心に傷つけた手を押し当て、呪文を唱える。

 痛みと共にこれまで使ったどんな魔法よりも自分の中の魔力が奪われているのが分かった。

 きっと、この魔法の準備が容易いのはこれが理由だ。ここで大量の魔力を術者から奪うことで、疲れた術者に対して死霊たちが優位に取引を進めることができるのだろう。

 滴った血がじわじわと魔法陣の形に沿って広がっていく。そこから煙のように血の色が浮き出る様子は、どこか生き物のようだった。その時、気配を感じた。

 煙がまとまり、一つの塊を形成する。一つになった影が、人の形を為していった。煙が消え去った後、それは言葉を発した。

 人間の声だった。どんなにおぞましい声を発するのだろうと思っていた僕は拍子抜けしてしまった。

 それに、どこか懐かしい響きのする声だった。

「面食らった顔だな。何か叶えたい願いがあって呼び出したのではないのか?」

「あ……ああ、僕はディラン。ディラン・スターリン。ある目的のために力を貸してほしくて呼び出した」

「間違いではなくてよかったよ。取引をするのが私たちの仕事だ。さぁ、要件を聞かせてもらおう」

「では単刀直入に言う。ディクライット王国の騎士団長であるティリス・バスティードという女性にかけられた呪いを解いてほしい」

「ティリス……」

「……なんだ?」

「すまないが、それはできない」

 死霊の声色が少しおかしかった。まるで泣いているかのように少し震えている。

「どういうことだ?」

「その件には別の死霊との契約が絡んでいる。交わされた契約に関わるものには容易に手を出してはいけないのだ」

「他の死霊? 死霊は一体だけではないのか」

「死霊は、初めは一体だった。だが、仲間を欲した死霊は願いを叶える代わりに何年かの猶予を与え、その後死霊となるという条件を提示することがあった。それによって仲間を増やしてきたのだ。」

 自らの願いのため、死霊になる。なんと恐ろしい契約だろう、だが。

「僕の願いを叶えてくれるのなら命だって惜しくはない。死霊となってもかまわない。それでも、彼女を助けてはもらえないのだろうか」

「……あの子の周りには愚かな男が多いな」

 この死霊は一体何を言っているのだろうか。この死霊はティリスを知っている。何故。

「死霊が絡む契約はその他の死霊にとってはとてもリスクが高い。場合によっては私がこの契約を交わしたことにより、私自身の存在が脅かされるかもしれない。……しかし」

「しかし? 方法があるなら教えてくれ。僕はどうしても、彼女を死なせたくないんだ」

「お前の命だけでは足りない。九九九人。お前の分は一人引いてもいい。それだけの人数の魂。それを用意できるか? 私にとってはこの仕事がおそらく最後の契約になる。お前が助けたい人間の契約をした死霊を殺さねばならないだろう。そのためにはそれだけの人間の魂を得ないと割りに合わないというものだ」

 九九九人の命。自分の頭の中でその言葉が繰り返された。たった一人のティリスを救うために何の罪もない九九九人の人を? 僕は……。

「僕はティリスを助けたい。だが、自分以外の人間の命を使ってまでは……できない」

 死霊は黙っていた。それはなにを考えているのだ

ろうか。条件を飲まないものを殺すか、より良い条件を提示しようと考えあぐねているのだろうか。

 だが僕の答えは変わることはない。ティリスは僕にとっては唯一の人だ。しかし、ティリス以外の全ての人間も、誰かにとっての唯一の人。その命を、魂を理不尽に奪うことは僕にはできない。僕はエスラティオスから、それを学んだのだ。

「契約は、できないな」

 死霊の声だ。諦めに近い呟き。契約ができないなら、どうすればいい。魔女は見つからないし、万策尽きた。僕はどうやって、ティリスを助ければいいのだろうか。

「……これは私情だが、聞いてほしいことがある」

「聞いてほしいこと? 死霊が契約を結ばない僕に、何を聞いてほしいというんだ」

「……先に言った通りだ。私も、かつては人間だった」

「……どんな願いで、そんな」

「君のように大切な人のためを思っての願いではない。私は私利私欲のために死霊と契約をし、このような姿になることを良しとした。ただ、人間の欲というものは恐ろしいもので、私は願いを叶えて一番欲していたものを手に入れた後、ある素晴らしい女性と出会った。彼女と私は結ばれ、娘が生まれた。それはそれはかわいい子だった。しかし、私の命の期限は迫っていた。娘との幸せな時間を延ばすため、ありとあらゆる手を使って死霊達を自分から遠ざけた。しかし、自業自得だ。契約をしたのは私なのだから。かくして、私は死霊となったのだ」

「そう……なのか。でもなぜ、僕にそんな話を?」

「……私が愛した娘はティリス。フィリス・バスティードとの間に生まれた娘だ。私は、君が必死に助けようとしているあの子の父親なのだよ」


 不意に僕が描いた魔法陣が輝き出した。僕らを包み込む黒い光。


 歌、歌が聞こえる。優しい歌だ。僕はどこかでこれを聞いたことがあった。ああそうか、ティリスの家だ。彼女の父は吟遊詩人で、たまに城でも歌っていた。だが僕が知っているそれとは少し違う歌声だった。

 思えば彼の歌は、いつも魔力が乗っていた。人を安らぎに導く魔法。それはニクセリーヌの人魚たちにしか扱えぬものだ。今はそれがなかった。

 視界が開ける。どこなのだろうか、祭壇のような場所に見覚えのある魔法陣。ああ、これは。左手に痛みが走った。これは彼の記憶だ。彼が契約した時の。

「人魚の歌を手にして世界一の吟遊詩人になれさえすれば、他にはなにもいらない、か。愚かな人間らしいな。よろしい、契約は成立だ。九年。得た力と残された生を謳歌しろ」

 黒い光に包まれていく。契約の印は手にしっかりと刻まれた。残された彼が歌ったその旋律には、紛れもなく、魔力が乗っていた。

 場面が変わった。澄んだ湖畔、月の綺麗な夜だった。歌を歌っていると木の影から誰かが覗いているのが見えた。若かりし頃のフィリスさんだ。彼女は目が合うと恥ずかしそうにこちらに近づき、そして素敵な歌声ね、と微笑んだ。

 それからは幸せな情景の連続だった。彼らは愛を誓い、子を授かった。生まれたのはたまのように愛らしい女の子で、花に似たその髪の色から、名をティリスと名付けた。

 僕の両親とも彼らは仲が良かった。お互いの子供が将来一緒になれば家族だななどという冗談も言い合った。そうなるはずだったのに。彼は僕ら兄弟にもよく歌を聞かせてくれていた。

 ティリスたちは何故か街の外れに住んでいたが、それは死霊の契約を街のものに悟られないようにするためだった。彼に残された時間はあとわずか。

 夜毎彼を連れて行こうと扉を叩く死霊たち。怯えるティリスと泣くフィリス。彼女は行かないでほしいと懇願したが、契約を破る手立てはなかった。死霊を遠ざけようと様々な方法を試し、愛する二人と過ごす時間を少しでも伸ばそうとした。しかし、ついに時は来たのだ。

 ある明け方のことだ。彼はティリスに忘却の魔法をかけるために歌を歌っていた。その言葉が紡がれるごと、安らかな寝息を立てる愛する娘の記憶からは父の姿が抜けていく。

 空を埋め尽くす死霊たち。皆が彼のことを待っていた。新たな仲間。同じ罪を重ねてきたものたち。

 こちらに伸ばされた手を取った時、彼の姿は死霊へと変わっていった。薄れゆく意識の中で、彼は自分に向かって愛してると告げる、最愛の人の姿を見た──。




 いつのまにか、黒い光は消えていた。目の前には死霊が一体。

「え、えっと、ハンネスさん……ですか? 本当に?」

「ああ、ハンネス・バスティード。それが死霊となった愚かな男の生前の名だ。最も、今の姿が死んでいるのか生きているのかは微妙なところだが」

  影のようなその姿が揺れる。

「久しぶりだね、ディラン」

「ティリスは……」

「ああ、ひどい父親だ。忘却の魔法はフィリスがかけ続けている。しかし、記憶とは我々の魂にこびり付いたかさぶたのようなものだ。ティリスもいずれは知らなければならないだろうな」

「愚かな男とは、ご自分のことを言っていたのですね……」

 しばしの沈黙。自身の罪によって最愛の娘との時間を失った彼に、僕がかける言葉はなかった。

「私の力では、あの子を助けることはできない。それほど死霊と交わす契約というのは重いものなのだ。正統な対価を使わないと、私達死霊は力を行使することはできない。あの子の呪いは、術者の魔力をじわじわと削って九年の時が満ちた時にその命を奪うものだ。彼女の命を代償として、君の命を奪うという契約を君が探している魔女は結んでいる。あの子が死ねばその魂は魔女のものとなり、その魂を使った死霊との契約の元に君も死んでしまう。その日は新雪の月の二七日だ。それを防ぐ方法は一つしかない。術者──薔薇の魔女を殺すことだ」

「僕を殺すために、ティリスの命を……」

「君に直接手を下すのは魔女にとっては難しいことなのだろう。ましてや君たち二人には味方が多い。君たちの周りの人間をだまし続けながら君たちだけを殺すためには、紫水晶の呪いだと誤解させる必要があったのだろうな。……君には申し訳ないが、どうかあの子を救ってほしい。父親としての義務を果たさなかった私の、せめてもの願いだ。薔薇の魔女の居場所は知っている。その場所を教えよう。……君が私と同じ道を選ばない青年でよかった」

「……ありがとう。きっと、僕が彼女を救います。そしていつか、あなたのことを話せるように……」

「ああ、そのうち。君に祈りの詩を捧げよう。どうか君がティリスを救うことができるように」

 そういって彼は美しい旋律を紡ぎ出す。いつかティリスと僕が大喧嘩をした時、彼は二人を平等に叱ったあと、この歌を歌ってくれた。


 ずっと昔の思い出。優しく、切ないその歌声を、僕はしばらくの間聞き続けていた──。

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